『植木鉢』#113

植物を育てることに縁がない。これを、縁がないと言えばいいのか、機会がないと言えばいいのか、決意ができていないと言えば、いいのか、どうだかわからない。たぶん、おそらく、最後のが正しい。正しい気持ち。
小学生のとき、一年生だったかな、プラスチックで緑色で角の丸い正方形の植木鉢と、その四隅に立てる1メートルくらいありそうな棒4本とを1人1つ与えられて、朝顔を育てた。種を埋めたころは棒は無かった。芽が出たかどうかすら覚えていない。たぶん、せいかつかの時間、種をみんなで埋めて、先生からは「毎日水をあげて、よく観察してください」と言われたんだと思う。水をあげた記憶はない。いやそもそも小学生時分の記憶は少ない。その少ない記憶には無いぞ、ということ。わりとマメに、2日に1回とか3日に1回とかあげてたかもしれない、でも、マメにあげたと考えてもそのくらいの頻度だ、予想は。
植物、大括りにして、いきもの、これを育てた記憶が無いのだ。ペットを飼ったこともなく、朝顔も、こどもチャレンジの付録についてきた黄色いミニトマトも育てられなかった。成功体験がない。成功の結果もなければ過程もなく、楽しい、という感情の経験がない。
憧れ、緑の繁った玄関先、観葉植物がある部屋、いくつもの植木鉢が並ぶベランダ、憧れ。
この身にあるものは憧れ、それだけなのだ。晴れた日には鉢植えを日なたに移し、暮れて家に帰ったときにまた望ましい場所へ戻す。葉の輝きに一喜し、花の散る様に一憂し、実がなることなどあれば歓喜し、増え過ぎた鉢植えを見てタハハと苦笑する。
映画『誰も知らない』の四兄弟が住む部屋のベランダでは、いくつものカップラーメンの空き容器が鉢植えとして増殖を続け、それは彼ら彼女らの退廃的で惨めなような生活でありながら失われない生き生きとした生命力の象徴として機能しているようにも思えるから恐ろしい。あれには憧れというよりは、植物のたくましさとみずみずしさに感激するような気持ちが強い。
自分の生活する空間で、自分以外の生き物がいきいきと在る、そうして自分と生き物とで生命力を確認し合うような共生・共存に憧れている、そうとも言えるかもしれない。

#植木鉢 #180410

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