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背もたれ

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冷たい風にチクンと刺されながら、西新宿の喫茶店へ向かう。故郷の北海道は東京より遥かに気温が低いが、東京の方が寒い。これは私より先に上京した先輩がいつか豪語していた。初めて聞いた当時は、「かっこつけちゃって、寒いのはあんたや」と思っていたが、今になってわかる。東京の方が寒い。田舎にはないびゅうと吹くビル風のせいなのか、エアコンだけでは暖かくならない室内のせいなのか、ただすれ違うだけの人々の冷たさのせいなのか。先週卸したてのアウターのポケットに手を突っ込む。小さいビニール袋に入った予備のボタンの手触りがあった。いつか使う、のこの“いつか”は絶対に来ない。
 大きな電気屋に併設されている喫茶店はいつも混んでいて、煙草の煙の香りがぽわんと漂う。今時珍しい「喫煙目的店」らしいが、残念ながらその目的を果たしたことは1度もない。ぺろんと縦に長い喫茶店に今日も人がわんさかいる。隣では知らない芸人らしき3人が、知らない先輩芸人のネタの分析をしているらしい。後ろでは、ブラックを頼んだスーツの上司と部下らしき2人。「エビデンス」だの、「イニシアチブ」だの、少々うざったい英単語が飛び交う。平日の夕方の人の模様も様々だ。
 卒業論文の執筆も佳境を迎え、駆け込みで借りた文献たちを雑に読み漁った。人種から読み解くアメリカ文化史。執筆を始めた4月時点では、アメリカを読み解く予定ではなかった。そろそろ【結論】を固めねばならぬ時期であるが、未だ地図を持たず船で海原を渡っているような感覚だ。たった今この船に多くの奴隷たちを乗せた。
 集中力が落ちた。全席揃いの赤いベロアの椅子。いかにも、だ。再び周囲に意識が向き始めてしまって、エビデンス上司の方に気を留めるようになった。私の椅子の背もたれとエビデンス上司の背もたれがくっついている。はて。エビデンス上司とイニシアチブ部下の距離よりも、エビデンス上司と私の距離のほうがうんと近いじゃないか。度胸と勇気と好奇心があれば、いとも簡単に頭突きをすることができる距離だ。もしくは加えてそこに愛があれば、撫でることもできただろうか。上司と部下の間にはテーブルがあるから、その2人に距離があることは当然と言えば当然なのだが、なんだかすごく変な気持ちになった。エビデンス上司は、至近距離にいる私を気にも留めないどころか、おそらく私の存在すら認識していない。彼にとって今1番近くにいるのは、頭突き距離にいる私ではなく、テーブルの向こうにいる向かいの部下なのだ。
 関係はいつも内向きで育まれる。どれだけ人が近くにいても、内側にいなければそこに関係性が生じることはきっとない。心的距離は物理的距離を構わない。そんなことをふと思った。
 完全に卒論を進める手が止まってしまった。会計を済ませ、私はその背もたれから離れた。これから友人の内側に入りに行くところである。

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