『届く』#34
動詞は言いようで、日常生活のなか、そこここで「届く」を使うことができる。
田舎から野菜が届く。
落し物を交番に届ける。
手紙をしたためて想いを届ける。
食器棚の上の救急箱に手が届く。
トレイの裏まで清掃が行き届いている。
など。
そのようななか、今日は「家の近くのコーヒー屋さんのミルクコーヒーを友人に届けた」ということになる。経路の遠さと、目的地の外れ具合から、現地を断念したわけですが、中身に加えてパッケージもよいものが届いたような気がする。配達員はわたしで、中身とパッケージをマスターが。届く物は、その物だけでないことがしばしば。中身とパッケージと、絵心アンドまごころ。言いよう。
寒中見舞いを1月8日以降に投函する際には、年賀気分で52円のままでは届かない。うっかり送って返送されてくる事例を身の回りで数件聞いた。ただし年賀ハガキを使って送る際は、そのまま52円でいいという。
時間がいくらかできてから、多くの時間を本読みに使ってきた。積ん読がたっぷりあった本棚の上も、いっそうこんもりとそびえ、、伸ばす手も読み進めの速さもも届かぬ未踏峰が。そして、読むことが字の消化になることがしばしばあって、内容とか意図とか行間とか、文字以上の恣意が心やアタマへ届けられないことがときどきある。抜き書きしておいた部分しか手元に残らないというのは大変に虚しい。本に厳しく「残らないものは残らないでそれまでだ」と言うこともできるかもしれない。しかし読んでる最中に自分がひと呼吸おいて、疑問・問いかけ・問題意識を差し挟んで著者とがっぷり四つに組むような読書が、したい。いまだに私は、読書の心得として心酔している本は内田義彦氏の「読書と社会科学」(岩波新書,1985)である。具体的な指南は多くない。古典として読め、著者と共に歩む、読むに値する本を読め、、というような心がけを説いている。特に「古典として読め」は“古典”の解釈含め大変おもしろいし、ぐっと読書に期待を持たせてくれる。この本は私に、本の読み方、本との戦い方、本の選び方、多くの智慧を届けてくれた。
考えるのは、記していく千文字ほどの文章で、何を届けられるのか、何を届けるのをよしとするか、何が届いているのか、ということ。今のところ、霞。
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