『素手』#302
そのとき彼はたしかに、手袋を外してこちらに手を差し出した。そして、私の右手と彼のその右手とで、固い握手をした。
金曜日の夜、続く会社の飲み会でヘロヘロに酔っ払っていた私は最寄駅まで帰れる終電を無くして途方にくれたのち、駅を離れて広い国道を歩き自宅を目指した。勤務先の駅から自宅の最寄り駅までは電車で30分。距離にしておよそ20キロとスマホの地図アプリは表示している。その距離の横には、徒歩にしておよそ5時間かかることが示されていて、また途方にくれる。しかし上機嫌で酔っ払っていた私は不意に歩き始めた。どうせ電車は無い、タクシーに乗れば結構な額になるだろう、近場のビジネスホテルに泊まるのも金額的にはそれと違いないだろうし、泊まって休んだって翌日は休日なのだからわざわざそこそこの金額を払って十分な休息を得る必要もない、と、そのときの私が瞬間的にそう考えたかは定かではないが、不意に、脚は自宅の方へ歩を進めはじめた。
年始には箱根路をゆくランナーが通るような大きな国道を、静かな深夜にひとり闊歩する。と、印象的なふうに脳内で言葉をつけてみるけれど実際には車通りも決して少なくないし、ときおりすれ違う歩行者や自転車乗りがいる。よれたスーツ姿でコンビニへ夜食を求めにいくふうな人もいれば、トレーニングなのかしっかりとウェアを身にまとってロードバイクを駆るひともいる。タクシーや工事用車両が、昼間よりも多く通るが一般車も決して少なくない。
そんなふうなことを観察しながら歩いていて、ふと時計に目をやると、歩きはじめてから1時間が経過している。早いものだ、と思ってすぐ、あと4時間も歩かねばならないのか、と残りの長い行程を思ってうんざりとする。それでも、せっかく歩きはじめたのだし、道のりは長いがこれを歩き通したら後々に話のタネとして面白いだろうと自分を奮ってまた、歩き出す。夜はいっそう深まる。
電車の線路に平行して歩いている状況、十数分を歩くごとにひとつひとつ、駅を横に通過していることがわかる。駅前商店街の入り口を見つけたり、交差点の信号機につけられたナントカ駅入口という表示を目にしたり、道路とか街の建物の様子を見ているとなんとなくわかってくる。その、通過する駅を勘定しながらまた、先の道のりがつらく思えてくる。そうして半分進むかどうかというところで諦めた。道行くタクシーは大半が提灯を消して賃走中の表示だったが、運良く一台捕まえることができた。
長く歩いていたとはいえ、酔いも覚めないまま乗り込んだ車内でぐっすり、行き先を告げてすぐに眠りに落ちた。
30分乗ったかどうか、短いあいだに夢を見て、運転手さんに起こされた時には最寄り駅の看板が光って見えて、まるで魔法で瞬間移動したかのような心地だった。夜の街をひとり歩いた記憶と、途中暖かい車内でワープをする心地とが混ざったとても不思議で愉快な体験に、上機嫌な私は運転手さんに感謝を告げて右手を差し出した。そのとき彼はたしかに、手袋を外してこちらに手を差し出した。と。
うーん、素手という単語から始めてつくった実体験込みの物語は、どうも文字数が足りないのか過剰なのかわからない感じに、味気ない。気がする。
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