『駄作』#269

ひとつまえの『気流』#268については自分でもそうだし、誰が見ても読んでも、駄作だと思う。思うだろう。
そう思う理由、特徴はいくつかある。いくつもある。
まず、言いたいことがはっきりしていないこと、つまりヤマがないこと。気流は結局、話の中でどう生きてくるのか。縦横無尽に動いてもそれは気流であること、それにフォーカスしたかったような気がするけれどそうとも読めないし、ピンとこない。
つぎ、蛇足の文章がところどころに挟まれている。主題がどこかもわからないので、脱線してすらいないのかもしれないが、自分で主張した部分もだし建築基準法の一室二室の話もだし、余分な情報が断続的に飛び出す。
それでも私は最後までは書く。そう決めている。こう、自分が書く文章にダメ出しをしてみることは度々ある。「とにかく書いて次へ進もうと上がりを急ぐ」、その場合には駄作が出る。それでも、私は駄作でも書き上げることにしている、それだけは決まりなのだ、私の中の決め事。このことは、確か松浦弥太郎さんのエッセイで勇気付けられたことに紐付いている。彼は書評を書くことについて次のように述べた。
“でも、どうしても書くことに困ってしまうことはあります。すべての本に自分の感情がわくとは限りません。やめたいとまではいかないけれど、もちろん飽きることもありますし、自分の感情を文章にしていく場合、ネタがあってもネタに対する感情が見つからないと書けない。面白くていい本だからこの本のことを書きたいけれど、「良い」というだけでは何も書けない。”(松浦弥太郎『最低で最高の本屋』集英社文庫,2009)
ずばり私が駄作でも書き上げることへの援用はできないけれど、ある一つのテーマに定めて「これは面白いな」とそのとき感じたとする。それで書き始めたとしても、ネタに対する思考と考察が追いつかなかった場合、関連するトピックを連ねて結局、城を建てることなく砂遊びをして終わる。
何かしらの動機から始めたことが、結果的に身を結ばずに終わる。
書く途中で、はじめに書いたトピックを伏線化して拾い上げることができると、幾分かマシな駄作になる。たいがいの私の書き物ではそうして後半戦が繰り広げられる。
それでも次には良いものを、と思って書く。

#駄作 #180913

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