【禍話リライト】山霊

その山は標高が低く、少し頑張れば登頂できるような初心者向けであるにも拘わらず時々遭難が起きるような山だった。
小学生だった頃Aくんは山の近くの団地に住んでいたのだが、散歩好きが高じてあるおっちゃんと仲良くなっていた。おっちゃんはどこか味のある風貌をした人と話すのが好きな気の良い性格で、学者肌なのか早々に仕事を辞めてその山の動物や草木を調査して自己満足でどこだかに発表しているのだという。山の麓にあるうどん屋に大抵入り浸っているのはどうやら店主と同級生のようで、そこに毎日のように朝から来てはオヤジ今日も早いねえ、お前だって同じ歳だろうが、と楽しそうに軽口を叩いている。
そういったフィールドワークを主としているからか、おっちゃんの服装はいつ見ても登山者然としているのだが、年に何度かTシャツとハーフパンツというラフな時がある。いつもの習慣でうどん屋には来るが、そういった時は決まってうどん屋近くの登山道へ来る人に今日はスズメバチが出るからとかヘビがいるからとか適当な嘘を言って帰させるのだ。
そしてどこか満足そうな顔をするおっちゃんになにか意味があるのだろうかと思いながらも聞けず、親の転勤でそこから離れてしまい大学生になってからようやく戻ってみると、おっちゃんはまだ山にいた。
髪には何本か白いものが混じり、もはやおっちゃんというよりはおじいちゃんに近くなっていたが、相も変わらず陽気に接してくれて。久しぶりの再会にあれやこれやと話の花を咲かせている途中あの謎を思い出して、大学生にもなったから教えてくれるのではとAくんはおっちゃんに訊いてみることにした。朝起きると”それ”は直感のようなものでわかるのだという。人に機嫌の良し悪しがあるように、山にも似たものがある。やばいと思ったら行かないようにして登ろうとする人も止めていたのだが、最近はそうしていないのだと。
「え、なんで?止めたれよ~」
「いや、止めたら止めたでそこでどうにかなる運命だったものが後でぐちゃぐちゃになるとより酷くなるからさ」
なんでも死ぬはずだったものがそこで死なないと、どうにか修正しようと無理やり凄惨な流れに持っていかれてしまうのだという。例えるならファイナルデスティネーションという映画がわかりやすいと思う。
なにそれ怖い。知らないだけでそんなこともあるんだとそこで話は終わり、父親の仕事の都合で引っ越すこともなくなり夏になった頃。いつものように山にあるうどん屋へ行くと、大学かなにかの登山愛好会グループを半袖半ズボンのおっちゃんが引き留めている。あれ、今日は行かせないようにしている、と思っているとスズメバチがやばいからなんやらとやけに力説していて。しかし、それも虚しく蜂避けのスプレーがあるからと登山愛好会5、6人はそのまま山へ入って行ってしまった。
いつもならあんなに一生懸命引き留めることなんてしないのに。苦虫を噛み潰したような表情のおっちゃんにいったいどうしたのかと尋ねると、どうしてかつい真剣になってしまったのだという。

その日は大学も休みで、母親がスイカを買ってきたからと皆で分けることになった。17時か18時くらいでうどん屋もやっていたし、さあこれから食べるぞという時に1人がいなくなってしまったと必死な形相で登山愛好会グループが駆け込んできた。
この山の登山道は一本道だ。道順に歩いていれば迷うことも遭難することもない。もしかして獣道を分け行ってしまったのかと問うてもそうではないという。
山頂に着いて時間配分を考えながら暗くなるまでに戻ろうと下りていると、途中から口笛のような音が聞こえてきた。メロディーではなく、ピーというあくまでも単調な音だ。なんだなんだと思っているうちに最初は後ろから聞こえていたそれが異常な速度で回り込むように横を並走してきて。
あきらかに木の枝や風の音ではない。歩いているあいだにもずっと鳴り続けているからして人間や動物とも考えられない。
そうこうしていると前方に半壊している山小屋が見えた。ボロボロとはいえ屋根もあるからそこでやり過ごそうということになって走って音と距離を取り、顔を出さないように山小屋に隠れていると。ピーという音が通り過ぎた瞬間、なぜかその音がもう1つ増えて。混乱しつつもようやく離れていったと思ったら一緒に駆け込んだはずの1人がどこにもいなくなってしまった。

その登山愛好会の説明におっちゃんもうどん屋の店主も悲愴な表情をして、ああそれは駄目かもしれないと呟いた。しょうがないから警察やら地元の青年団やら猟師を呼んでくるということになって、駄目かもしれないけど俺たちで先に探してみるかと2人で話していて。俺も行きます、と非常事態にAくんも一緒に行くことにした。
いなくなってしまった1人は青いリュックを背負っているという情報を元に、大きな懐中電灯を持って一本道を登っていく。
「あの、口笛ってなんかあるんですか?」
「……う~ん。俺、1回聞いたことあるんだよね」
いつもなら笑みを絶やさない飄々としたおっちゃんの顔が、血の気が引いて真っ青になっている。隣を歩くうどん屋の店主も同じだった。
「ちょっと長く聞いてるだけでもしばらくは駄目なんだよ」
「え、どういうことですか!?」
「うん、水の味とかも変わるしねえ。俺もその間うどん屋出来なかったもん」
なんだそれ。ちゃんと聞いてみたい気もするけれど聞くのも怖い。3人一緒よりは別れて探そうということになり、うどん屋の店主は慣れているし獣道もわかるということでさっさと歩いて行ってしまった。
「あいつは聞こえたらすぐ戻るし大丈夫だよ」
「聞こえたら、すぐ戻らなきゃ駄目なんですか」
「うん。もしも聞こえたら途中でやり過ごそうとか思わずにとりあえず下りて」
そう真顔で言われるのが一際怖い。全力で下りたら大丈夫、まだ子どもだから、という言葉もすべて怖い。少しだけ泣きそうになりながらも手分けして探していると、例の山小屋へと辿り着いた。長い年月で風雨に晒された、崩れかけの古びた建物だった。それが懐中電灯の明かりに照らされて夜闇の中に静かに佇んでいる。
「ああ、ここでやり過ごすのは上手くないなあ。完全にテリトリーだし、思うがままだよ」
「……すごい怖いんですけどなんなんですか」
「山霊だよ。山の霊と書いてサンレイって読む。俺が勝手に名前つけただけだから本当はどう呼ぶかわからないけど、”あれ”は絶対に駄目だから」
今度はこちらが顔面蒼白になりそうな気持ちだった。普段なら関わるようなことがない不可解で危険な状況に自分が陥っている恐ろしさに、知らず呼吸が詰まりそうになる。そのあいだにもおっちゃんはもっと違う深刻な嘘をついてでも引き留めるべきだったと唸りながら山小屋へと入っていってしまって。
一緒にそこへ入っていくのも怖い。もしかしたら道に迷っている場合もあるしとわかりやすいように明かりを振り回しながら待っていると、やけにおっちゃんが戻ってこない。半壊しているし見るところだってそんなにない。コンクリート打ちっぱなしのような造りで天井も半分ほどしかない。
もしかしてヘビでも出たのか、転んで怪我でもしてしまったのか。なかなかの年齢だしと思って中へとおそるおそる声を掛けてみると「入ってきちゃいけないよ。駄目だよ」と返ってくる。
猪も出る山だから危ないことになっているのではないかと慌てて覗けば、なにやら天井を見上げながら唇を強く噛んでいる。その何とも言えない複雑な表情に放っておくこともできず、山小屋へ入っておっちゃんの隣に立って天井を見てみると。

「―――、え?」

そこには、青いリュックが張り付いていた。引っかかるところもないようなコンクリートの天井に。
ただ張り付いているだけではない。リュック全体がもごもごと、まるで中にたくさんの虫がこれでもかと詰まっているかのごとく激しく蠢いていて。
ぎちり、と。言葉にならないその恐怖に、2人ともひたすらに唇を噛んで耐えるしかなかった。理屈のわからない正体不明の怪異が目の前にあるのだ。首筋に鋭い刃先を突きつけられているかのような緊張感。けれどひょっとしたらこれは音と同じように、ずっと見続けてはいけないのではないのか。
なんにせよここにいては良くない。隣にいるおっちゃんの肩を掴んでどうにか一緒に山小屋から出ると、2人ともサウナにでも入ったかと思うほど全身汗びっしょりになっていた。
「おっちゃん今のなに!?今のなんなの!!?」
「……山霊だ、山霊にやられたんだ……」
走ってもう1回天井を見に行くも、もはやそこにはリュックはなく。どこにもいないねえと言いながら合流してきたうどん屋の店主におっちゃんが事の経緯を話すと、昔あったやつと同じだと呟く。昭和の頃にも山で人が行方不明になった際、あの山小屋の天井にその人の靴が張り付いてもごもごと蠢いていたことがあった。そうなるともう、助からない兆しなのだと。
俺たちにはもう出来ることはない。3人で山を下りて残していたスイカも食う気力もなく度数の高い酒を呷っていると消防団やら警察が探索に入ったようだったが、けっきょく何週間経っても見つかることはなくリュックもどこにもなかったらしい。
そのまま何年かしておっちゃんは寿命で亡くなり、うどん屋も歳だからと店を畳んでなくなってしまった。Aくんも今や社会人として働いているが、その山の近くにある実家には最近帰っていないのだという。


絶対に入ってはいけない日があっても、もはや誰も止められる者がいない山が、どこかにある。




※本記事はフィアー飯によるツイキャス『禍話』シリーズの「震!禍話 十四夜」より一部抜粋し、文字化のため再構成したものです。(1:37:22ごろから)

https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/461873367

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