『太字』#65

自分でも妙なテーマにしたと思っている
。これまでのnoteで使ったわけでもなく、何か象徴するわけでもない。何を書こうか、ふーっと考えたときに思い出したのが読み始めた本、劇作家・演出家である平田オリザさんの書いた新書「わかりあえないことから」(講談社現代新書、2012)だった。
まだ、読み終えていなくて中盤くらいまでしかいってないけれど、「“若者”あるいは“学生”に、社会から要請される“コミュニケーション能力”というもの」について話が進められる。まえがきでは、日本のコミュニケーション教育について「わかりあう」ことに重点が置かれてきたことに疑問を呈す。「わかりあえないことから」はじめるコミュニケーションについて考えて、わかりあえないなかで共有できる部分を見つける喜びについて語ってみたいという。あぁ大事なことだなとわたしは思って、過去の旅行を振り返る。言葉がさっぱりわからない場面から全てがはじまる。ただし「わかりあえない」とまで思うことはなくて「わからない」という自分からの一方向的な理解に限って。こと海外旅行について英語圏への旅行がなかった。かならず、現地語があって、そこでは一番大きく書かれた文字が読めない。推測ができるイタリア語やスペイン語なら、読めはしなくてもなんとなく部分的にわかる。フランス語とドイツ語は、手元のガイドなどと文字が符合するか確かめられる程度。タイ語は模様だった。でも行ってご飯を食べて買い物をして宿泊をして帰ってくることができて、旅行中の満足度と充実度もじゅうぶん。都度、人に伝えたいこと、わかってもらいたいこととわかりたいことをやり取りした。それを思い出している折に、書籍中で書かれた別の言葉が気にかかる。子どもの「単語で話す問題」。「ケーキ!」とだけ言って、優しくケーキを出してもらえれば子どもは「ケーキ」とだけ言う。伝わってしまう問題。「ケーキ」とだけ言われたら「ケーキをどうしたいの」「それだけじゃわからないよ」と言ってあげるのが子どもの成長にはよいと。わたしもそう思う。「せんせいトイレ」にも同じことで「先生はトイレじゃありません」はベストアンサーのひとつなのだろう。笑いのタネになっているけど、ほんとうに大事なことだ。
そして、学校教育に演劇を取り入れて授業を行った経験が語られる。
その、前に。演劇のセリフの「芝居がかった感じ」が、日本語口語にとっておかしな感じだとして、平田さんが提唱・演出している「現代口語演劇」が解説される。西洋近代演劇が欧米から翻訳されるときに、欧米の言語の文法「決まった語順」「強調したい語にはアクセント」、このルールをそのまま日本語で援用したことでおかしな感じになってるという。たしかにわかる。演劇の練習の定型文に「その 竿を たてろ」という文があって、強調したい語にアクセントをつけて発声するという。ただ、ひととひとが(口語で)話すときに、ある語を強調したいとき、いちいち抑揚をつけて喋ることはまず無いだろう、強調をしたい語があれば、文頭あるいは文末に持っていったり繰り返して反復させたり間を持たせたりするのが自然なふだんの口語の喋りだろうという。だから、現代口語演劇的に言えば竿の例文は、強調したい語に応じて形が変わるものだろうという。
これは面白い話だと思った。口語において、強調は様々な形をとる。とれる。では文語においてはどうか。口語と同じパターンに加え、カッコで括る、文字を大きくする、または形を変えたり、太字にするなど、ある。ここに、価値観が大きく出ると、というか私はかなり出る、と思っている。できればカギカッコを使うことも、形を変えることも、太字にすることもしたくない。ポスターやフライヤーデザインならアリだが、文章において、視覚に直接訴えるのをナンセンスに思ってしまう。その強調哲学を長々と語るつもりはないが、好きな順序で書いても理解に差し支えない日本語を扱っているからにはその独自性を日本語文で楽しんでいきたい、ただ、手書きで文章を書くとしたら太字に関してはかなりロマンがあると思えるので全的に太字を否定するものではない。何のオチもない痩せた文に終わった。

#太字 #180221

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