『追う』#122

誰かが、何かが、私の先の地点を進んでいる。それはゴールに向かっているのかもしれないし、あるいは到達しない無限遠点に向かっているのかもしれないし、どうにもわからないがとにかく、私の先を往くものがある。
それは、時間というやつかもしれない、いや、時刻というものかもしれない、私の体内の時計が指し示す時間よりも現実の時間は先を行っていて追いつこうとしてもなかなか追いつけなくて、止めどない時間は無限遠へと進んでいくのに対して私の時間は追えば追うほどゴールに近づいていくのだ、ゴールにたどり着くまでに果たして時計を合わせることができるのだろうか、合わせた時点がもし時の刻みを止めてしまう時点になるのだとしたら、そう、想像するには、進み続ける時間と自分の時計とが合わさるということは時間の停止、すなわち時計が時を刻むのを止めることになるのではないかとそれはそれで恐ろしくなるこれはいったいなんの生存本能、毒を口にした途端に身体が苦いと反応するあの反射的な知覚に同じ時間感覚なのだろうか。秒速1秒でt軸方向に無限遠へと動く関数T(t)と、不規則な軌跡を描きながら不器用にもt軸方向に進む個人、追いつくことのないままに時間を追い続けることはすなわち人間の老いということなのではないか。
老いとは追いである。
時間に追われているようで、実は基本的には時間を追っているのが我々ですよ、時間に追われるという表現は、タイムリミットを自分が追い越してしまった場合には言えそうだけれど基本的には時間は先行するペースメーカーであって自分の走るペースがそれに対して追いきれない遅さであるがために苦しいと感じるのではないかね、と思うものです。つまり、自分の鈍さによって時間に追いつかれるのではなく、刻み続けられる時間を自分が追いきれないのではないかと。向こうに見えるt軸上のタイムリミットとy軸で示される成果に対して自分の描く関数が、…あ、この場合は自分が追えないのはtではなくてy軸の成果のほうだ。自分の成果の伸びが鈍いのに、達成されるべき関数を自分が辿れていると錯覚してしまって・錯覚したいがために、自分の知覚時間を短くすることで「まだこれだけの時間しか経過していないのだから、成果がまだこの点であることは仕方ない」と、縮小して錯覚する。しかしT(t)は残酷にも一定のリズムで伸長する。そうして、自分で錯覚した相対時間に対して先行している絶対時間を「時間を追えていない」こととなる。
そんなようなことを、このnoteを書きながら思った。
「時間には追われるのではなく、自分が時間を追えていないから焦るのだ」ということと、「時間を追いかけることはすなわち老いだ」ということ。
たまたま、たまたま「追い」と「老い」が重なった。タイトルを決めた時点では気づいていなかったし文中で「老い」と書くまで気づかなかった。カッコつけきれなかったな。

#追う #180419

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