【短編】蝋燭


僕は、早起きのために生じた眠気と倦怠感とを頭の中に渦巻かせながら、今日も開店作業をしていた。この時間には辛いものがあるが、ケーキ屋をするという夢を叶えた充足感はまだ、僕を働かせる原動力として機能しているようだ。

街角にぽつんと建った僕の小さな夢は、お昼前の、太陽によって空気が程よく温められる時間帯に開店する。嬉しいことに近所ではなかなかの評判で、店を閉める頃には殆どのケーキが完売している。1人でやっているため、準備できる量に限りがあることが最近の悩みだ。そろそろアルバイトなんかを雇ってもいいのかもしれない。

僕にはもうひとつの夢があった。それは自分のやる店に常連さんができることだ。そしてこれも幸せなことに、叶ったと言っていいだろう。

今日も夕方に、アキコさんはケーキを買いに来た。
「こんにちは。」
「こんにちはアキコさん。今日は何を?」
「モンブランとチョコレートケーキの、どちらにしようか迷っていて。」
彼女はうちの常連さんであり、以前は月に4、5回の頻度で来店していたが、近頃はほぼ毎日、ケーキを買いに来る。
「いつもありがとうございます。最近は特に足を運んで頂いて。」
「ええ。実は息子がここのケーキ大好きで、近頃よく買って来てと言われるんです。」
「それは嬉しいお話だ。今度は息子さんも是非、一緒にいらして下さい。」
アキコさんはそれには何も言わず、静かに微笑みを浮かべた後で、
「あら、これはなにかしら。」
と、入り口横に貼られたチラシに目をやった。
「ああ、それは今年のクリスマスのための広告です。25日限定販売のオリジナルケーキの。」
「まあ、まだ9月ですよ。気が早すぎません?」
「気合いが入ってるんですよ。」
アキコさんはまた何も言わなかったが、今度はフフフと声をもらしながら笑い、結局その日はモンブランを買って帰っていった。

次にアキコさんが来たのは、その翌々日だった。
「こんにちは。」
「こんにちはアキコさん。おや、お疲れですか?」
彼女の目の下にはやや大きめのクマができており、心無しか痩せているようにも見えた。
「ええ…最近ちょっと仕事が忙しくて。今日はチョコレートケーキを下さい。」
「それは大変だ。でしたらケーキを1つ、おまけしておきますね。僕からのささやかなエールです。」
「そんな、お気遣いなく。」
「いいんですよ。いつも買って下さっている、お礼の気持ちも含まれています。」
「そう…では…。」
彼女は申し訳なさそうにケーキを受け取り、
「他のお客さんに怒られちゃうわね。」
と困ったような笑顔を見せて、帰っていった。

月日が経ち、秋の香りと木々の葉が風に流され、どこか物寂しい冬がやってきた。ケーキ屋を初めて2度目の冬だが、やはりこの時期の開店作業は身にこたえる。学生の頃は、もう少し早い時間から学校に行っていたというのに、歳を重ねるごとに寒さに弱くなっているような気がする。

25日のクリスマスは、いつも以上にお客さんが来て飛ぶようにケーキが売れた。オリジナルケーキも大盛況で、あっという間に無くなってしまった。自分の作ったケーキが、今頃どこかの家で蝋燭をさされ、誰かを笑顔にしていると思うと、胸の奥の方がじんわりと熱くなるのを感じた。ケーキ屋を夢見てよかった。
ところが、お店を閉めている時にふと、アキコさんが来ていなかったことに気がついた。一体どうしたのだろうか。一昨日いらした時には、「やっとクリスマスですね。オリジナルケーキ、楽しみにしています。」と言っていたのに―。

翌日、彼女は店に来た。
それも酷く憔悴し切った様子だった。
「…こんにちは。」
「こ、こんにちはアキコさん。大丈夫ですか?」
「ええ…ここのところ本当に仕事が忙しくて…。昨日も来たかったのだけれど…。」
「そうですか…。どうか無理はしないで下さいね。」
「はい…。ところで、もう…オリジナルケーキは売っていませんか…?」
「そうですね…。昨日の分で全て売れてしまいました。材料も残っておらず…。」
「………そうですか。仕方がないですよね。」
「すみません。」
「あなたは何も悪くありませんよ。では…。」
落胆して帰ろうとする彼女に、僕は声をかけた。
「でも来年もまた作りますよ。なに、1年後です。1年なんてあっという間ですからね。すぐにやってきますよ。」
それを聞いた彼女は、一瞬顔を強ばらせ、そして笑顔を浮かべた。懸命に作ろうとしたような、そんな笑顔だった―。

それからしばらくして、アキコさんは店に来なくなった。





アキコには、ノボルという一人息子がいる。早くに夫と別れ、女手ひとつで育ててきたために、アキコにとってノボルは、愛情の全てを注いだ、何にも変え難い宝物であった。

そんなノボルが難病にかかり、入院することになった。

医師がする病気の説明は、絶望の淵に立たされたアキコの耳へ途切れ途切れに届く。
「非常に稀なケースであり―」
「治療は極めて困難―」
「余命―」

医師の言葉を聞き、アキコは大きく目を見開く。

「もって…1年かと…。」


それからアキコは毎日を、悲嘆にくれ、自らを責め、ぶつけようのない怒りを持ち、そしてそれらをノボルに悟られないようにしながら、彼のいるベッドの横で過ごしていた。
余命1年。即ち来年の8月末までの、か細い命であったが、しかしノボルは、決して悲しい顔をしなかった。日頃から気丈に振る舞い、母親にもこれまでと変わらない様子で接した。それがアキコにとって、自分もノボルのために気を張らねばという思えるきっかけとなった。

「お母さん。」
「…どうしたの?」
「前みたいに、あのお店のケーキが食べたいな。ほら、去年にできたばかりの、あの小さなお店の。」
「…そうね。ノボルは本当にあそこのケーキが好きね。これからはもっといっぱい買って来てあげるね。」

「1年なんて、過ぎなければいい。」
アキコは日に日にそう思うようになった。
「もっとゆっくりと時間が過ぎればいい。ゆっくりと、まるで時が止まったかのように。」
「私はノボルと一緒に居たい。ただそれだけ―。」

「ノボル、今日のケーキはモンブランよ。チョコレートケーキと迷ったんだけどね。」
「やった!僕モンブラン大好き!でもチョコレートケーキも好きだから、次はそっちが食べたいな。」
「フフ、いいわよ。また買ってきてあげるね。…そうそう、今日ケーキ屋さんでね、クリスマスのチラシを見たの。オリジナルケーキを作るんだって。」
「え!オリジナルケーキってどんなケーキだろう。僕食べてみたいよ。」
「じゃあクリスマスまでの辛抱ね。」
「でもまだ9月だよ、ケーキ屋さんも気が早いね。」
「気合いが入っているみたいよ。」
ノボルはそれを聞き、クスクスと笑いながら、モンブランを食べた。


クリスマスの25日、ノボルの容態は急変し、なんとか一命を取り留めたものの、わずか2週間後にその命を落とすことになった。

まるで蝋燭の火のように、それは僅かな時間であった―。

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