【禍話リライト】九死の夜

それは博多で仕事があった夜の出来事だった。

博多という土地は酒も美味ければ食べ物も美味い。もちろんラーメンだって絶品だ。飲み会で満足するまで食って飲んで気持ち良く酔いが回り、そろそろ宿泊しているビジネスホテル戻ろうとしていた時ふとトイレに行きたくなった。
繁華街の道とはいえ、いま歩いているところはビルの隙間のひっそりとした人気のない区画でコンビニも近くに見当たらない。しかしホテルに着くまでの距離を我慢できる自信もない。どうしたものかと困ったまま進んでいると、前方に入り口に明かりのついたテナントビルが見えた。
おそらくここならば外側にトイレがついているだろう。一縷の望みを賭けそこへ入ってみると、管理人だろう中年女性がモップを持って掃除をしていた。後から考えてみれば二次会まで居てからの帰りで0時か1時の深夜帯に普通の人間ならそんなことをするはずがないとわかるのに、酔いに正常な思考を奪われた状態ではそこまで考えられることもなく。
わかりやすく股間を手で押さえたまま「あの、」と話しかけてみると、すぐに察してくれた女性はトイレならあっちの階段を下りて地下にありますから、と返してくれて。お礼を言ってその階段へ向かってみると、壁に『トイレ下』と目立つように大きく画用紙で張り紙がされてあった。
ああ、1階フロアにトイレがないからわざと目立つようにして貼っているのか。自然とそう解釈して急いで階段を下りていくと、どうやら地下の電灯が切れかけているのか点いたり消えたりチカチカしている。
どうせ少しばかり用を足すだけだし、あんな張り紙をしてるくらいなのだから行けばすぐにトイレを見つけられるだろう。そう考えながら地階に着き、さあトイレはどこだろうと右を確認してからふと左へ視線を移してみると、そこには1人の男がいた。
だらりと垂れた両手にはなにも持たず、直立不動で立っているその男は長身の部類に入る自分よりも背が高い。頭まですっぽりとフードを被った後ろ姿は、まるで大きな影に似て。こんなところに手ぶらで突っ立っているという状況は怖いものの、すぐそこまで迫った尿意は待ってはくれない。とりあえずここはトイレを探してしまおうと思っていると。
「ここの建物なら1階にね、誰でも使えるトイレがありますよ」
そう男がこちらに背を向けたまま単調な声音で喋りかけてきて。え、と酔っぱらった脳みそでもさすがに疑念が芽生えて踏み出そうとした足をぴたりと止めた。確かにここまで駆け下りてきたけれど、どうしてこちらがトイレに行こうとしているのがわかったのか。今の今までこちらをちらりとも見ていないというのに。
「ここの建物なら1階にね、誰でも使えるトイレがありますよ」
「あっ……はい……」
もう1度繰り返される言葉に渋々と返事をする。もしかしてあの女性は嘘をついていて、他にも自分と同じようにトイレを借りに来た誰かがいたのだろうか。この男はまんまと騙された人間にただ忠告しているだけなのかもしれない。
「でもあの、」
「あなたね、今かなり際どい状況にあるんですよ」
それはどういうことなのか。いきなり投げかけられた言葉が理解できない。恐喝や暴行されるという意味なのだろうか。それならわざわざ一言置かず殴りかかるなり蹴るなりするはずだ。ぐるぐると思考が回るあいだにも相も変わらず男は背を向けたまま、微動だにすることはない。
「……え、どういうことですか……?」
「あなたね、今、かなり際どい状況にあるんですよ」
ゆっくりと、男がこちらへ振り向く。不規則に明滅する明かりがその顔を映すも、どうしてか目元を隠すように長いガムテープがべったりと貼られていて。それも真新しいものではなく汚れてボロボロになったガムテープだ。じり、と背筋を這う寒気に先ほどまでの酩酊感も綺麗さっぱりなくなっていく。
意味がわからない。なにも見えないだろうそんな恰好で、こんなところに突っ立っていた?いま目の前にいるのは、いったい”何”だ?


「あなた、今、かなり際どい状況に、ありますよ」


堪え切れない恐怖に居ても立っても居られず元来た道を必死に駆け戻る。怖い。怖い。その気持ちだけで足を動かし、一心不乱に走る。しかし踊り場で気づいたのだが、降りた際にあったはずのあの張り紙がどこにも見当たらない。剥がしたのならテープの音がしたっていいはずなのに、地階にいた時にはそんな音は聞こえなかった。
息を切らし1階に着くもあの管理人のような女性はどこにもいない。しかも驚くことに女性が立っていたすぐそばに共用トイレがある。なんだっていうのか。意味がわからなくもそろそろ尿意には勝てず、とりあえずそこで用を足してしまうことにした。
小便器に立ちながら、地階にいた男のことを思い出して背筋が震える。普通の人間には非ざる不気味な風体。どうやら1階にまでは来る様子はないようだが、あの言葉の意図に思い至ることができない。こちらがかなり際どい状況にあると言っていたが、男がどういった旨意でそう言ってきたのか。害意か忠告か、それ以外か。
そうしていると、ふと視線を感じた。思わず反射的にそちらへ目をやると扉のないトイレの入り口から、―――あの中年女性がこちらを覗いている。どう考えてもおかしい角度で首を出しながら。じっと、こちらを見ているのだ。
「え、」
「あっちって言ったのになあ」
ずる、と。出てきた女性の上半身が視界に映ると同時に息が詰まった。最初に見たときはちゃんと服を着ていたはずだった。それなのに今はどう見ても袖がぶかぶかになっている。それは女性の身体が縮んでいるということで。どうして。……どうやって?
「あっちって言ったのになあ」
ああ、これはあきらかに生きている人間ではない。けれど恐怖のあいだにも出るものは止まってくれない。終わったらあの女性に立ち向かわなくてはならない。どうしようどうしようと焦りながら考えていると。
「まあまあまあ。積もる話もあるけれども、〇〇さんが用を足し終えてからしましょうねえ」
そうして踵を返して最初に立っていたところ、元居た位置に戻ってまた「〇〇さんが用を足し終えてからしましょうねえ」と喉を鳴らして笑っている。女性が口にしたのは自分の本名だ。読み方が難しくて一般的にはすぐにはわからない名字を、どうして今まで会ったこともないこの女性は知っているのか。下の名前まで。
このままトイレから出てしまえば自分はどうなってしまうのか。怖くて怖くてどうしようもなくて、トイレの窓から無理やり逃げた。小さい窓から死にもの狂いで出たせいでスーツもボロボロになって右肩が脱臼しかけたが、背に腹は代えられない。

そのままどうにかこうにかホテルまで逃げ帰った翌日。昨日見たものが夢だったのか酔っていたせいだったのか確かめるため明るいうち向かってみると、そこの入り口には昨夜なかったはずの工事中のコーンが立っていた。どう見てもそのビルは工事している様子なんてない。けれど立入禁止の案内や土木事務所の名前もしっかり書かれている。
ちらりと見えた地下へと降りるあの階段には、確かに黄色と黒のテープが貼られていて。あの男はなんだったのか、あのままトイレから出ていれば女性になにを話されていたのか。それはもはやわかるはずもなく、あの夜は正しく生きるか死ぬかの際どい狭間だったのだろう。それからはもう博多が怖くて仕方がない。



※本記事はフィアー飯によるツイキャス『禍話』シリーズの「THE 禍話 第16夜」より一部抜粋し、文字化のため再構成したものです。(35:28ごろから)

https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/576990894

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