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[240226]

☀,9℃。月曜日。日当たりの良い部屋にいると暖かく感じるが,それなりに風🍃があり,出かけると寒い。自宅勤務日。

❡ ひたすら業務📤📞。お昼は昨日つくっておいたけんちん汁もどきにご飯🍚と漬物。隙間時間にトイレ🚽と風呂の掃除。とくに後者におけるカビ問題は少しは解消させたが,まだまだ。気を抜いてはならない。トイレットペーパーやらキッチンペーパーやらゴミ袋やらの買い出しのついでに三校ゲラを投函📮(むしろ,三校ゲラを投函のついでに・・・と逆転して書くべきなのか)。

❡ 夕刻,受信ボックスをゼロにして,職員としての今日の自分はもうおしまいとする。自分の時間へ🗒📖。

❡ ショルティ指揮♬,ブルックナー5番を聴く📀。自分がショルティを(偉そうに言えば)評価しだしたのは,ハイティンクと同様,比較的近年のことだ。7番をYouTubeで聞いて,そのどこか(木管の)寂寥感ある演奏が気になり,すぐさま5番を注文。予想通り,どういう指示を出したのか見当もつかないが,木管群が寂寥感あふれる音を紡いでいる。金管にしても,「最後のところの」を除き全体的に抑え気味で,シカゴ響ならではの咆哮はむしろ少ない。一般的にブルックナーの音楽は,宇宙的とか超越的とか言われがちだが,ショルティは(おそらくスタッカートやスタッカティッシモを抑制して)個人的な次元を,人間的との批判を覚悟のうえ,描出した。しかし最終楽章,それが徐々に変質し,コラールになると昇華するよう,ときどき決断的乱暴さをも辞さずにーーつまり内在的な変質とか昇華とかではなく,押しつぶされるような形に聴こえてもそれは想定の範囲内として,さらには計画の範囲内としてーー曲を進めていく。「第5交響曲はその頂点を終楽章に,さらに言うなら,終楽章のおわりのコラールにもっている」とはヨッフムの主張だが(「第5交響曲の解釈について」,渡辺裕(訳),228頁,所収:『音楽の手帖 ブルックナー』,青土社),ショルティにこそ相応しい文言かもしれない。コラールに突入する前後,思わず涙ぐみそうになった。
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©渡邊日日_261

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