『ジョッキ』#250
生中ひとつ。
生(ビールの)中(ジョッキ)ひとつ。
なまちゅうひとつ。
私たちは「ジョッキ」と発しないままに意味を伝えている。意味を伝えている、というのは誤りがあるかもしれない。ハイコンテクストなやり取りをしている、というのなら適当か。
言語でのコミュニケーションは、伝達する相手が親しければ親しいほど、コミュニケーションの言葉の量や質(組み立ての正当性かな)が減ったり雑になることが、それは身に覚えもあるわけで、そういう傾向がある。親しい間柄でなくとも、仕事関係で専門性の近い相手となら、専門用語も解説・確認なしに用いていることもある。それで飲み屋においては、店員さんとお客さんとの間で、「生中といえば生ビール中ジョッキのこと」と暗黙の了解があって、言葉が省かれる。いっぽう省かれる言葉の、省かれていない全文、原型、それを知らなければ、まったく意味が伝わらない、というのも省略の妙味のひとつ。木村拓哉を知らずしてキムタクは、「キムチとたくあん?」と困惑するかもしれないし、ペンパイナッポーアッポーペンを知らずしてPPAPは、「何かの新薬?病気の略称?」と不安がるかもしれない(これは意味のわからない短縮形を使っているから「なんだこれ」ってフックになっている、というのは確か)。
それで普段、ジョッキと言葉にして発しないままに、メニュー中のドリンク名にありながら目に入って脳で認識されてでも口からは発されることのないワンストップな受容と伝達をしているのが、ふと気になったのでありました。
メニューにはときどき、すでに略して「生中」「生小」「中瓶」と並んでいることがある。カテゴリは『ビール』とあって、そこにそれらの文字が並ぶ。なかなかハイコンテクストなメニュー。漫画のおやすみプンプンの中で、20歳前後のときの主人公のプンプンが愛子ちゃんと居酒屋に行ったときに、「…なまなか?」と読んだシーンがあった。漫画を読んでいるときは「プンプンは大学の友達と飲みに行くとかないもんなあ、なるほどなあ」くらいにしか思ってなかったけど、なまなかと読む人は、プンプンだけじゃないんだろうなあといま思う。
いっとき、家にジョッキ2つ置いていた時期があった。その個数自体は、彼女と2人で使うとかそういうことでなくたまたま2つ手に入ったってだけのことで、酒を飲むのがどんどん好きになっていったときに、家で飲むグラスもジョッキにしたら自然と気分は良くなるんじゃないかと、そんな妙な効果を期待してのことだった。確かに牛乳をジョッキで飲むとグビグビといけて気分爽快だった。缶ビールを冷やしたジョッキに注いで飲んだりもした。かなり、クオリティオブライフが上がった気がしたのだった、けれど、ジョッキはやはり、飲食店、というか、厨房設備のあるところで使うべきかなと思ったのが、洗うとき。ジョッキってスポンジで中を洗うときに手が入らない。あの、トング型の持ち手のスポンジで挟めるアイテムを使えば楽チンではあるのだけれどそれでも、洗うのが大変だった。洗浄機のある場所でこそあれは、気軽に使えるのだろうなと、盛り上がった気分は泡のように消えていきましたとさ。
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