見出し画像

今さらひとに聞けない、イマヌエル・カントによる"善"と"自由"【哲学を本気で解説】

こんにちは。日向夏(ひゅうがなつ)と申します。

タイトルこそふざけてみましたが、この記事はちょっと本気の哲学の解説となっています。

読むのが大変かもしれませんが、読み終わったあとに得られるものはきっとあると思いますので、ぜひ最後までがんばってご覧ください。


さて、哲学とは、「真」「善」「美」などのことがらについて、自らの理性と洞察によって探究する学問です。

みずから思考を巡らすことも有意義ですが、先人の思考を学ぶことで、新たな扉が開けるかもしれません。

私は10年ほど前に教育系の大学におりましたが、研究室では哲学を専攻しており、そのなかで1年程度、カントについて研究をしていました。

この記事では、イマヌエル・カントの著書『道徳形而上学の基礎づけ』から、"善"と"自由"について学んでいこうと思います。

道徳形而上学とは

本題に入る前に、内容を理解できるよう、まずは事前に解説すべきことやカントの考え方について非常にざっくりとですがお話しします。

なお、正確な意味やニュアンスとは異なりますが、わかりやすい言葉に置きかえて解説していきます。

形而上学(けいじじょうがく)とは

まず一般的に「学問」は、この世界で起きるあらゆること、またはこの世界に存在するあらゆるものに目を向けて、それを観測・体系化することで、真理を探求していきます。

探求する対象がこの世界のことなのですから,当然と思いますよね。

しかし、「この世界」とは、我々人間が五感によって「感じとっている」にすぎず,我々が「観測しているもの(見たり聞いたりしているもの)」と実際の「物そのもの」の間には、ズレがある可能性があります。

もしズレがあるとしたら、我々がこの五感を使って観測した事物は全て、真理を追求するには確証を得られないことになりますよね。

そこで、カントよりずっと昔の哲学者アリストテレスは、ある事物について、その根源や成り立ちを辿っていくかのようにして探求していく、「形而上学」という考え方を編み出しました。

アリストテレスの場合、その根源や原因にもさらに根源や原因があって...と考えていくと,最終的には世界の始まり、ひいては超越的な何かの存在無くしてはありえないということで、それを「神」と呼ぶものとしています。

話がそれましたが、形而上学とはつまり、事物の内に内に目を向けていくもの、と考えてもらえればよいです。


道徳形而上学とは

上記を踏まえた上で、道徳形而上学とは何か。

カントは,形而上学を使って「物そのもの」の真理を言い当てることは不可能だと考えます。

しかし、形而上学を行う上で、私たちは共通の認識を持つことができていることに気が付きます。

私たち人間がひとりひとりどのような体験をしてきたか(外のものに影響を受けたか)に関わらず、認識のしかたには共通の構造があるということです。

そのことを出発点にして、

それであれば、倫理的なこと(道徳)についても、我々は内に内にと目を向けることで、その行いが正しいか間違えているかを認識できるのではないか?

というのが、「道徳形而上学」というものです。


"義務"と"善"

次に、カントの倫理学において重要なポイントである「義務」について解説したうえで、カントが考える「善(善い意志)」とは何かというところに迫ります。

義務とは

カントを理解する上で特に重要なのがこの「義務」です。

一般的に「義務」と言うと、「やらなければならないこと」もしくは「やってはいけないこと」という意味を持ちますが,カントの場合、それよりもせまい意味を持ちます。

ここでは例として、「人のものを盗んではいけない」という「義務」を取り扱って説明します。

「人のものを盗んではいけない」、当たり前ですよね。

ではなぜ、「人のものを盗んではいけない」か。

理由を挙げるとすれば、「自分がやられて嫌なことは人にしてはいけない」とか、「それを許せば社会が成り立たなくなってしまう」とか、色々出てきますよね。

では、その理由が解消されるとすれば、「盗み」は「善い行い」になりますか?

多分、ならないですよね。

その「ならない」という直観が、我々の認識が共通の構造を持っているということの証。とカントは考えます。

「〇〇だから、盗みをしてはいけない」ではなく、ただ直観的に「盗みをしてはいけない」のです。(「定言命法」と言います)

私たちが事物についてどのように感じるか,またそれによって結果がどうなるかに寄らず、私たちは「正しい」「間違っている」を認識することができるのです。

この、直観による「やらなければならないこと」、「してはいけないこと」を、カントは「義務」と呼ぶのです。


善(善い意志)とは

例えば「盗み」について、やってはいけないと理解していながらも盗みをしてしまう人は、「貧困の苦しみから解放されたいから」とか、「楽に生きたいから」といった、欲望によって行動していますよね。

欲望とは,我々を動かす行動原理です。

「食べたい」とか「寝たい」から始まり、「楽しいことがしたい」「人に認められたい」など色々ありますが、とにかく私たちは欲望があってはじめて行動することがほとんどです。

ここでひとつ、疑問が生まれます。

理由なく「盗みをしてはいけない」だと、そこに欲望はありません。

にもかかわらず、私たちは盗みは悪いこと、してはいけないこととして、「盗まない」という選択をする。

理屈的に、これはおかしなことではないでしょうか。

その答えが、人間の「善い意志」です。

たとえば、いま食べ物を盗まなければ明日には死んでしまうという人ですら,盗むという選択をしない人もいます。

これは、人間が道徳的存在であることを意味しており、その「義務」のために行動しようとするその意志こそが、カントは「善い意志」と考えました。

この「善い意志」は、その結果によらず善いものであり、またなんの留保もなく(無条件に)善いものとしています。

これが、カントの"善"についての考え方です。


"善"と"自由"は合致する

やっと善の説明まできましたね。ここまできたら、もう少しです。

自由とは

おさらいですが、善とは、理由によらない義務のために行動しようする意志そのもののことと説明しました。(あくまで「義務に従うこと」ではなく、「義務のために行動しようとすること」です)

そして私はこの項で、「"善"と"自由"は合致する」と書きました。

「義務のために行動しようとする意志=自由」と書くと、あまりにも違和感があるかと思います。

義務のために行動するのが、自由?

そのことをこれから解説します。

まず一般的に自由とは、「何にも縛られない」「何らの制約もない」ということですよね。

やはり義務という言葉からは遠い存在のように感じますが、また「盗み」を例にして考えてみましょう。

あなたがものを盗む理由、例えば「貧困の苦しみから逃れたいから」という理由で盗むのであれば,それは、あなたが貧困であるという外の要因によって、そうせざるを得ないように強制されてはいませんか?

また、単に「楽をしたいから」という理由であったとしても、それは自らの欲求や、盗むことにより得られる利益などに行動を強制されていると言えるでしょう。

何かしらの要因や原因があって取る行動は,真の意味で自由とは言えないのではないでしょうか。

本当の自由とは、なんらの要因にも縛られない、自身の内にのみある行動原理にのみ従って行動しようとする意志のことになります。

その行動原理とはすなわち、何にも強制されない道徳的価値、すなわち「善い意志」であり、「自由意志」はすなわち「善い意志」と合致する、ということになるのです。

そのため、「"善"と"自由"は合致する」のです。


あくまでこれは、カントの思想によるものです。
直観についてなど、指摘されている部分も多いです。

しかし、面白くはないでしょうか?

この記事では丸々省いていますが、著書では理論の根拠についての詳細な説明や想定される指摘への回答も記されています。

更に気になる方は、続きもご覧ください。


付録

まずは注意書きです。

カントといえば、代表作は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の3部作であり、特に「理性」についてが重要なキーワードとなります。

しかしこの記事では,理性については触れていません。(あえて、理性という言葉を使っていません)

それは、理性について説明をすると,この記事の半分近くが理性についての説明となってしまうおそれがあり、この記事の趣旨にそぐわないからです。

しかし、理性について正しく理解しないまま,カントの思想を正しく理解することは絶対にできません。

そのため、あくまでこの記事では、『道徳形而上学の基礎づけ』における、カントの倫理学のみを取り上げているということをご理解ください。

また、「格率」や「定言命法の定式化」、「直観」、「不完全な義務」などについても重要な考え方なのですが、それについても大胆に省略しています。

(哲学の論文的な言い回しをすると、「これらを述べるのは他の機会にゆずりたい」などと言います笑)

カントの『道徳形而上学の基礎づけ』は、ボリュームこそ少ないものの、カントのエッセンスがたっぷりと詰まった良書です。

これが書かれることになった背景からも,この著書の意義がよく分かります。(気になる方は調べてください)

しかしながら、カントの文章は専門的で難解な言葉でいっぱいのため、もし興味を持ってくださったとしても、すぐにこれを読もうとすると、挫折してしまうかもしれません。

そのため、カントについて知りたいという方は、こちらの本を読むことからオススメします。良書です。

また、どうしてもすぐに『道徳形而上学の基礎づけ』を読みたいという方は、宇都宮芳明氏訳のものを読むことをオススメします。
(他の訳を読んだことはないのですが、大学時代の信頼できる教授がそのように話していたため、それに倣っています)

なお、哲学書を読むときは、言葉の意味が一般的な定義とは違うことがあるので,違和感を感じたときには一つ一つ調べながら正確に理解していくことが大切です。(「直感」と「直観」、「意思」と「意志」など、似てるけど違う意味の言葉もあります)

また、理解できない文は自分なりの解釈をしてはいけず、理解できるまで何度も繰り返し読んだり調べたりして、正しく理解しなければなりません。

そのため、前提知識がなければ、一冊を正しく読むには途方もないほどの時間がかかることをご理解ください。

また、読む時は,注釈が非常に重要である場合が多いので,注釈を確認しながら読み進めてくださいね。


おわりに

思想を学ぶというのは、その思想の結論に辿り着いた結果を学ぶことではないと私は思ってます。

私たちが日頃あれこれと悩むことについて、実は過去にたくさんの人たちが同じことを考え、様々な理論をもってそれを解明してきています。

その思想の過程を知ることで、現代に生きる私たちは、それを足場にして更なる思考を巡らせていくことができるのです。

かなり読むのが大変だったと思いますが、この記事をとおして,思想を学ぶことの楽しさが伝わっていれば幸いです。

最後まで御覧くださり、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?