萱野稔人『死刑 その哲学的考察』

✟道徳教育の強化によって殺人が減ったわけではない
 戦後日本の殺人率の低下にかんしてもうひとつ気をつけたいことがある。それは、「命の大切さ」を子どもたちに説くような道徳教育の強化によって殺人率が低下したわけではない、ということだ。
 命の大切さを説けば殺人事件が減るのなら、こんなに簡単なことはない。
 戦後の日本社会において殺人率が低下したのは、決して人びとの道徳意識が高まったからではない。そうではなく、人びとが長期的視点のもとでみずからの行為をコントロールする傾向が強まったり、人が全体として死ににくくなることで死の重大性がより強くなったりしたからである。
 つまり、道徳意識そのものを高めるような、道徳意識よりももっと手前のレベルでの変化があったからこそ、殺人率が低下したのである。道徳意識の高まりがあったとすれば、それは変化の原因ではなく結果なのだ。
 私たちは道徳意識に作用するようなさまざまな条件を改善することを考えるべきなのであり、道徳意識を出発点として問題を設定してはならないのである。
 たとえば心理学や教育学でもよくいわれることだが、他人を大切にする意識が子どもに育つためには、その子ども自身がまずは周りの人たちから大事にされなくてはならない。自分が大事にされた経験がなければ、他人の存在を大事にするという感覚は育ちようがないのである。自分を大事にしてくれる存在だからこそ、他者という存在も大事になるのである。他人を大事にするという道徳意識はあくまでも自分が大事にされて育ってきたことの結果なのだ。
 道德が重要なのはたしかにそのとおりである。しかしそれは、道徳を出発点とすべきだからではなく、道徳に作用するもろもろの条件について考えなくてはならないからである。

✟道徳はそもそも教育できるのか?
 これ別のいい方をすれば、道徳を「教育する」ことによっては道徳は教えられない、ということである。
 子どもたちに命の大切さを教えなければ犯罪は増加してしまう、と考えてしまう素朴な意見は、その時点で問題をとらえそこなっている。子どもたちが命の大切さを学べば殺人事件が減少するようなら、とっくの昔に殺人事件はなくなっているだろう。
 そもそも、子どもに命の大切さを教えなければ凶悪犯罪が増えてしまうような社会になっているのなら、それは完全に大人たちの敗北である。道徳教育によってしか命の大切さを学べないほど、生活のなかでは命の大切さを実感できない社会になっているということを、それは示しているからだ。
 本来、大人たちがすべきことは、他者との関係のなかで命の大切さが各人の意識のもとでおのずからはぐくまれるような社会をつくることである。そうした社会であれば、命の大切さをわざわざ教育によって説く必要はない。
 治安をよくするために道徳教育の強化に訴えることは、知的にも実践的にも大人たちの退行でしかないのである。

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