『割れる』#307

飲み物を用意しようとグラスを手に取ったら、手が滑って落としてしまい、かしゃんと割れてしまった。
このとき、自分がどんな場面にあるかによって、ものすごく心境に差があることを思って、すごくおそろしくなったのだ。
バイト先のカラオケ屋さんのキッチンに入っているときだとしたら、かしゃんっとやってしまったとき、「あっちゃー」だ。それからノータイムで倉庫に行って箒とちりとりを取ってくる。集めて割れ物ボックスにかしゃかしゃっと空けて、気持ちを仕切り直してドリンクをまた作り始める。心の状態を示す波は、割ってしまったときにピンっと上がったのちはまた、少しずつ落ち着いて穏やかな波に戻る。それから少し、ドリンクのオーダーが詰まっていたら波はさざめく。しかしそこに、割れたグラスからくる動きはもうない。
かしゃん。少しして別のグラスを割ってしまった。そのときには、下方向に波がすうーんっと下がって下がって、低い位置で波が揺れる。やってしまったなぁ、調子が悪いなぁ、とその日を憂いてみたりする。寒かったら手がかじかんでいることを勝手に理由づけしてみたり暑かったら手汗をかいてしまっているだのと手に濡れ衣を着せてみたり、割った自分の心情に目を背けながら動作を続ける。穏やかな他所から波が訪れるまで、うわ瞼を軽く落として冷めた目をして動く。時々はその逆で、「うわっちゃー」と大げさに驚いてみたりして波を無理やり上方向に跳ね上げる。沈んだ波動を元に戻すよりは、浮揚した波動を戻す方が楽なのだ。まぁとにかく、心の波立を抑えて、仕事にまた、集中しなくてはならない。
それとは大きく違うのが、生活のなかで、グラスを割るとき。そのグラスに対して、そのグラスを使って、これまで生活してきた何かしらの過去の時間があって、その時間が走馬灯のように流れる。それは、手から滑った瞬間にも、落下を食い止められないわずかな時間にも、「あっ」と言う間に「終わり」を意識する。割れて、全ての破片が床に散らばって、すべてが静止したとき、記憶の逆噴射が起こる。仕事の最中に割ったグラスは、ただちに片付けられて、また次のグラスを手にとって次々と持ち替える。でも、家でただのんびりと飲み物を用意しようとしたときのグラスには、そのグラスにしか、意識をやれない。だから、割れたグラスを拾うでもなく、ただ眺めてしまう時間があるのは、意識が他に委譲されないからなのかなと思ったりもして、そうしながら、「拾おうか」と片付けを始める。そのときに私はすごく、すごく寂しく悲しく申し訳なく、グラスに対して「ごめんなぁ」と思ってしまう。そのとき、決してグラスを擬人化して「痛かったろう?ごめんな」と相手取って対面するのではない。あくまで、相手の気持ちは全く無視した上で、こちらで加害者意識を起こす。とにかく泣きたい感情がやってくる。赤ん坊のようだなと思う。
使い古したタオルや家具を捨てようとするとき、キャラクターが書かれていたりすると同じように妙な、泣きたい感情が現れる。破棄に繋がる、割れてしまうこと、これにすごく敏感なのかもしれない、すごく恥ずかしい。せんべいを割ろうが、卵を割ろうがあかぎれを割ろうが、同じ感情はやってこないけれど、うっかり卵を地面に落として割ってしまったとき、グラスと同じかそれ以上に悲しい気持ちがやってくる。いのちなのだ、怖くなってくる。
他の人でもあるのだろうか、なにかが割れたときにやってくる、泣きたい感情が。

#割れる #181021

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