『遠い』#289

何が遠いって、365が遠い。Tumblrのときも書くのに手こずってはいたけれど、淡々とその日に書けることを書いて写真を付けたりして何だかんだ1年(年始は数日のビハインドが発生したけど)連ねることは何だかんだ「あぁ1年経ったな」って軽く思えるくらいには楽な気持ちで連ねることはできていた。
いまのスタイルは、一単語について千文字くらいって縛りを設けているからか、文字量としても話題的にも不自由なところがある。ただ、制約なしの全くの自由にされるとそれはそれで取りつく島が無いわけだから不自由が悪いとは言えない、し、不自由が嫌だってわけではない。ただ、通し番号を付けていることで一つ一つの区切りが先に待っていることがわかるから、記念的でない通し番号のとき書くことに夢中になれないことが、ときどきある。それが今のタイミングで、365に遠いのはもちろん、300までだって、やっと残り11にまで迫ってきたけれど一つ一つ歩んでいくにはおよそ一万一千の文字を連ねて文章を編むことになるわけだから、大きな数字が心理的な遠さを増大させる。
四国の八十八カ所遍路を歩いていたときにも、距離的な遠さと歩数的な遠さと時間的な遠さとでキツいなと思ったことが何度かあった。目的地まで歩くこと全般に、当然ながら、疲れたら止まって休めばいい。体力と気力を蓄えて、また歩き始めればいい。シンプルなことだ。しかしだ、歩いているときには大きな葛藤があるのだ、止まることには。止まれば休めるけれど、止まったら目的地への距離は一切縮まらない。目的地まで全く近づかない。当たり前だ。当たり前なんだが、歩くのを止めたらその点で目的地との距離はまったく縮まらない。目的地までまだまだ遠く、歩いて歩いてわずかながらにも近づいているところで、重たい心境と疲労感で立ち止まってしまうと遠い距離が一切縮まらなくなって、遠さが固定される。遠いままの距離が眼前に残る。こう、反復とか言い換えとかで強調するような言葉遣いで、止まることの怖さを書いてみたけど通じるのだろうか。
わたしとあなたとの、共感できる体感が、遠い。近づくために書いてみたが、遠い、遠いのだろう、か。
それでも、近づきたいのなら、遠いところだって一歩ずつ進まなきゃならないのだから大変。

#遠い #181003

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