『近い』#294
このあいだ『遠い』ことについて書いたとき、どうして書かなかったんだろう、と思ってることがひとつ。川上弘美さんの小説に「どこから行っても遠い町」というのがある。そのこと。
その小説はいくつかの短編でなっていて、ある町を舞台にしたいくつかの人物・まとまりにフォーカスした群像劇になっている。メインに据えられるのは商店街とそこにある魚屋、そこの主人とそこに居候している男性、二人ともそこそこに歳を経ていて、一人の女性に関してそれぞれに過去を持つ二人が、なぜか、同じ屋根の下(居候している男性は、魚屋の上に増築されたようなところにあいるから、同じ屋根の下とは言い難いが)に住んでいる。ロマンチックで劇的な恋愛話では無いし、むしろドライでいて少しアクのある話。父が女にだらしない息子の視点で書かれた話があったり、商店街でよく買い物をする女性の話があったり、よその視点が入る、絶妙な視座の遠さがあるのは川上弘美さんのクセのようなところかと思う。旅の話でもなければ、新参者の話でも無い。「どこから行っても遠い町」というのはいったいどういうことなのか、と考えさせられる。結論は出ない。たまたま近くにいるだけの、親しくも無い人間たちの、舞台をたまたま魚屋と商店街に設定して描かれた、ある町の話。
人と人との近さって、何を相対的な指標にするかで変わってくるから、例えば会話をするにあたって仕事づきあいの相手とならば手の届くか届かないかくらいの距離が無理のない近さであって、正面ならばあたまを下げるとぶつかるくらいとなれば近すぎるし、横並びでならば肩が触れ合うくらいになるとやはり近くて緊張感がある。カフェの席の配置とオフィスの席の配置とホテルのバーの席の配置はそれぞれに適切なパーソナルスペースが異なるために、席同士の距離は違ってくる。では人と人とが生活するにあたって、適切な距離、緊張のない距離、近すぎない距離ってどれくらいなのだろうと考える。
わたしはそのヒントに、先の「どこから行っても遠い町」の魚屋にいる二人に思い至る。完全な他人、もちろん面識はあっても家族ではない。そんな二人が暮らすには、きっと壁一枚では足りないのだろう。あくまで床一枚というか、平たく地続きではない位置にいることが大事なのかと思う。別の応え方をすると、扉で隔たっていること、そこだろうと思う。わたしは大学院で玄関を研究したけれど、まったく開放的でガラス張り&フラットな玄関は、領域として分かれていてもそこは外部でもある、そんな印象を与えると、思っていた。それは変わりない。
人と人との距離感に、何があれば遠くて、何が無ければ近いのか、そしてどうすれば、仲良くなりたい人とお近づきになれるのか、コミュニケーションに難のある自分は苦心する。
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