フロイト『夢解釈』

第2章 夢解釈の方法

 ヨーゼフ・ブロイアー J.Breuer の重要な報告があって以来、私はすでに何年もの間、治療を目指してある種の精神病理的な形成物、すなわちヒステリー性の恐怖症や強迫観念などを解消させることに取り組んできた。すなわちブロイアーの報告によれば、これらの形成物の謎が解かれるということと、病の症状として知覚されているこれらの形成物が解消するということとは、一つのこととして同時に生じるものなのである。これらの病理的な観念は、患者の心の生活の中の要素から出てきており、その要素へとその病理的観念を連れ戻すことができれば、それは崩落して、患者はそこから解放されるという。それ以外の治療の努力が水泡に帰し、これらの病理状態の謎が深まり続けるという当時の事情のもとにあって、このブロイアーの始めた方法は、完全な解明が得られるところまで万難を排して推し進めてみようと私に思わせるだけの魅力があった。この筋道をどのような技法によって具体的な形にしたのか、またそうした努力の成果はどのようなものであったのかについては、私はまた別の機会を捉えて詳しく報告を行うことになるだろう。私が夢解釈の道に踏み込むことになったのは、この精神分析的な探究の途上においてであった。私は患者たちに、ある一定のテーマをめぐって心に押し迫ってくる様々な着想や観念をすべて私に伝えるという義務を課したが、すると彼らは、彼らの夢を語るようになったのである。こうして私は、病理的な観念に発する想起を遡航的に辿って得られる心的連鎖のうちに、夢というものが組み込まれているらしいということを、彼らから教えられたのであった。そこで今度は、夢そのものを症状のように取り扱い、症状のために編み出された解釈方法を、夢にも応用してみようという段になったのである。
 さてそのためには、患者の側の一定の心的準備状態が必要である。われわれは患者に二つのことを求める。すなわち一方では、心的知覚への注意力を高めること、そして他方では、浮かび上がってくる想念に対して普段行使されている批判力を、ここでは遮断しておくことである。全的な注意を以て自己観察を行うという目的のためには、安静にして目を閉じておくことが有利である。知覚された思考形成物に対しての批判を取りやめるということについては、われわれはこれを明示的に患者に課さなければならない。それゆえ患者には次のように言うことになる。精神分析の成否は、患者が自分の感覚の中を通過するものすべてを観察し報告することができるかどうかに、そして、思いついた観念について、やれこの観念は重要でなくテーマに関係が無いだとか、やれあの観念は無意味に見えるとか言って、頭に浮かんだ観念を抑え込んでしまう誘惑に抗することができるかどうかに懸かっている。患者は、自分の頭に浮かぶ観念に対して完全に公平に振る舞わなくてはならない。夢、強迫観念、そしてその他もろもろのものを解きほぐそうと求めながらそれが叶わないならば、それはそうした批判力のせいなのである。
 精神分析の仕事にいそしむうちに気が付いたことであるが、何かを熟考している人の心的態勢は、自分自身の心的出来事を観察している人の心的態勢とは、まったく異なっている。何かを熟考する際には、どんな注意深い自己観察の際よりも、より多くの心的活動が機能状態に入っている。そのことは、自己観察者の穏やかな表情に引き比べて、何かを熟考している人では表情が緊張し額に皺が寄るというようなことにも示される。どちらの場合にも注意力の集中が起こっているには違いないが、何かを熟考している人はそれに加えてある種の批判力を行使しているのである。その批判力によって、その人は自分のほうに立ち上ってくる思いつきを、知覚はしたものの一部は排除し、また他の一部は中途で絶ち切るということをやってのけている。そのようにして彼はその思いつきが開いたかもしれない思路を辿らずに済ませ、また別の想念に対しては、彼はそれがそもそも意識されないように、すなわちおのれの知覚に来る前に抑え込まれてしまうように振る舞ったりもできるのである。それに対して、自己観察者が執っている労はと言えば、逆にこうした批判力を抑え込むことだけである。このことに成功すると、それまでは把握されることなく留まっていた無数の思いつきが、彼の意識に現れてくる。自己知覚に対してこうして新たに獲得された素材の助けを借りて、病理的観念や夢の形成物の解釈が遂行されてゆくことになる。お分かりのようにここでなされるべきことは、心的エネルギー(可動性の注意力)の配分という点で、入眠前の状態(むろん催眠状態も含まれるが)に一脈相通じるような心的状態を設定する、ということである。入眠時には、随意的な(したがってまた確かに批判的な)作用がいくつかの面で後退するのに伴って、「意志されたのではない諸表象」が浮かび上がり、それらの表象によって、表象作用の成り行きそのものが影響されるが、人々はそれで良しとしている。随意的な作用のこのような後退の元になるのは通例「疲労」であると考えられている。浮かび上がってきた意志されたのではない諸表象は、視覚的および聴覚的な像へと、変容していく。(シュライエルマッハー(五一頁〔本巻七三頁〕)らの見解を参照のこと)。夢や病理的観念を分析する際に用いられる状態では、むしろ意志的に、また意図的に、随意的(批判的)な作用を放棄して、余った心的エネルギーを(またはその一部を)、今浮かび上がりつつある意志されたのではない思考を注意深く追いかけてゆくことへと振り向けるのである。するとそれらの思考は、表象としての質を、(入眠時の状態とは違って)保ち続ける。こうして、「意志されたのではない諸表象は、「意志された諸表象へと変えられるのである
 「自由に立ち昇ってくる」観のあるいろいろな思いつきに対して普通ならば行使されるはずの批判力を、ここでは取り下げるようにと推奨しているわけであるから、このような対応は、多くの人にとって採用困難なものと映るだろう。確かに、「意志されたのではない思考」に対しては、その浮上を阻止すべく、強い抵抗の力がどっと押し寄せてくるのが常である。しかしわれわれドイツの偉大な詩人にして哲学者であるシラーの言に信を置いてみるならば、このような対応は、詩を作り出す条件の中にも含まれているに違いないことが分かる。ケルナーと交わした彼の書簡の中に、次のような個所が含まれているのをオットー・ランク Otto Rank が突き止めた。シラーは、自分の創作力が低いのではないかと嘆く友人ケルナーに答えてこう書いている。「君の嘆きの元は、どうも、君の悟性が君の想像力の上に揮っている強制にあるように見えます。私はここで一つの考えを述べてみますが、それには比喩を使って言い表すしかありません。流れ来る様々な想念を、悟性があたかも戸口のところで待ち構えていて、あまりにも明確な形に整理整頓してしまうとしたら、それは良いことだとは思えないし、心の創造作用にとって不利に働くであろうと思われます。一つ一つの想念は、それだけ切り離して見てみれば、取るに足らなかったりとんでもないものだったりするでしょう。けれどもそれは、その次にやってくる想念によって、重要なものに成るかもしれないし、また、同じようにまったくつまらないように見える別のいろいろな想念と結び付けてみると、たいへん目的に叶った一部分を成していたりすることもあります。──このような結び付きをすっかり見て取るに至るまで、すべてのものを保持しておくというのでもなければ、悟性にはこういったことすべてを判断することはできないわけです。これに対して、このように言わせてもらってよければ、創造を行っているときの頭の中では、悟性は戸口での監視から撤退しています。だからいろいろな想念が《ごちゃまぜ》に侵入してきます。そしてその後、悟性はこの大群を眺め渡して整理するのです。──何と自称されているかはともかく、批評家の先生方は、瞬間の、一時的な妄念を、恥じたり怖れたりなさる。しかしそういう妄念は、すべての独自的な創造者に見いだされ、それが長く続くか短く終わるかということが、考える芸術家を、夢見るだけの人から区別しているのです。だから、創作がはかどらぬという貴殿の嘆き、それは、貴殿があまりにも早く排除なさり、あまりにも厳密に区分けなさることから来ているのです」(一七八八年十二月一日付書簡)。
 しかし、シラーの言う「悟性の監視を戸口から撤退させる」こと、あるいは、批判をふるい落とした自己観察の状態に自分を移し置くこと、それは決して難しいことではない。
 私の患者のほとんどは、一度指示を受けただけでその状態を成立させてくれるし、私自身も、思いつきを書き留めることで下支えをすれば、すっかりその状態に到達できる。批判的作用を減らしてその分自己観察の強度を高めるために用いることができる心的エネルギーの量は、注意力を用いてどのようなテーマを固定させようとしているのかによってずいぶんと違ってくる。
 そこで、この手続きを適用してみてまず初めに分かってくるのは、注意力を振り向ける対象としては、全体としての夢ではなくて、夢の内容の個々の部分部分が良いということである。まだ不慣れな患者に、この夢に対しては、どんなことを思いつきますか、と尋ねても、患者は、自分の精神的な視界から、何も摑み出せないのが普通である。そんなときには、私は患者の夢を、ばらばらにして見せてあげる。そうすると、その個々の断片に対して、一連の思いつきが浮かんでくるのを、患者は私に話してくれる。それらの思いつきは、夢の各部分の「背景思考」と呼んでいいものであろう。こうした最初の重要な条件のもとで、私が行い慣れている夢解釈の方法は、歴史の中で伝えられ伝説化し、人口に膾炙した象徴作用による解釈から離れて、先ほどの分類で言えば二番目の、「暗号方式」に近づくことになる。私の方法は、「暗号方式」と同じように、《細部》解釈とでも言うべき解釈であって、《全体》解釈ではない。私の方法では、そもそも夢というものを、何かの寄せ集めのようなもの、ないしは、心的形成物の凝集体であると理解してかかっているのである。

 神経症者に精神分析を施しながら、私は優に千を超える夢を解釈してきた。しかし私はその素材を、ここで夢解釈の技法と理論への導入のために使うのは気が進まない。それらは神経を病んだ人々の夢であって、それを元に健康な人間の夢を云々するのはもっての外である、という非難に晒されることになるのはひとまず措くとして、私には、これらの夢を排除しておかざるを得ない別の理由がある。いうまでもなく、これらの人々の夢が向かっている方向は、常に、神経症の基盤になっている病歴である。そうすると、いちいちの夢に、長い予備的な報告をして、問題の精神神経症の性質と病因論的事情について立ち入っておく必要が出てくる。こうしたことは、およそそれ自体として、目新しくきわめて馴染みの薄いことがらであるから、肝腎の夢問題から注意が逸らされることになってしまいかねない。私の意図としてはむしろ、夢を解くということをもって、神経症心理学のより難しい問題を解決するための予備的作業としたい、という気持ちがある。しかし、私にとっての中心的素材である神経症者の夢を諦めてしまうと、私には、その他の可能性についてそれほど選り好みをする余裕はない。残されているのは、たまたま知り合いの健康な人が語ってくれた夢だとか、夢生活についての文献から例として抜き出して来た夢ということになってくる。ところが残念なことに、このような夢たちには、分析を施すことができない。分析なしでは、夢の意味を見つけ出すことはできないのである。私の取っている手続きは、与えられた夢内容を決まり切った親によって翻訳してゆくあの通俗的暗号方式ほどには、お手軽便利にはできていない。むしろ私は、同じ夢内容でも、人が違い文脈が変わるのに応じて、別の意味を隠しもつことになるものだと自分に言い聞かせている。このような事情から、私はとうとう私自身の夢を当てにすることにしたのである。自分自身の夢なら豊富で手近にあり、おおよそ正常な人間から出てきた素材だと言わせてもらっていいだろうし、また、夢の多様なきっかけになった日常生活上の出来事に関連させることもできるからである。この「自己分析」に対しては、その信頼性に疑問を投げかける向きも必ずやあるだろう。念意が入り込むのを避け難いのではないかというわけである。私の判断では、自己観察の場合のほうが、他人による観察の場合よりも、事情は有利に働くものである。いずれにしても、自己分析によってどこまで夢解釈を進めることができるものなのかということを、ここで見ておいてもらってもよいのではないだろうか。ただし克服すべき困難はまだあって、それは私自身の内面にある。自分の心の生活の内密な部分をかくもたくさん晒し物にするのは何といっても気の引けることであるし、また他人たちからはどんな誤解を受けるやもしれめ。しかしこういったことに構ってはいられない。デルプフも書いているように、「《あらゆる心理学者は、己の弱さを告白することを避けることはできない。もしそうすることで、闇に閉ざされた何らかの問題に光を投げかけることができると信じるならば》」。また読者の立場に立って考えてみても、はじめは私の余儀ない打ち明け話が興味を惹くかもしれないが、そういう興味はすぐに、そこで照準を合わせられている心理学的な問題の深まりのほうに、席を譲ってゆくだろうと期待してよいだろうと思う。

第4章 夢の歪曲

 これはどうやら、一般論的に当てはまる知見のようである。第三章のいろいろな例が示していたように、そのままで欲望成就になっている夢がある。欲望成就がそれと分からないように偽装している場合には、欲望への防衛傾向が存在しているに違いなかろう。そしてこの防衛の結果、欲望はまさしく歪曲を受けた形で表現にもたらされているのであろう。心的な内面生活で起こっているこの現象に対応するものを、社会生活の中に見つけ出してみよう。社会生活の中でも類似の心的行為の歪曲が行われているとしたら、どの辺りにありそうだろうか。それは、二人の人物がいて、そのうち一人は権力を保有し、もう一人はその権力に配慮しなければならないという場合しかないだろう。するとこの二番目の人物は、自分の心的行為を歪めることになる。あるいは、この人物は自分を偽ることになると言ってもよい。私が毎日守っている礼儀も、大部分はこの偽りに当てはまり、私が読者に自分の夢を解釈して語っている時にも、やむなく同様の歪曲をしている。このような歪曲への強迫を、詩人は次のような言葉で嘆じている。

 「おまえが知りうる最上のことは、子どもたちには言ってはいけない」。

 権力者たちにとっては面白くない真理を言わなければならない政治畑の文筆家も、良く似た状況に置かれている。彼が真理を直截に言えば、時の権力者は彼の発言を抑え込みにかかってくるだろう。それが口頭で言われたのであれば、事後的に。それが印刷物の形で公にされるはずであれば、事前に。文筆家は、この検閲を懼れなければならない。だから自分の意見の表現を和らげたり歪めたりすることになる。検閲の強さと敏感さに応じて、ある種の形の攻撃だけは素直に控えるとか、直接の言及の代わりに仄めかしにするとか、または一見無害に見える偽装の下に、棘のあるメッセージを仕込んでおくといったことをせざるを得ない。たとえば自分の国の役人たちが目当てなのに、中国の二人の大官の間で持ち上がった事件を描くといった具合である。検閲が強力になればなるほど、偽装は周到になり、読者にその本来の意味するところが読みとれるようにするための技巧も凝ったものになる。
 検閲という現象と、夢の歪曲との間の、個々の細部にまで及ぶ一致は、両者とも類似の条件によって規定されているということをわれわれが想定する充分な理由となる。そこでわれわれは、夢の形態の起草者として、個々人の中に二つの心的な力(流れ、系)があると仮定してみよう。その一方は、夢によって表現にもたらされる欲望を形成し、もう一方は、この夢欲望に対して検閲を加え、検閲によってその表現に歪曲を押しつける。ただ、検閲を行使することを可能にする第二の審級の権能が、どこに存しているのかは疑問である。潜在的な夢思考は分析以前には意識されていないが、その潜在思考から出てくる顕在的夢内容の方は意識されたものとして想起されるということを想い出してみれば、第二の審級の特権は、意識への入場許可にあると仮定してみるのは的はずれではなかろう。前もって第二の審紋を通過していなかったものは、第一の系から出て意識に到達することはできないのではないか。また、第二の審級は、自分の権利を行使してからでなければ、つまり、意識に入りたがっているものに自分に都合の良い変更を施してからでなければ、何も通過させないのではないか。このように考えてくると、われわれはどうやら意識の「本質」についてまったくもって明快な見方を提供していることになる。すなわち、われわれにとっては、意識化されることは、措定されたり表象されたりする過程とは別種の、またそこから独立した特殊な心的行為であり、そして意識は、どこか別のところから与えられる内容を知覚する、一種の感覚器官であるように思われる。精神病理学はこれらの根本仮定を絶対に無しで済ませられないことが分かる。これらの根本仮定の詳細な評価は、後の章のために取っておこう。

〔…〕

 私は、彼女がこの同一化を現実に行ったと思う。そしてこの同一化のしるしとして、彼女は不首尾に終わる欲望を現実生活の中で創り出している。しかし、このヒステリー性の同一化には、どんな意味があるというのだろう。その説明のためには、やや立ち入った記述が必要になる。同一化は、ヒステリー症状の機制にとって最も重要な契機である。この同一化の道を通って、患者は、自分自身の経験ばかりではなく、一連の多くの人物たちの経験を、その症状のうちに表現することができる。さらには民族全体のために病むことや、芝居のすべての役を、ただ自分の個人的な手段を通じるだけで、いわば一人で呈示することができる。それは良く知られたヒステリー性の模倣のことだろうという反論があるかもしれない。ヒステリー性の模倣というのは、患者に印象を残した他人のあらゆる症状を模造する能力であり、いわば再生にまで高められた同情である。しかしそのような反論では、ヒステリー性の模倣において心的な出来事が通ってゆく道が示されるだけである。そうした道と、その道を通ってゆく心の行為とは、多少とも区別されるべきものである。後者は、人々が思い描きがちなヒステリー者たちの模倣よりも、少々複雑である。具体例で考えてみればはっきり分かるが、模倣の道を通ってゆく心的行為は、無意識的な推論過程に相当するものなのだ。たとえば、一定の様式の痙攣を示す女性患者を、他の患者たちと同じ病室に収容した医師は、ある朝、その様式のヒステリー発作が他の患者に模造されるようになっているのを見いだしたところで、驚きはしない。彼はこう呟くだけだ。他の患者たちは発作を目にしてその後追いをした。これは心的伝染というやつだ、と。確かにそうだろう。しかし、心的伝染はたとえば次のような経路で進む。患者たちは概して、医師よりも、互いについて良く知り合っていて、医師の訪室が終わった後で、お互いの身を心配し合うものだ。ある女性患者に今日発作が起きた。ほどなく、家から手紙が来たこととか、恋の悩みがぶり返したとかいうことが、その原因だったという話が皆の知るところとなる。皆の同情が掻き立てられる。そして皆の中で、次のような、意識には手の届かない推論が進んで行く。これこれの原因でこれこれの発作が起きうるのだとすれば、自分にもまたこれこれの発作が起きうるはずだ、なぜなら自分にも同じきっかけがあるからだ。もしこれが意識の手の届く範囲にある推論であれば、おそらくその推論は、同じ発作が起きてしまうのではないかという不安へと結実したであろう。しかし、この推論は別の心的領域で進行し、憧れている症状が現実になってしまうという結果を産んだのである。このように、同一化というのは単純な模倣ではなくて、同じ病因があるという主張を根拠にした私物化というべきものである。つまり同一化は、「ちょうど……のように」ということを表現し、無意識のうちに居残り続けている何か共通のものに関係付けをしているのである。
 ヒステリーにおいて同一化が最も頻繁に用いられるのは、性的な共通性を表現しようとする場合である。ヒステリーの女性患者がその症状によって最も容易に同一化を行うのは──他の場合がないというわけではないが──、性的関係を持った当の相手に対して、もしくは、自分が性的関係を持ったのと同じ相手と現に性的関係を持っている人に対してである。言語の慣用はこのことを見逃しておらず、恋する二人は「一心同体」と言ったりする。夢においてもそうだし、またヒステリー患者の空想ファンタジーにおいてもそうなのだが、必ずしも現実に性関係が無くても、性関係についての考えを抱くということだけで、同一化が起こるには充分である。このように見てくると、先ほどからわれわれが話題にしている女性患者が、女友達にやきもちをやき(そのこと自体は根拠が無いということを本人もわきまえているわけだが)、そのやきもちを、夢の中でその友達の立場に立ったり、症状(不首尾に終わる欲望)を創り出して友達に同一化することで表現したのは、ちゃんとヒステリー性思考過程の法則に沿っているのである。このときの過程を言語的に表現すれば次のようになるであろう。彼女の夫にとっての彼女の地位を、彼女の女友達が占めている。また、女友達が夫による評価において得ている場所は、自分が占めたいと思う。だから彼女は、その友達の立場に自分を置く。
 私に夢を語った女性患者たちのうちで最も頭の切れる人も、私の夢理論に反論したが、この反論は、より簡単に、また、一つの欲望が成就しないことはすなわち別の欲望が成就することである、という先ほどと同じ図式に則ってきれいに解決された。ある日私は、彼女に夢は欲望成就だと説明していた。次の日彼女は、姑と一緒に乗り物に乗って、休日を過ごすための田舎の家に向かっているという夢を私に報告した。ところで私は、彼女が姑の近くでその一夏を過ごすことに強く逆らっていたということを知っていた。また、間際になって、彼女が姑から遠く離れた避暑先をうまく借り受けることにより、その嫌がっていた同居を回避したということも知っていた。ところが夢は、彼女のせっかくのこの成功を、水の泡にしてしまっている。これは、夢による欲望成就という私の理論への、明らかな反証ではないか。確かにその通りではある。そしてこの夢の解釈に到達するには、この夢の論理的な続き具合を辿って行きさえすればよい。夢によれば私は間違っている。つまり私が間違っていればよいということが彼女の欲望であり彼女の夢はこの欲望を成就されたものとして示したのだ。しかし、私が間違っていればよいという彼女の欲望は、夢では夏の休暇中の住まいに関連して成就したが、現実には、別の、もっと深刻な問題に関連していたのである。ちょうどその頃、私は彼女の分析において現れた素材を元に、彼女の人生のある時期に、彼女が病気になるに当たって意味を持つことになる何かが起こっていたに違いないという推論を立てていた。彼女はそのような件は想い出せないと言ってこれに異を唱えていたが、まもなく私が正しかったということでわれわれは合意に達した。この時になってやっと気付かれ始めたこの件が、そもそも起こらなかったらよかったのにという欲望が彼女にあったのは、まことにもっともである。私が間違っていればよいという彼女の欲望は、今は姑とともに田舎へ行っているという夢へと変容しているが、それは、このもっともな欲望に即応するものだったのである。
 分析をせずに、単に憶測だけで、私はある友人に起こった小さな出来事を解釈してみたことがある。その友人とはギムナジウムの八年間、同級生であった。彼はある仲間内の小さな講演会で、私が夢は欲望成就であるという新説を立てているということを聞き、家に帰ったが、自分の関わったあらゆる訴訟に負けた──彼は弁護士であった──という夢を見たのである。そして私のところへ来てそのことを嘆いた。私は、だってすべての訴訟に勝つなんてことは不可能じゃないか、と気休めを言ってその場逃れをしたが、心の中ではこう考えていた。私は八年間ずっと首席で通したが、彼はと言えば、クラスの真ん中辺りのどこかをうろうろしていたから、私がいつかとんでもないへまをやらかして物笑いの種になればよいのにという子ども時代からの欲望がはるか今まで残っていたのではないだろうか、と。

〔…〕

 私はこの夢を講義の中で話したことがある。ある若い医師は、その話に強い印象を受けたらしく、たちまち、この思考図式を別の話題に当てはめたような夢を見たという。夢の前日、彼は所得税の申告を行ったが、所得額も知れたものだったので、まったく正直に書き込んでおいた。そして夢を見たのだが、一人の知り合いが税務局からやって来て、他の人たちの申告はすんなり承認されたのに、彼の申告にだけは皆からの疑惑がかけられて、重い追徴金が課せられることになったと知らせてくれた。これは、収入の多い医者として認められたいという欲望成就の、手際の悪い隠蔽である。これはちょっと、あの有名な小咄を想い出させる。癇癪もちの男性と結婚すると、結婚してからさんざんぶたれることになるから、彼の求婚は受けないようにと忠告されたある娘が答えて曰く、それじゃまず、ぶってみて欲しいわ! 結婚して欲しいというこの娘の望みはあまりに活発だったので、結婚後に心配される辛さをも、彼女は甘んじて引き受け、さらにそれを自分の欲望にまで高めてしまったのである。
 夢の中で欲望が不首尾に終わったり、明らかに欲せられてはいないようなことが起こったりして、私の理論に真っ向から刃向かっているように見えるこの種の夢は、非常にしばしば見られるものである。そこでこれらの夢をまとめて「反欲望夢」と呼ぶことにしてみれば、それは一般に二つの原理に帰せられることが分かる。そのうちの一つについては、人々の夢のみならず生活においても大きな役割を果たしているにもかかわらず、まだ言及しておかなかった。さて、これらの夢の原動力のうちの一つが、私が間違っていてくれればよいという欲望である。これらの夢は通例、患者が私に抵抗しているときの治療中に現れた。夢は欲望成就であるという私の理論を初めて患者に説明したあとは、この種の夢が喚起されてくることを計算に入れておいてまず間違いなかった。いやそれどころか、本書の読者諸氏の身の上にも、これと同じことが起こるだろうと予期してもよさそうだ。読者は、私が間違っていて欲しいという欲望を成就させんがために、夢の中で進んで何らかの欲望を不首尾に終わらせたりなさることだろう。これで最後にしようと思うが、治療中のこの種の夢をもう一つだけお出ししておきたい。この夢の示すところもやはり同じである。ある若い女性が、身内からの反対や、相談に引っ張り出されたお偉方からの反対に遭いながらも、何とか頑張って私のところでの治療を続けて来ていた。その彼女の見た夢である。家で、これ以上私のところに通うことを禁じられる。それで私のところに来たときに、私が以前、もし必要なら無料で治療を続けましょうと約束したことを持ち出す。すると私が、お金のことでは斟酌することはできない、と言った
 この夢のどこが欲望成就なのだと言われれば、確かに即答するのは簡単ではない。しかし、こうした場合の常として、もう一つの謎が見つかって、そちらを解けば初めの謎も解けたりするものである。彼女が夢の中で私の口から言わせている台詞がどこから来たのかということがこの第二の謎に当たる。もちろん私は彼女にこのようなことはまったく言ってはいない。それを言ったのは、彼女の兄弟の一人で、彼女に大きな影響力を持っている人物である。この人物が、わざわざ御親切にも、私ならこう言うだろうという話を彼女にしてやったのである。だからこの夢は、この兄弟の言ったことの正しさを示すことを意図している。彼女は、この兄弟の言うことなら何でも正しいことにしておきたかったのだが、それは夢の中だけではなかった。この考えは彼女の生活内容そのものとなっていたし、まさにそのことが彼女の病の動機になっていたのである。
 一見しただけでは欲望成就理論にとっての特別な困難となるだろうと思えるような夢を、ある医師(アウグスト・シュテルケ Aug. Starcke)が見て、それを解釈している。
 「左の人差し指の先端の指節に梅毒の|初期硬結《プリメール・アフェクト》ができていて自分はそれを見ている」。
 この夢は、夢を見た人にとっては望ましくない内容だけれども、それ自体は明白でまとまっていると思われるから、別に分析する必要を感じさせないかもしれない。しかしながら、分析の労を厭わなければ、「初期硬結」は「《初恋プリマ・アフェクティオ》」と等置できるし、嫌な潰瘍は、シュテルケの言葉に従えば、「多大な情動を帯びた欲望成就の代理」であることが判明する。
 反欲望夢のもう一つの動機は、あまりに分かり切ったことなので、ともすれば見逃されがちである。私自身もかなり長い間そうだった。非常に多くの人間の性的体質中に、攻撃的でサディズム的な要素がその反対極に転化して生じたマゾヒズム的構成要素がある。そうした人々が、自分に加えられる肉体的な痛みではなく、卑屈と心の責苦の中に快を求めに行くとき、彼らは「観念的」マゾヒストと呼ばれる。これらの人々が反欲望夢や不快夢を見たら、それが彼らにとってはすなわち欲望成就、ないし彼らのマゾヒズム的傾向の満足になっているということは直ちに明らかであろう。そのような夢を一つ引いておこう。ある青年は、その少年時代に兄に対して同性愛的に惹かれていて、その兄をひどく苛めていた。その後、性格が根本から変わった頃に、彼は次のような三部分から成る夢を見た。一、兄が彼を「苛めている」ところ。二、二人の大人が同性愛的な意図でよろしくやっているところ。三、彼はゆくゆくは兄の事業の経営権を譲り受けるつもりにしていたが、その事業を、兄が売却してしまった。この最後の夢から、彼は苦痛きわまる感情とともに目覚めた。しかしこれはマゾヒズム的な欲望夢であって、それを翻訳するならばこうなるだろう。兄がその昔堪え忍んできた私からの数々の責め苦に対して、その罰として、自分の事業を売却して私を困らせたとしても、それは私にとっては当然の報いというものだ。
 以上の実例から、苦痛な内容の夢でも欲望成就として解かれうるということが、──さらなる異論が出されるまでは──一応信じておいてよいものとしていただけると思う。それらの夢を解釈すると、必ず当人にとって話したくない、あるいは考えたくない問題にぶつかってきたが、これを単なる偶然の現れだとは誰も言わないであろう。それらの夢が惹き起こす苦痛な感情は、その問題を扱ったり考慮に入れたりすることからわれわれを遠ざけておこうとする──たいていはそれに成功する──反感と、もちろん端的に一つのものである。しかしわれわれがその問題にまで着手せざるを得なくなっていることが分かれば、われわれの一人一人は、この反感を克服しなければならない。夢の中に頻繁に現れるこの不快感は、決して欲望が存在しないと言っているわけではないのである。できたら他人に知られたくない、また自分自身にさえ認めたくない欲望は誰にでもある。むしろわれわれは、こういったあらゆる夢の不快の質を夢の歪曲という事実に関連させて、次のように結論づけてよいのではないかと考える。すなわち、夢が問題にしていることやそこから出てくる欲望に対しては、ある種の反感、あるいは抑圧の意図が存在していて、そのために夢はまさにそのような姿に歪曲され、夢にある欲望成就は、見分け難いまでに偽装されるのである、と。したがって、夢の歪曲は、事実上一つの検閲の行為であると見なされる。不快夢の分析が明るみにもたらしたものをすべて考慮に入れるために、夢の本質を表現するわれわれの公式は、次のように書き直しておくことにしよう。夢はある抑え込まれ抑圧された欲望の、(偽装された成就である
 さて、苦痛な内容を持った夢の特殊な下位様式としての不安夢については、これを欲望夢として捉える理解に対しては、素人筋からは僅かな同意しか得られないであろうし、問題として残されたままである。しかし私はここでは、その問題はごくあっさりと扱うだけにしたい。というのは、不安夢は、夢についてわれわれに新しい問題を突きつけていると言うよりも、むしろ、この夢でもって神経症性の不安一般をどのように理解するかという意味で重要だからである。われわれが夢の中で感じる不安は、その内容によって説明されるように見えてもそれは表面上のことに過ぎない。夢内容を解釈に付してみると、夢の不安は、たとえば恐怖症の不安が、病気が結び付いている表象そのものによっては説明できないのと同じように、夢の内容によっては説明できないことにわれわれは気付く。例を挙げると、窓から落ちることは必ずしも無いことではないので、窓際では用心しておくに越したことはない。それはもっともだとしても、窓に関係する〔高所〕恐怖症で、不安がどうしてあれほどまでにも大きく、そうしたもっともな程度を越えてまでも、どうして患者にあれほどまでに付きまとうのかということは、理解されない。この説明は、恐怖症だけではなく不安夢にも当てはまる。どちらの場合も、不安は、それに伴う表象に、単に、はんだづけされているだけであって、別の源泉から発しているのである。
 夢の不安は、神経症の不安とこのように内的に密接に繋がっているので、夢の不安の説明のためには、神経症の不安を参照するようにお願いせざるを得ない。「不安神経症」についての小さな論文(Neurologische Zentralblatt,1895(GW-I)〔本全集第一巻〕)で、私は、神経症性の不安は性生活から発生し、本来の使命から逸れて使用できなくなったリビードに対応しているのだと主張した。以来、この定式はますます根拠のあることが示されてきている。そこからは次のような命題が出てこよう。すなわち、不安夢は、性的内容の夢であって、この夢に属しているリビードは、不安へと転化しているのである、と。後にこの主張を、神経症者のいくつかの夢の分析によって裏付ける機会を持とう。この後の記述で、私は一つの夢理論へと近づいて行こうとしているが、その中で再び、不安夢を規定している条件と、不安夢が欲望成就理論といかに整合性を持ちうるかということを論じたいと思う。

第5章 夢の素材と夢の源泉

A 夢における直近のものと些末なもの

〔…〕

 夢の〔顕在〕内容が仄めかしているのは、あの些細な印象についてのみである。このことは一見、夢は覚醒生活の副次的なことがらを好んで取り上げるという説を確認するものであるかのように見える。これに反して、解釈を辿って行くと、私が興奮してしまうのももっともだと思えるような重要な経験に、すべてが繋がっていた。だから唯一正しいやり方は潜在内容に従うことであって、分析によって明るみに引き出されてくる潜在内容に沿って夢の意味を判断して行ったときに、私は思いがけず、新しい重要な認識にまで至り着いたのである。夢は昼間の生活の無価値な断片のみに関わっているのはなぜかという謎は、もはや謎でも何でもない。私はまた、覚醒時の心の生活は夢の中までは続いて行かないものであり、夢はしたがって心的活動を愚にもつかぬ素材で浪費しているだけであるという主張に反論しなければならない。その反対が真なのである。昼間にわれわれの心を占めたものは、夢思考をも支配する。思考のきっかけになる素材を昼の間に与えられているからこそ、われわれは夢を見ようと努めるのである。

〔…〕

 このように考えてくると、ついでながら、次のようなことにも注意が及ぶであろう。すなわち、夜の間に、われわれの意識には気付かれぬままに、重要な変化がわれわれの想起や表象の素材に関して生じうるということである。したがって、あることを最終的に決定する前には一晩ゆっくりそのことを抱えたまま眠れという勧奨には、明らかに根拠があると言える。しかしここまで来るとわれわれは夢見の心理学から出て、眠りの心理学へと一歩を踏み出してしまっている。こういう勇み足が起こるきっかけにはこれからもこと欠かないであろう。
 さてここに、これまでの推論を覆すおそれのある一つの異論がある。些末な諸印象が、単に直近のものであるというだけで、夢内容の中に到達することができるのであれば、なぜにわれわれは夢内容の中で、より古い人生の時期からの要素たちに、よく出会うことになるのか。それらの諸要素は、直近のものであったその時代には、シュトリュンペルの言い方を借りれば、何らの心的価値も備えていなかったので長い間忘れ去られていたに違いない。それらは、もう新鮮でもないし、もともと心的に重要でもない。それなのになぜそれらの要素が今見いだされるのか。この異論は、神経症者との精神分析の成果を踏まえれば、完全に取り除くことのできるものである。その解決はこうである。心的に重要な素材を些末な素材によって(夢見るときにも考えるときにも)代替する遷移が、そうした古い人生の時期にすでに起こっていたのであり、それ以来この遷移は、記憶の中に固着したものとなっているのである。元はといえば些末であった諸要素は、遷移によって、心的に重要な素材の価値性を引き受けて以来、もう些末なものではなくなっている。現実に些末なままにとどまったものは、夢で再生されるということもあり得ない。
 ここまでの説明をお読みになって、夢の些末な惹き起こし手というものはなく、したがって無垢な夢というものもないというのが私の主張なのだろうと読者がお考えになるとしても、それはもっともなことである。そしてまたその通りなのである。私はあらゆる厳密さでそう考えており、またそれ以外の考え方はいっさいしていない。ただ、子どもたちの夢と、夜間の感覚に対する夢の形での短い反応のようなものは、ここには含めていない。それ以外の場合、人が夢に見るものは、顕在的に心的に重要であると認められるか、または、正められているので夢解釈を完遂したあとで初めて判断してみると、やはり重要であることが認められる。夢は決して取るに足らぬことには関わり合わない。眠りの中でまで、われわれは些事に煩わされることはしない。一見して無垢な夢でも、解釈に専念してみると、底意のあることが分かる。俗な言い方を許してもらえば、そういう夢はなかなかの「食わせ者」である。ここのところは再び私が反論を覚悟しなければならない論点であるし、また私はむしろこの機会を捉えて、夢の歪曲がその工作ぶりを発揮しているところをお示ししたいと思うので、聞き集めた夢の中から一連の「無垢な夢」を取り出し、分析を施してみることにしようと思う。
D 類型夢

〔…〕

 『エディプス王』と同じ地盤に根ざしているもう一つの偉大な悲劇作品がある。シェイクスピアの『ハムレット』である。しかし、同じ材料を扱ってもその扱い方には変化があり、この変化は、二つの時を隔てた文明の間の心の生活の違いを反映している。すなわち、その間には、人間の心情の生活において、何世紀にもわたって抑圧が進行したのである。『エディプス』においては、心の生活の基礎にある子どもの欲望空想は、夢の中でのように明るみに出され実現されている。それに対し『ハムレット』では、欲望空想は抑圧されたままになっている。われわれはその欲望空想の存在について──神経症の場合にも事情は似てくるが──そこから発する制止の効果によってのみ知る。奇妙なことに、この新しいほうの悲劇によって生まれる圧倒的な効果は、主人公の性格が全然はっきりしないままであるということと矛盾なく同居している。戯曲そのものは、ハムレットが、自分に与えられた仇討ちの責務をぐずぐず引き延ばしてなかなか成就させられないということの上に組み立てられている。何がこの引き延ばしの理由ないし動機かということについては、テクストは語っていない。そしてそれを解釈しようとする幾多の試みも、芳しい成果を挙げてこなかった。ゲーテによって基礎が敷かれ今日もなお広く行われている見方に従うと、ハムレットは、過剰な思考活動の発達のために、生き生きした行動力が麻痺してしまった人間のタイプだという(「思考の青白さを病んだ」)。他の見方によれば、詩人が描こうとしたのは、病的な、優柔不断な、神経衰弱の域に入る人物であったという。しかしながら、劇の筋が教えるところでは、ハムレットは決して、何の行動もできない人物としては見えてこない。われわれは彼が二度、行動的な場面を演じるのを見る。一度は、激情に駆られて、立ち聞きしている人物を壁掛けの上から刺し殺すとき。もう一度は、計画的に、いやほとんど狡猾にと言っていいような仕方で、彼に対して計画されていた死のたくらみの中に、ルネサンス期の王子さながらの冷徹さで、二人の廷臣を送り込んでしまうとき。それでは、父の亡霊によって課せられた責務の成就を阻んでいるものは、いったい何か。それは、その責務の特殊な性質である、と考えてみる道がある。ハムレットは何事でもやればできる人間なのだが、ただ一つ、彼の父を殺して母の傍らの座を占めているあの男に復讐を遂げることだけができないのである。その男は、ハムレット自身の抑圧された幼年期欲望を体現しているからである。それゆえ、復讐へと彼を駆り立てるはずの忌み嫌う気持ちは、彼の中で、自己非難ないし良心の呵責によって代替されてしまう。そしてこの良心の呵責は彼に向かって、本当のところは彼自身が、罰せらるべき罪人よりもましな者ではないのだ、ということを突きつけてくる。ハムレットの心の中では無意識に留まっていたに違いないものを私が意識に翻訳すればそのようになる。ハムレットをヒステリー者と呼ぼうとする意見があれば、私は、この解釈から出た帰結としてならば、それを受け入れてもよいと思う。以上の見方とよく符合するのは、ハムレットがオフィーリアとの会話中で洩らす性的なものへの嫌悪であり、同種の性的嫌悪は、この詩人の心の中で後年次第にはっきりした位置を占めるようになり、ついに『アテネのタイモン』においてその頂点に達する。われわれが『ハムレット』を読むときに出会っているのは、もちろん詩人その人の心の生活であろう。ゲオルク・ブランデスのシェイクスピア論(一八九六年)の中のコメントを参照すると、この作品は、シェイクスピアの父の死(一六〇一年)の直後に、つまり父の喪のまだ明けやらぬ頃に、書かれたものだそうである。するとこの執筆は、父に向けられた幼年期の感覚の再現に面しながらであったと推定してよかろう。また、シェイクスピアの夭折した子どもの名がハムネット(ハムレットと同じ)であったということも知られている。ハムレットが、両親に対する息子の関係を扱っているのに対し、時期的に近い『マクベス』は、子どものいない状態を主題としている。ちなみに、あらゆる神経症症状が、そしてまさに夢というものが、重層解釈を許し、しかもこの重層的な解釈は、十全な理解のためにはぜひ必要とされるように、真の詩的芸術であればいずれも、詩人の心の中の一つならざる動機や刺激元からやって来ており、また一つならざる解釈を容認するものである。私がここで試みたのは、創造する詩人の心の中で蠢くもののうち、最も深い層だけの解釈に過ぎない。
 大切な近親者が死ぬという類型夢についての議論を切り上げるのは、それらが夢理論一般に対して有している意義を、なお若干の言葉で明らかにしてからにしたいと思う。これらの夢においてわれわれは、抑圧された欲望によって形成された夢思考が、あらゆる検閲を潜り抜けて、何の変更も加えられずに夢の中に入り込むという、真に異常な場合が示現したのを目にしているのである。このような成り行きが可能になるためには、そこに何か特別な事情がなければならないはずである。私は次の二契機が、これらの夢にとっての好条件を提供していると思う。第一に、われわれがこれ以上に自分にとって縁遠いと信じているような欲望は他にない。われわれは、そんなことを欲望するなんて「夢にも思いつかない」という言い方をする。そしてそれゆえに、夢検閲はこの途方もないものに対して、備えができていないのである。ちょうどソロンの立法の中には父殺しへの罰が規定されていないようなものである。しかし第二に、抑圧された意外な欲望が、途中で何らかの日中残渣に迎えられて、大切な人物の生命への心配という姿を取ることが実に頻繁にある。心配のほうは、同じ文言の欲望に便乗しないでは夢の中に入ってくることはできない。一方欲望のほうは、日中に動き出していた心配を、うまく仮面として利用することができる。ものごとはもっと単純で、昼の間にあれこれと心でいじっていたことが夜に夢の中にも持ち越されるだけだと考えたくなる人もいるだろう。もしそのようにするなら、大切な人が死ぬ夢は夢の解明のあらゆる連関から外れてしまうし、およそ夢を謎として解明して行くなどということも無用の長物だということになるだろう。
 これらの夢と不安夢との関連を辿っておくことも有益である。大切な人物が死ぬ夢では、抑圧された欲望は、検閲を──かつ検閲が課してくる歪曲をも──逃れる道を見つけ出している。その際決して欠落することのない付随現象は、夢ので苦痛の感覚が感じ取られるということである。それと同様に、不安夢は、検閲が完全にないしは部分的に圧倒されてしまったときにしか発生せず、また、翻って、検閲を圧倒するということが容易になるのは、そもそも不安が身体的源泉から生じた現在の感覚としてすでに産出されている場合である。こうしてわれわれは検閲が行使され夢の歪曲が施されることがどういう傾向性に沿っているのかということを平易に摘み取ることができる。検閲は、不安またはその他の苦痛な情動形態が増長してくるのを防ぐために、行われるのである。

第6章 夢工作

 夢問題に片を付けるべく企てられた研究はすべて、われわれのもの以外は、夢の想起のうちに現れた顕在的夢内容にまっすぐに飛びつき、そこから夢解釈に到達しようとしている。あるいは、解釈することを放棄している場合でも、夢というものに判断を下すにあたり、やはりこの夢内容に判断の裏付けを求めている。ただわれわれのみが、異なる事情のもとに立っている。われわれにとっては、夢内容と観察結果との間には、新しい心的素材が挟み込まれることになる。すなわち、われわれの手続きから得られた、潜在的な夢内容もしくは夢思考である。顕在的な夢内容からではなく、この潜在的夢内容から、われわれは夢解きを展開した。そのことから、われわれにはまた、今までにはなかったような課題が新たに生まれることになる。それは、顕在的夢内容と潜在的夢思考の関係を調べ、どのような過程を通って潜在的夢思考から顕在的夢内容が生成したのかを跡付けるという課題である。
 われわれの目には、夢思考と夢内容とは、同じ一つの内容を違う二つの言語で言い表しているように見える。あるいは次のように言ったほうがよいかもしれない。すなわち、夢内容とは、夢思考を違う表現様式の中へと転移させたもののように思われる。われわれとしては、これらの原本と翻訳とを比べ合わせて、書き換えにあたっての記号法と統語法とを学ばなければならないのである。夢思考のほうは、いったん知ってしまえば、われわれは造作なくそれを理解できる。夢内容のほうは、いわば絵文字で書かれているから、その記号の一つひとつを、われわれは夢思考の言葉に転移させて行かねばならない。もしわれわれがそれらの記号を、記号の連関ではなくて絵としての価値によって読み解こうとすれば、明らかに誤りに導かれてしまうだろう。たとえば、ここに絵によるパズル(判じ絵)があったとする。一軒の家があり、その屋根の上には小舟が一艘乗っているのが見える。それからアルファベットの文字が一つ、それから走っている人物の姿があってその人の頭は省略記号で省略してしまってある、等々。わたしはここで、こういう組み合わせと各要素は無意味であるということを明らかにして、もっともらしく批判することもできよう。小舟が家の屋根に乗ってどうするというのだ、頭が無くなった人間がいったいどうやって走るのだ。それに人間は家よりも大きいと来ている。この全体が一つの風景なのだとしたら、文字ははみ出してしまうではないか、文字というものは自然の中にはないのだから、という具合にである。しかし明らかに、わたしが全体と細部にこういうふうに文句を付けていくのを止め、個々の絵を、綴りに置き換えてみたり、その絵に何らかの繋がりのある語に置き換えてみたりしたとき、初めて判じ絵の正しい判断が生まれ出てくるのである。そのようにしてまとまりを得たもろもろの語は、もはや意味のないものではなくなって、最も美しく意味に富んだ詩の言葉を語るようにさえなる。夢はまさにこのような絵によるなぞなぞであって、夢解釈の領域における先人たちは、判じ絵を絵画的構成物として判断するという誤りに陥ってきた。夢をそのように絵画として見たものだから、彼らの目には、夢は無意味で無価値なものと映ったのである。
E 夢における、象徴による呈示法──続・類型夢

〔…〕

 シュテーケルによれば、夢におけるは、倫理的に捉えられなければならない。「右の道は常に正義の道、左の道は罪の道を意味する。かくして左が同性愛、近親相姦、あるいは倒錯を、右が結婚、娼婦との性交などを呈示していることがある。常に、夢見た人の個人的な道徳観から見ての話である」(同書、四六六頁)。夢の中では、一般に親戚は、多くの場合、性器の役割を演じる(四七三頁)。私としては、そうした意味づけは、息子、娘、妹の場合にだけ、つまり先ほどの「小さきものクライネ」の応用が利く範囲でだけ確認できる。それに対して、両の乳房の象徴としての姉妹、左右大脳半球の象徴としての兄弟については、はっきりした例があるのでこれを認めてよい。車に追いつけないことを、シュテーケルは決して埋まることのない年齢の差への無念として解いている(四七九頁)。持ち運ばなければならない荷物は、罪の重さであり、人はそれに押し潰されそうになっているとされる(同所)。【一九一一年】しかしまさに旅行用の荷物は、しばしば自分自身の性器の紛う方なき象徴であると判明する。【一九一四年】シュテーケルは、夢に頻繁に現れてくる数字に、固定した象徴的意味を割り当てているが、その解明は十分に確立されておらず、普遍的に当てはまるわけでもなさそうである。とはいえこの解釈は、個別の事例では、まずまずあり得ることだと認めてもよさそうに思われる。【一九一一年】いずれにせよ、三という数字は、多くの方面から確かめられた男性器の象徴である。シュテーケルが打ち出している一般化の一つは、性器象徴の双方向の意味作用に関係する。【一九一四年】「多少の空想ファンタジーの力がそれを許せば、男性的にも女性的にも同じように用いることのできないような象徴が、いったいどこにあるだろう!」〔七三頁〕。空想はそういう使用法をいつでも許すわけではないし、そもそもここに「多少の空想の力云々」の挿入句があることから、この主張の確実性は割り引いて考えなければいけないことが分かる。しかしそれだけでなく、私は自分の経験から、シュテーケルの一般化は、事実の更なる複雑さを認めるならば、取り下げざるを得なくなるということを言っておきたい。男性器ばかりでなく同じくらいの頻度で女性器の代わりになるような象徴のほかにも、主として、あるいは必ずと言っていいほど、どちらか一方の性器しか示さないような象徴もある。それに、まだその象徴については男性的な意味づけもしくは女性的な意味づけしか今のところ知られていないといった象徴もあろう。長くて堅い物体とか武器とかを女性器の象徴として使ったり、中空の物体(大函、箱、小筐など)を男性器の象徴として使ったりすることは、まさに空想の力という点から見て無理がある。【一九一一年】
H 夢の中の情動

〔…〕

 夢工作は、夢思考の情動を扱うに当たり、それを通過させてやったり、あるいはゼロ点にまで押し下げてしまうということ以外にも、別の方法を行うことができる。夢工作は、情動をその対立物に反転させることができるのである。われわれはすでに、夢の各々の要素は、解釈にとっては、それそのものを呈示していることもあるが、その反対物をも呈示することができるという、解釈の規則を習い覚えてきた。そのどちらになるのかを前もって知ることはできない。文脈を待って初めてそれが決められる。こういう事情は明らかに、民衆意識にとってはすでに分かっていたことのようである。夢解き本は、夢の解釈にあたって、非常にしばしば、対照という原理に従って話を進めている。対立物へのこのような転換は、われわれの思考において一つの物の表象をその反対物へと結び付ける、内密な連想の鎖によって可能になっている。この転換は、すべての他の遷移と同様に、検閲という目的に奉仕するが、しかしまた、それは欲望成就の仕事でもある。というのは、欲望成就とは、好ましくない物を、その対立物で代替すること以外の別事から成り立っているわけではないからである。物表象がそのようになされうるのと同じように、夢思考中の情動もまた、その対立物に反転させられて夢に現れることが可能である。そして、この情動反転は、ほとんどの場合、夢検閲によって実行されていると考えればおそらく当を得ていると思われる。情動の抑え込み情動反転は、社会生活においても、歪曲の役に立っている。社会生活は夢検閲と似ているもので、そういう場面にわれわれはよく出会う。たとえば私が、ある人物と話をしていて敵意のあることを言いたくなったにもかかわらず、その人物がちゃんと配慮をしなければならない相手だったとすれば、婉曲な言い回しをあれこれ考えたりするよりも、こちらの情動をその人に気取られないようにすることのほうが先決である。礼を失さないような言葉を使いながらも、それに憎悪や軽蔑の目つきや仕草が伴っていれば、私がその人物に及ぼす効果は、歯に衣着せずその人物に面と向かって軽蔑を投げかけたときに生じたであろう効果と大して変わりはあるまい。であるから、検閲は私に、何よりもまず私の情動を抑え込むようにと命じるのである。そこで私が歪曲することに長けているのであれば、私は反対の情動を身に纏うことになるであろう。つまり怒っているときには微笑み、破壊したいときには情愛深く見せるであろう。
 夢検閲に役立つような、夢におけるこういう情動反転の目立った実例を、われわれはすでに見てきた。それはあの「叔父の髭」の夢で、あの夢で私は、友人Rに大きな情愛を感じていたのであるが、それは夢思考が彼を、おつむの弱い人だと罵っていたにもかかわらず、また罵っていたればこそである。情動反転のこの例から、われわれは夢検閲というものの存在に最初の指標を得たのであった。ここでもまたこのような対立情動を、夢工作がまったく新しく作り出すということを仮定しなければならないというわけではない。夢工作にとっては、夢思考の素材の中に既存の対立情動を見つけ出して、防衛を動機とする心的な力でもって、この情動が夢形成物を支配するまでに増強させてやればよいだけのことなのである。今触れたばかりの叔父の夢では、情愛深い対立情動はおそらく幼児期の源泉(そのことは夢の続きが仄めかしている)から湧いて出ている。というのも、叔父と甥の関係は、私の早期の幼年期経験の特別な性質によって(四二七頁〔本巻一八四─一八六頁〕の分析を参照)、私においてはあらゆる友情と憎悪の源になっているからである。
 こうした情動反転のめざましい例を、フェレンツィ Ferenczi(1916)によって報告されている夢が提供してくれる。「ある年配の男性が、夜中に眠ったままで大きな声でとめどなく笑い出したので、それに不安になった妻に起こされた。彼は後になって、こんな夢を見ていたのだと語った。自分はベッドに寝ている。そこにある知り合いの男性が入ってきたので、自分は電気のスイッチを入れようとした。しかしうまく行かない。何回もやってみたが──無駄だった。妻が助け船を出してくれようとしてベッドから起き上がってきたが、やはり何もできなかった。というのは、その男性がいるので、妻は自分のネグリジェ姿を恥ずかしく思い、またベッドに入ってしまったからである。これらのことはすべてひどく滑稽で、これには恐ろしいほどに笑わずにはいられなかった。妻は、「何を笑ってるの? 何を笑ってるの?」と言ったが、自分は結局、目が覚めるまで笑い続けていただけだった。──明くる日、この男性はひどく落ち込んで頭痛に悩まされた──あんまり笑いすぎてどうにかなってしまったのだ、と彼は言った。
 精神分析的に見れば、この夢はあまり愉快なものとは言えない。入ってきた「知り合いの男性」は、潜在的夢思考においては、前日に「巨大な見知らぬ者」として考えつかれた死の心像である。この老年の男性は、動脈硬化症を患っており、前日に、死ぬということを考える機会があったのだ。とめどない笑いは、自分が死ぬにちがいないと考えたときの涙に代わるものを、表しているのである。スイッチを点けられないのは、生命の灯である。この悲しい思考は、最近試みたがうまく行かなかった性交の試みに結び付いている。その際、やはりネグリジェ姿の女の助けは、何も役に立たなかったのだった。彼は、そういうことは自分にはもうだめになってしまったのだと気づかされた。夢工作は、性的不能と死という悲しい観念を滑稽な場面に、そして涕泣を哄笑に、転換させる術を知っていたのである」。

〔…〕

 若い時代に仕立屋職人であったこの作家のこれら一連の夢の中に、欲望成就の支配を認めることは困難に見える。喜ばしいことのすべてが日中の生の中にあって、では夢はと言えば、やっとのことで乗り越えてきた過去の辛い生活の影をまるで亡霊のように引き摺っているだけなのだ。似たような種類の自分自身の夢を振り返ってみてやっと、私はこのことに若干の説明を与えることができるようになった。駆け出しの医師だった頃、私は化学研究所で長期間働いたが、そこで必要とされている技術については、なにひとつものにならず、それゆえ覚醒生活では自分のこの修業時代の、実りなくおよそ不名誉な一時期へと、よい気分で思いをいたすことなどさらにない。ところが、私の夢には、当のその研究室で分析を行ったり、その他諸々のことを経験しているところが、繰り返し繰り返し出てくるのである。これらの夢は試験の夢と同様の不愉快さを備えているが、決して非常に明白とまでは行かなかった。こうした夢のうちの一つを解釈していて、私はとうとう「分析」という言葉そのものに注意を引かれた。この言葉が理解への鍵を差し出してくれた。私はそのあと、「分析家」になっているではないか、そして人も知る分析なるものをやっているではないか、ただしそれは精神分析というものだけれども。それでこういうことが分かってくる。つまり、日中生活では、私はこの種類の分析に鼻高々になっていて、自分がここまでやれてきたということで、自分を褒めてやってもいいと思っている。ところが、夜ともなれば、夢は私の前に、もう一つのうまく行かなかったほうの分析を突きつけてきて、それについては私には、自慢する理由などもうなくなってしまうのだ。こうしてこれらの夢は、有名作家となった元仕立屋職人の夢と同じように、成り上がり者に課せられる懲罰夢なのである。それにしても、成り上がり自慢と自己批判との間の葛藤において後者に就き、許されることのない欲望成就の代わりに分別のある警告を自らの内容に持ってくるなどという芸当が、この夢にはどうして可能になっているのだろう。すでに述べたようにこの問いに答えを見つけだすことは簡単ではない。夢の基盤はまずは激しく野心的な空想ファンタジーによって敷かれており、ただしその空想の代わりに、それが弱められたしなめられたものが、夢の内容として現れてくる、というのがわれわれの推定である。また、心の生活の中には、マゾヒスト的な傾向があって、それとは反対のこと、つまり今度の夢のようなことがそれゆえにありうるということも想い起こされよう。そういう種類の夢を懲罰夢として、欲望成就の夢から区別しようとする人があっても、それはそれでよかろう。ただしそう言ったからとて、それはここまでわれわれが唱えてきた夢理論が制限されなければならないということではなく、むしろ単に、対立物の合体ということに馴染めないようなものの見方があるだろうから、そういう見方に対して、言葉の使い方の点で歩み寄っておくだけである。しかし、このような夢のいくつかをさらに厳密に検討して行くと、他にも明らかになってくることがある。私自身の研究室の夢のうちの一つであるが、その背景には、ぼんやりとした部分があった。夢で私は、まさに私の医師としての経歴の中で最も暗鬱で不遇な年齢に戻っていた。定職がなくどのように生活の資を稼いでいけばよいのかが分からなかった。しかしちょうどその時、突然気がついてみると、自分の結婚相手を複数の女性の間から選ぶという仕儀になっていたのだ! こうして私は若返り、なにより彼女も若かった──つまりこの困難な時期を共にした人のことだが。こうして、無意識の夢の引き起こし手は、日に日に年をとって行く男の、焼け付くような欲望であることが仄見えてくる。他の心的な層で荒れ狂っている、うぬぼれと自己批判の間の闘いは、確かに夢内容を規定していたが、より根の深い、若さへの欲望こそが、この闘いが夢として現出することを可能としたのである。覚醒生活の間でも、人は時に自分自身に対してこう言う。今はうまく行っているが、かつては辛い時代もあったな。しかしあの頃はすてきだったよな。なにしろお前もあんなに若かったんだから。
 私が頻繁に見る夢で、偽善的であると自分でも認められる別の一群の夢がある。それは、友情が途切れて久しい友人たちとの和解を内容とする夢である。分析してみると、これらの夢には、これら往年の友人たちへの配慮の名残をいよいよ捨て去って、彼らを余所の人として、あるいは敵として扱うようにと私に促すような契機が発見される。夢はしかし、その反対の関係を描き出すことに興じているのである。
 作家が報告する夢を判断するにあたっては、作家自身が具合が悪いと感じたり本質的ではないとみなしたりした夢内容の個所を、報告から省いてしまっているということを十分仮定しておいてよかろう、作家の夢は、もし夢内容を厳密に再現してもらっていたならばすぐにでも解けるような謎を、われわれに与えることになっている。
 0・ランクは、グリム童話の勇敢な仕立屋あるいは「一撃で七匹」の話が、まったくよく似た成り上がり者の夢を語っているということに注意を向けさせてくれた。英雄となり王様の婿養子となったその仕立屋は、ある夜、王女つまり妻の傍らで、仕屋の手仕事をしている夢を見た。王女は怪しみ、次の夜、武装した家来に命じて、彼らに人が夢を見ながら吐いている言葉を聞かせて、夢見る夫の素性を洗い出させようとする。しかし仕立屋はこれに気がつき、今度は、夢を上手に訂正してやるのである。
 廃棄、省略、あるいは反転の過程があり、やっと夢思考の情動は夢の情動にまでなるのであるが、こうした過程の錯綜は、完全に分析の出来た夢を、適切に総合してみれば、よく見渡せるようになる。私はここで、夢における情動の動きに関してさらに幾つかの例を出し、ここに述べた過程が実行されていることを見ておきたいと思う。

〔…〕

 夢を解釈しそして報告するには重たい自己克服がつきものだということを、認めずにいることはできない。人は、人生を共に歩む貴人たちの中で、自分が唯一の悪玉だということを自ら暴露することになる。だからよく分かるのだ、亡霊たちが存在できるのは、人が彼らを好いている間だけ、そして彼らをこちらの欲望の一突きで片付けてしまえる間だけだということも。私の友人ヨーゼフが罰せられたのも、そういう事情からだ。しかし亡霊たちは、私の幼年期の遊び友達の、次から次へと現れる化身たちである。私はだから、この友達という人物を、幾度も幾度も誰かで代替してきたことに満足しているのである。そして今や私が失いかけている人にも、やはり代替が見つかるだろう。代替の利かない人は居ない。

I 二次加工

 われわれはいよいよ、夢形成に参与する第四の契機を指摘することにしよう。
 これまで遂行してきた方法では、われわれは、夢内容において目立っている現象を、その夢思考からの由来に基づいて吟味してきたわけだが、この方法で夢内容の研究を続けて行くと、まったく新しい解明のための仮説が必要になるような諸要素にぶつかる。私が想い出すのは、人が夢の中で、なんらかの夢内容の一片そのものに向けて訝しがったり、怒ったり、反抗したりするような場合である。こういう夢の中の批判のうごめきのほとんどは、夢内容に向けられているのではない。それはむしろ、受け入れられて巧みに応用された夢素材の一部であることが判明してくる。そのことはすでに適切な例で示しておいた通りである〔前節参照〕。しかし、このような種類の幾つかのものは、今述べたような説明にはうまく当てはまらない。その対応物が夢素材の内には発見できないからである。たとえば夢の中ではまったく珍しくない、「これは夢に過ぎないじゃないか」というあの批判〔本巻七八頁参照〕の、意味するところは何であろうか。こういう批判を覚醒状態においても私は行使することができるのであって、これは夢においても立派に批判である。まったく稀ならず、この批判は目覚めの先駆けとなるし、さらに頻々と、ある苦痛な感情がその前に伴っており、それは起きて夢であることを確認すると収まるということもある。夢を見ている間の「これは夢に過ぎないじゃないか」というこの思考は、オッフェンバックの美しきヘレナが、公開の舞台の上でこの思考を言葉にして口にする時と同じことを、狙っている。この思考は、つい今しがた経験されたことがらの意義を小さくして、やがて到来するものごとへの耐容を可能にしようとするのである。この思考は、ある種の審級を眠り込ませることに役立っている。それは、その瞬間に騒ぎ立てて、夢──あるいは場面──の続行を禁じるあらゆるきっかけを持ち出すような審級である。しかしそれでも、「だってこれは夢に過ぎないんだから」と言いながら、眠り続けてその夢を耐容するということのほうが、やはり無精の身には叶う。思うに、決して完全には眠り込むことのないこの検閲が、すでに通過させてしまった夢によって出し抜かれたと感じたときに、こういう「これは単に夢に過ぎないじゃないか」という侮ったような批判が現れるのである。その夢を抑え込もうとしても、もう間に合わない。そこで検閲は、不安とか、夢に掻き立てられる苦痛な感覚に対して、このような批判の言をもって立ち向かうのである。それは心的な検閲の側からの、《後知恵》の表現なのである。

〔…〕

 さて、広汎に亘ったこの夢工作に関する議論を、そろそろこの辺りでまとめてみる作業に取りかかろう。われわれの前には問題が立ちはだかっていた。心はそのすべての能力を存分に駆使して、夢形成に振り向けるのか、それともその作業にあたって制止された能力の一部分だけを振り向けるのか、ということである。われわれの探究は、こういう問題の立て方を、そもそも関連性が不適切であるとして、棄却するところへと導く。しかしもし、回答にあたって、この問いがわれわれに強いている基盤に留まるべきだと言われるなら、われわれは、反対物によって相互に見かけ上排除される捉え方をどちらも肯定せざるを得ない。夢形成にあたっての心の仕事は、二つの作業に分かれる。一つは参考の製作であり、もう一つはその夢思考を夢内容へと変容させることである。夢思考は、完全に正確なものであり、われわれに可能なあらゆる心的支出をもって形成される。夢思考はわれわれの、意識的になっていない思考に属している。そこからは、ある種の転換を潜り抜けて、意識的な思考もまた現れ出てくる。夢思考については多くのことが好奇心をそそり謎めいているが、この謎は、夢には何ら特別な関係を持っておらず、夢の問題の下に取り拐われる価値を持たない。これに対して、無意識の思考を夢内容へと変化させる、もう一つの作業の方は、夢生活に固有なものであり、かつその特徴を示すものである。これこそが夢工作というべき独自のものであって、覚醒時思考の示す雛型からははるかに遠く、その隔たりたるや、夢形成における心的能作をあくまでも低く見積もろうとするどんな論者の想像をも絶している。夢工作は、覚醒時思考に比べて、たとえばいい加減で不正確で落ち度だらけで不完全であるというようなものではない。夢工作は覚醒時思考とは質的に完全に異なったものであって、それゆえそもそも覚醒時思考になぞらえるべきものではないのである。夢工作は、そもそも考えず、計算せず、判断しない。そしてことがらを変造するということに自らを限っている。夢工作の生産がどういう条件に応えようとしているのかを視界に捉えてみれば、われわれはこの工作を隈無く記述したことになる。夢工作の産物、すなわち夢は、まずもって検閲をすり抜けなければならない。この目的に向けて、夢工作は、心的強度の遷移ということを行い、あらゆる心的価値の転換をするにまで至るのである。諸々の思考は、もっぱら、ないしは主として、視覚的および聴覚的な想起痕跡を素材として、もう一度作り直されなければならない。この要請から、呈示可能性への顧慮が生まれるが、これに対して夢工作は、新たな遷移を行うことによって対応する。夢思考の中で夜の間に自由になる強度よりも、(見たところ)より強い強度が作り出されなければならない。この目的に向けて、たっぷりと縮合が行われる。縮合は、諸々の夢思考の諸々の構成要素をもって遂行される。思考の素材の論理的諸関係には、あまり考慮が払われない。それらの関係は、最終的に、夢の形式的な諸特性のうちに、ある種の隠された呈示を見出すのである。夢思考の情動は、表象された内容に比べると、改変を蒙ることが少ない。情動は概して抑え込みを受ける。もし情動が保持された場合は、それらは表象から切り離されて、情動の同種性に従って、一緒にまとめられてしまう。夢工作のほんの断片、つまり、部分的に目覚めた覚醒時思考によって行われる、程度の一定しない付加的な工作だけは、諸々の研究者の捉え方と何とか一致している。彼らはその捉え方が夢形成の全体的活動に対して妥当するとしているのだが。

第7章 夢過程の心理学にむけて

A 夢を忘れるということ

〔…〕
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 分析を行うたびごとに、まさに、夢のこまごまと些細な特徴こそが、解釈にとっていかに欠かすべからざるものであるかということが実例によって明らかになり、また、このような特徴に注意が向けられるのは後になってからだということのためにどれほど課題の解決が滞るものであるかが、明らかになってくることであろう。われわれは夢解釈にあたって、夢がわれわれに見せている言語的表現のそれぞれのニュアンスに、等分の評価を差し向ける。そう、われわれの前に、正しい文章で夢が現れようとしたのに、その努力が及ばず無意味にあるいは不十分になったような言葉遣いが現れたとき、われわれはこういう表現の至らなさをもまた、尊重することにしてきたのである。要するに、諸家の意見では、慌てふためいて勝手に纏め上げられた即興的産物に違いないとされてきたものを、われわれは神聖な文書のように取り扱ってきたのである。この矛盾には、説明が要る。
 その説明はわれわれに有利に働く。だからといって諸家が間違っているとするものではない。夢の発生についてわれわれが新たに獲得した洞察から見てみれば、矛盾は余すところなく統一にもたらされる。われわれが夢を再生しようとするとき、夢を歪曲してしまうことは間違いない。われわれはそのことを、次のように印づけてみた。すなわちそこに見られるのは、正常な思考の審級による、二次的な、そして誤解されがちな、夢の加工なのである。しかしこの歪曲も、それ自体が加工の一部分であって、夢思考は、夢検閲のために、規則的にその加工に服しているのである。諸家はここで、夢歪曲の部分が顕在的に働いているということを感じ取り見て取った。しかしわれわれは、そこにはそれほど拘泥しない。というのも、われわれは、隠された夢思考からしてすでに、はるかに大がかりな歪曲工作、しかも捉えにくい歪曲工作が、その夢を対象として選んでいたことを知っているからである。諸家の誤解しているのは、ただ次の点のみである。すなわち彼らは、想起される時と言葉で文章化される時に夢が修正されるということを、恣意的なもの、だからそれ以上はもう解き明かしようのないものであって、それゆえ夢の認識にあたってわれわれを誤りに導くものであると受け止めているのである。彼らは、心的なものの中での決定ということを、過小に見積もっている。そこには何ら恣意的なものはない。第一の思考の筋で未決定のままに置かれた要素の決定を、第二の思考の筋がただちに引き受けるということは、普通に見られる。たとえば私は、一つの数字を恣意的に思いついてみようとする。しかし、それは可能ではない。私が思いついた数字は、私の内の思考、つまり私のその時々の意図からは遠くにある思考によって、一義的にそして必然的に、決定されているのである。同様に、覚醒による編集作業によって夢が蒙る変更も、やはり恋意的なものではないのである。その変更は、変更によって置き換えられた内容と、連想的な繋がりを保っているのであり、その内容への道をわれわれに示すのに役立ってくれるのである。またその内容自体も、再び別の内容の代替物であるかもしれない。
 私は患者たちとの夢分析に際して、この主張について次のような探索子を投げかけてみるのを常としているが、それで成果が得られなかったことはない。もしある夢の報告が、初めは私にとって理解しがたいものに見えたとき、私はその夢の語り手に、夢をもう一度繰り返してくれるように頼むのである。すると、同じ言葉が繰り返されることは稀である。しかし、語り手が表現法を変化させたまさにその場所、そここそが私から見て、夢の偽装の弱い場所であると知られることになるのである。その場所は私にとって、ジークフリートの衣服の刺繍の印がハーゲンにとって役立ったように、役立つのである。そこから夢解釈の端緒が開くことがある。語り手は、夢を繰り返していただきたいという私の促しによって、私が夢の解決に向かって特別な努力をしていることに対して警戒心を抱く。そこで彼は、抵抗の圧力のもとで急かされて、夢の偽装の弱い個所の補強にかかる。つまり彼は、夢の意味を洩らしてしまいそうな表現を、もっと迂遠な表現で代替するのである。語り手はこうして私の注意を、彼が削除した表現へと向けさせることになる。夢の解決へと至らないようにするこの努力から、私はまた、夢の衣服がどのような用意周到さで織り上げられているかを推量できるのである。
 われわれの判断力は、夢の語りについては、疑惑の目で接するものであるが、その疑惑に多大な幅を与えすぎて諸家は正しい道から逸れてしまう。というのも、こういった疑惑は、知性的な裏付けを欠いているからである。われわれの記憶には、そもそも何の保証とて無い。それでもわれわれは、客観的に正当化できるよりもはるかにしばしば、記憶の告げるところに信を置きたいという強迫に屈してしまう。夢、あるいは個々の夢データが正しく再現されているかどうかという疑惑は、これもまた、夢思考が意識へと押し入ってこようとすることに対する夢検閲あるいは抵抗の、一つのひこばえに過ぎないのである。この抵抗は、それによって行われた遷移や代替で必ずしもお役ご免とならないときがあり、そうしたときには、それは通り抜けを許されたものに対して、なおもずっと付きまとっているのである。われわれは、こういう疑惑を、それが夢の強度の高い要素を決して捕まえずに弱い不明瞭な要素だけを捕まえるという用心をしているがために、ますます簡単に見逃してしまう。しかしわれわれは今では、夢思考と夢との間で、あらゆる心的価値の転換が行われていたということを知っている。歪曲は、価値の撤収ということによってのみ可能であった。歪曲は、通例それによって表出され、場合によってはそれで満足する。夢内容のはっきりしない要素に、いまだに疑惑が付加されているときには、われわれは、その指示に従って、その疑惑の中に、追い出された夢思考の一つからのより直接的な檗を、認めることができるのである。それは、古代のあるいはルネサンス期の共和国の一つに大きな変革が起こった後のようなものである。以前に支配者であった高貴で強力な氏族たちは今や追放され、すべての高い地位は成り上がり者たちで占められ、町の中に留まることを許されているのはただまったく貧乏で無力になった、没落旧家の構成員や、その縁遠い支持者だけである。しかしこれらの者たちも、完全な市民権を享受しているのではなく、不信の念でもって監視されている。この例え話における不信の念の代わりに、われわれの場合には、疑惑が現れているのである。こういうわけだから、私は夢の分析に際しては、あらゆる段階の確実性の評定から人が自由になって、こんなことあんなことが夢で起こったというどんなささやかな可能性をも、完全に確実なものとして取り扱うように求めるのである。夢要素のどれかを辿って行くときに、確実性の評定への顧慮を手放してもよいのだと心を固めておかない限り、分析はそこまでで停滞してしまう。当該の要素を過小に評定すると、そのことは被分析者の方に心的な作用を及ぼす。つまり、その要素の背後にある望まれていない表象について、彼は何も思いつかなくなってしまう。そのような作用はもともと自明なものではない。このこととかあのこととかが夢の中に含まれていたということは、私には確かには分かりません、しかし、次のようなことを思いつくのです、と誰かが言ったとしても、それはおかしなことではないはずである。彼はそんなことを決して言わなくなってしまう。そしてまさに、こういう風に分析を妨げる疑惑の作用こそが、疑惑は心的抵抗のであり、また道具でもあるのだということを暴露する。精神分析がものごとに簡単に信をおかないのは正当な理由があってのことである。精神分析の規則の一つは次のように言う。仕事の進展を妨げるものは何であれ抵抗である
 夢を忘れるということは、心的検閲の力を説明のうちに引き込んでこない限りは、説明不可解なままに留まる。一晩のうちにとてもたくさんの夢をみていながら、そのうちほんの少しだけしか覚えていないという感覚は、多くの場合には、別の意味を持ちうる。すなわちたとえば、夢工作は夜の間ずっと、感知されうるような形で進められていたのだが、どれか短い夢だけしか、あとに残さなかった、というような意味である〔本巻五頁、二六七頁、三七四頁参照〕。そうでないとすれば、覚醒の後ますます夢を忘れていくという事実については、疑いを向けることは可能でない。夢を覚えておこうとする苦労にも拘わらず、人は夢を忘れるというわけである。しかし私は次のように思う。この忘れるということの範囲を、人は通例大きく見積もり過ぎる。その分、夢の穴の多さに伴って、自分の認識力が不足しているのだということについても、大きく見積もり過ぎてしまっているのである。夢内容を忘れるということのために蒙った損失のすべては、しばしば分析によって取り戻すことができる。つまり、少なくとも非常に多くの例において、われわれは個々に残されている断片から、夢そのもの──どのみちそれ自体が重要なのではない──ではなくても、夢思考をすべて、再発見できるのである。分析においてはやや多めの注意力と克己心を費消することを強いられるだろう。しかし、それだけでいいのである。そうしてみれば、夢を忘れる際には、なんらかの敵対的な意図が働いていたのだということが示されることになる。

〔…〕

 さらに私は、夢を忘れるということが大部分は抵抗の仕業なのだということの証明を、《目に見える証拠》によって済ませてしまうこともできる。ある患者が、夢を見たけれどもその夢を跡形もなく忘れた、と語る。それなら、夢はほとんど起こらなかったのと同じである。われわれは仕事を続ける。私は抵抗にぶつかり、そこで、患者にあれこれと説明を行い、説得と圧力で、何らかの不快な考えと、彼が折り合えるようになるのを助ける。すると、その作業がうまく終わるか終わらないかというところで彼は叫ぶ。「そうでした、どんな夢を見ていたのか、分かりました」。その日の分析作業を妨げていたのと同じ抵抗が、夢をも忘れさせていたのである。この抵抗を克服してもらうことで、私はその夢を想起へともたらしたということになる。
 患者はまた、分析作業があるところまで達したときに、三日、四日、あるいはもっと前に出現した夢を想起することがある。その夢は、時ここに至るまで忘却の中に安らっていたのである。
 夢を忘れるということは、諸家によれば覚醒と睡眠状態の間の相容れなさによるものであるように思われているが、むしろはるかに抵抗によっているのであり、このことのさらに別の証拠が、精神分析の経験からやって来る。私自身、他の精神分析家たち、そしてこの治療法を受けている患者たちにとっては珍しくないことであるが、われわれは、夢を見て睡眠が中断したときに、こういってよければ、われわれの思考活動を全面的に有した状態で、すぐさまその夢を解釈し始めることがある。私はこういう場合にはしばしば夢の完全な理解を得てしまうまでは考えを休めなかったが、それでも、〔朝になって〕覚醒後には、その解釈作業を夢内容もろとも忘れてしまっていることがあった。ただし自分には、自分が夢を見て夢を解釈したということは分かっているのであるが。精神活動によって夢を想起の状態に止め置くことに成功することは少なく、むしろ、解釈作業の結果を、忘却によって夢が奪い去ってしまうことのほうが、ずっと多かったのである。しかしこの場合の解釈作業と覚醒思考との間には、諸家が夢の忘却をそこから導出して説明しようとするような乖離は存在しない。──この乖離については、モートン・プリンス Prince が夢忘却についての私の考えに反対して、この種の忘却は乖離した心の状態(《解離状態》)による記憶障害の特殊例に過ぎない、そしてこの特殊な記憶障害についての私の説明を他の記憶障害にも適用することは不可能であるから、私の説明は直接の目的にとっても無価値である、と言うのである。しかし彼の読者は想い起しておかざるを得ないが、彼は、その解離状態なるものを記述しつつも、その現象の力動論的な解明を、決して試みたことがない。もし試みていたとしたら、彼は、抑圧(あるいは、抑圧によって作り出された抵抗)が、その解離の原因でもあれば、その心的内容の健忘の原因でもあることを、発見せざるを得なかったはずである。
 夢は、他の心の行為と同じように、忘れられたりはしないものであり、夢は、記憶の中に保持されるという点に関して、他の心の仕事より劣ったものとしてではなく、同等に扱われるべきものであるということ、このことを、本書の執筆準備にあたっての、私のある経験が示してくれている。私は、その当時には何らかの理由で非常に不完全にしか、あるいはまったく解釈を施すことのできなかった自分自身の夢を、メモとして豊富に書きためていた。それらの夢の幾つかのものについて、私は一、二年経ったころ、改めて解釈する試みを行った。それは、私の主張の素材をそこから得ようとしてのことである。この試みは例外なく成功した。いや私は、これほど長い時間が経った後なのに、夢が真新しい経験であったその当時よりも、解釈は易々と進んだと主張したいくらいである。それに対して私はありうる説明として、こう述べておきたい。すなわち、私はその間に、当時私を妨げていたいくつかの内面の抵抗を、乗り越えてきたのである、と。この事後的な解釈にあたって、私は、夢思考に関係して以前に得られたものと、今日改めて、多くの場合ずっと豊かに得られたものとを、比較してみた。そして当時のものを、今日のものの下に、変わることなく再発見した。しかし、こんな私の驚きは、次のように考えてみてすぐに治まった。すなわち、私は、患者たちとの間で、折りに触れて彼らが何年か以前の夢を、あたかも前夜の夢であるかのように語るのを聞き、それを自ら解釈してもらうということをやってきているわけであって、それは今私がやったのと同じ手続きであり、結果も同じであったということである。不安夢を検討する際に、このようなおくればせの夢解釈の二つの例を、報告することにする〔本巻三八三頁以下〕。私がこの試みを最初に行ったとき、私を導いていたのは、夢はこの点で、神経症症状と同じように振る舞うであろうという正当な見通しであった。すなわち、精神神経症者、たとえばヒステリー者を精神分析を用いて治療するとき、私は、彼を私のもとへと受診に向かわせ、現在なおも続いている諸症状に説明を与えることと並んで、彼の病苦の初発時の、もうすでに克服されている諸症状にも、説明をつけてやらねばならないと感じるのである。そして今日急を要する課題よりも、最初の課題の方がどうも簡単に解けるということを見出している。一八九五年刊行の『ヒステリー研究』の中ですでに、私は、四十歳を越したある女性が、生後十五年目という年齢で経験したヒステリーの初回発作の解明を報告した。
 私はここで、夢を解釈するにあたり気をつけておくべきことを、若干気ままに並べておきたいと思う。読者が、私の言っていることを、御自身の夢に則して検証なさりたいと思われた時には、これらのことがひょっとすると導きの糸になってくれるかもしれない。
 自分自身の夢であるからといって、その解釈が棚からぼた餅式に楽々と降りてくるという期待などはしてはならない。内面的な現象とか、その他の普段われわれの注意から逸れている感覚とかを知覚しようとするときでさえ、われわれは修練を必要とする。それは、このような種類の一群の知覚に対して、心的な動機がそれに逆らっているというようなことがない時でさえ、やはりそうである。してみれば「望まれていない表象」をしっかり摘んでおくということは、はるかに困難である。そこに到達しようと思えば、本書の中で提起されている期待に沿うようにしていただいて、ここで挙げられている規則に則って、あらゆる批判力、あらゆる先入観、あらゆる感情的もしくは知的な立場を、作業の間は控えておくように懸命にならなければならない。そして、あのクロード・ベルナールが生理学研究室で実験に携わる人々のために打ち立てた《獣のように仕事をする》、つまり持続的に、かつ結果に心煩わされずに、という指針を肝に銘ずることになるだろう。この忠告に従っていく者は、課題をこなすことをもはや難しいとは思わなくなるだろう。夢の解釈は確かにいつも一つの筋だけで完遂されるとは限らない。思いつきの連鎖を辿って行くと、自分の作業能力が底をついたと感じることは稀ではない。その日は、夢はもう何も言ってくれなくなる。そういう時は、いったん中断して、次の日にまた作業に戻ればよい。そうすると、夢内容の別の断片のほうへと注意が向けられて、夢思考の新たな層への道がそこから開ける。これを「分割式の」夢解釈と呼んでもよかろう。
 意味が豊かで一貫性があり、夢内容の全要素に光を当てたような解釈をいったん手にしたからといって、それで仕事は終わったわけではない、ということを、夢解釈の初心者に納得してもらうというのは、なかなか骨の折れることである。しかし、その同じ夢に対して、その他にも、彼の手を擦り抜けていた何らかの重層解釈が可能かもしれないのである。われわれの思考作用において、表現を求めてもがく無意識の思考経路がどれほどまでに豊かであるのかを思い描くこと、また、夢工作は、多義的な表現様式をその都度用いて、あの童話の中の仕立屋よろしく、一打ちで七匹の蠅を仕留めるだけの巧妙さを持ち合わせているのだと信じることは、実際、簡単なことではない。読者は、著者である私が、不必要に多くの機知を入れ込みすぎると言って非難したい気持ちにずっとなっておられるであろう〔本巻二九頁、原注(118)参照〕。しかし自分で経験してみた人には、得心してもらえることであろう。しかし一方で私は、はじめH・ジルベラー Silberer(1914, Ⅱ. Teil, Abschnitt 5)によって提出された次のような主張には同調できない。彼によれば、あらゆる夢──あるいはまた、単に無数の夢とか一群の夢──は、非常に緊密な相互関係にある二種の異なる解釈を要請するというのである。これらの解釈のうち、ジルベラーが精神分析的と名付けている第一の解釈は、夢に対して随意の、ほとんどは幼年期の性に関わる意味を与える。もう一つの、彼によって天上的と称されている、より重要な解釈は、より深刻で、しばしば深遠な思考を開示する。夢工作はその思考を材料として採り入れる。ジルベラーがこういう主張を、一連の夢を報告し、それらを両方の方向で分析してみせるということでもって論証したかというと、彼はそうはしていない。こうした事実が存在するということに私は反対せざるを得ない。ほとんどの夢は重層解釈を何ら求めはしないし、とりわけ、天上的解釈などを許容したりしない。ジルベラーの理論には、近年の他の理論的試みと同様に、夢形成の基礎的連関を隠蔽し、夢形成の欲動的根源から興味を逸らそうとする傾向が働いているのを見て取ることができる。ジルベラーが述べているようなことがらを、私自身も、多数の例で確かめることができた。そのような場合については、分析をしてみると、次のようなことが示された。すなわち、夢工作は、直接的な呈示が不可能なきわめて抽象的な覚醒時生活からの一連の思考を、夢へと変換するという課題を、前もって背負わされていたのである。夢工作は、呈示の際の困難を減らせるような、何か別の思考素材を動員することでもって、この課題に応えようとしていたのである。その素材は問題の抽象的思考との間に、しばしば寓意的と名付けられるべき、やや緩い繋がりを有したものであった。このようにして発生した夢の、抽象的な解釈は、夢を見た人自身が、すぐにでも述べてくれるであろう。その下に差し入れられている素材の正しい解釈については、われわれの知るところとなったこれまでの技法によって探求するしかないのである。
 どんな夢でも解釈へともたらしうるのかという問いには、否でもって答えるべきである。解釈の作業に際しては、夢の歪曲を請け負っている心的な力が、われわれの行く手を阻むものだということを、忘れるわけにはいかない。したがって、われわれが知的な興味、克己の能力、心理学的知識、そして夢解釈における修練をもって、内的抵抗を手の内に収めることができるに至るかどうかは、力関係の問題である。ある程度のところまでは、それは常に可能である。少なくとも、夢が意味の豊富な形成物であるということを確信するところまで、いやほとんどの場合は、その意味をどうにか察知するところまで可能である。そしてその次に現れた夢が、初めの夢に対して行われた解釈を確たるものにして、さらにその解釈を先へと進めてさせてくれる、ということが、実にしばしば起こってくるのである。数週間あるいは数カ月の長さに亘る一連の夢が、共通の基盤に立っていて、そのため互いに関連させて解釈ができるようになるということも、よくあることなのだ。続けて見られたいくつかの夢について、しばしば気づくことになるのだが、一つの夢で中心に置かれていることがらが、次の夢では単に辺縁的に暗示されるだけであったり、その逆であったりして、その二つが補完し合って、解釈へと繋がって行くこともある。同じ一晩の間に見られたさまざまな夢は、解釈作業によっておおむね一つの全体として扱われるべきものであるということについては、すでに実例で証明しておいた〔本巻七三頁〕。
 どんなに見事に解釈された夢においても、しばしばある場所を暗がりのうちに残しておかざるを得ないことがある。それは解釈に際して、それ以上は夢内容にとって何の寄与ももたらさないまま、どうしても解きほぐせなくなってしまうような、そんな夢思考のもつれ玉がそこから始まるということに、気づかされるからである。そうした場合、それは夢の臍であり、夢が未知のものの上に座り込んでいる場所なのである。われわれが解釈に際して辿り着く夢思考は、確かにごく一般的に言えば、これで終わりということのないものになり、そして、あらゆる方角に向かって、われわれの思考世界の網状の関わり合いの中へと、枝を伸ばしていくことにならざるを得ない。そしてこの網状組織の、比較的目の詰んだ場所から、夢欲望が、菌糸の中からキノコが頭をもたげるように生い立っているのである。
 さて、夢を忘れるという事実の方へと、立ち戻ることにしよう。われわれは、重要な推論をそこから導き出すのを怠っていた。覚醒生活は、夜の間に形成された夢を、目が醒めてすぐにその全部を、あるいは日中に時が経つうちに少しずつ、忘れてしまおうとする紛う方なき意図を示しているし、われわれは、この忘却の主たる関与者として、夢に対する心の抵抗というものがあって、それが夜の間にすでに夢に対して働いていたということを認めてきた。となれば、そもそもこうした抵抗に対峙して、夢形成を可能ならしめたものは、いったい何であったのかという問いが、当然起こってくる。夢なんかそもそも生じるということさえなかったかのように、覚醒生活が夢をきれいに片付けてしまうというような、最も極端な場合を考えてみよう。その場合、心的な諸力の動きを観察していると、われわれは、もし昼間と同じように、夜中にも抵抗が猛威を揮っていたとするならば、夢はそもそも出現しなかったであろうと言明せざるを得ない。われわれの推論はこうなる。この抵抗は、夜の間には、その力の一部分を失っていた。ただし、夢形成における抵抗の成分は、夢歪曲において指摘できたから、抵抗が止んでいたというわけではないことは分かっている。しかし、抵抗は夜には弱まっていて、抵抗のこの減衰によって夢形成が可能になったという可能性をわれわれは認めざるを得ない。そうすれば、抵抗は、覚醒と共にその力を完全に取り戻し、弱っていた間には許しておくしかなかったものを、たちまち再び駆逐するのだということは、たやすく理解される。記述心理学はわれわれに、夢形成の主たる条件は、心の睡眠状態であると教えている。今われわれは、ここに次のような説明を付け加えることができよう。すなわち、睡眠状態は心の内の検閲を低減させることによって夢形成を可能ならしめるのである、と。
 われわれは確かに、この推論を、夢を忘れるという事実からの唯一可能な推論であると見なして、睡眠と覚醒の間のエネルギー関係についての更なる議論を、そこから展開させてみたいという気持ちになってくる。しかし、差し当たって、ここでいったん足を止めておこうと思う。夢の心理学にもう少し深く入り込んだときに、われわれは、夢形成を可能にするものについて、別の仕方でも思い描くことができるのだと知ることになるであろう。夢思考が意識的になるということに対する抵抗は、抵抗それ自体が減衰を蒙ることがなくても、ひょっとしたら、巧みにかわすことができるかもしれないのである。抵抗の減衰と抵抗の迂回というこの二つのことは、どちらも夢形成に好都合な契機であるが、そのどちらもが、睡眠状態によって同時に可能になるのだと考えてみることは理に叶っている。しかしながら、ここで議論を打ち切って、しばらくしてから続きを再開することにしよう〔本巻三七〇─三七二頁〕。
 われわれの夢解釈の進め方に対して、別の系列の異議申立があるので、今それに関わっておかなくてはなるまい。われわれは、次のようにして進んで行く。普通の場合なら熟考を導いてくれる目標の表象を、いかなるものであれ取り外し、われわれの注意力をどれか一つの夢要素に向け、その要素に絡んで、何であれ意図せざる思考が思いつかれるのを、記録しておく。次に、夢内容の引き続く成分を取り出して、その成分についても、同じ作業を反復する。そして、思考がどんな方向へ向かおうが気に掛けずに、その思考の導くままに任せる、それゆえ──人も言うように──枝葉の方へととりとめなく入り込んでいくことにもなる。それでもそのようにしてわれわれは、われわれ自身のはからいに煩わされることなく、最後には、夢がそこから生い立ってきた夢思考に行き当たることになるだろうという、自信たっぷりな期待を抱いている。さて、これに対して、たとえば次のようにして批判が差し挟まれてくるに違いない。夢のどれか一要素から出発して、どこかへと至り着くということは、不思議なことでも何でもない。どんな表象にも、何かが連想的にくっついてくるものである。こんな目標を欠いた恣意的な思考経過でもってきっちり夢思考に到達することがあるとしたらそれこそ奇妙である。たぶん自分でそう思い込んだだけである。どれかの要素から連想の鎖を辿り、あるところで何かの理由からそれが途切れたのに気づく。それではと、第二の要素を取り上げるが、そうすると、元の連想の無制限さは、今やその幅が狭まっている。前の連想の思考連鎖はまだ想起の中に残っているだろうが、それゆえに、二番目の夢表象の分析の時には、前の連鎖からの思いつきと何らかの仕方で共通した個別の思いつきに、よりたやすく行き当たることになるのは単に当たり前のことである。こうしたときに、二つの夢要素の間の結節点となっている思考が見つかったのだと、人は思い込んでしまうのである。彼らは正常な思考において力を発揮する表象から表象への移行だけは除外しておいて、それ以外は思考の結びつきのあらゆる自由を自分に許しておく、というのであるから、結局、「中間思考」の系列から、夢思考だと称するものを拾え上げることは、造作なくできてしまう。そしてそうしたものは普通には知られていないので、何の保証もないのにそれらを夢の心的代替物であると言いふらすことができる。こうしたことはすべて恣意的なもので、ついでに機知に富んでいるかのような偶然の巡り合わせの濫用がしてあり、こういう無体な努力に身を委ねてよいのなら、誰だって、任意の夢に自分なりの任意の解釈をひねり出すことができることになる。
 このような異議申立に実際に直面すれば、われわれはそれに対する防衛として、われわれの夢解釈の印象を呼び起こすことができる。個々の表象を追跡している間に生起してくる他の夢要素との繋がりは驚くべきものである。われわれの夢解釈のどれか一つを取ってみれば、夢をこれほどまでに隅々まで扱って説明するようなものは、心的な繋がりが前もって作られていて、それを後から辿ることによって獲得されたのだとしか考えられない。また、われわれの正当性の裏付けとして、夢解釈の手続きがヒステリー症状の解消における手続きと同一であることを、引き合いに出すこともできる。そういう場面では手続きの正しさは、症状の出現や消褪によって、その場で保証され、ちょうど、文章の説明が挿絵にその手掛かりを見出すような具合である。しかしわれわれは、恋意的に無目的に紡ぎ出されていく思考連鎖を辿って行くことによって、どうしてあらかじめ存在していた到達点にまで達することができるのかという問題を、避けておかなければならないというわけではない。というのは、われわれは確かにこの問題を解くことは出来ないが、それでもすっかり片付けてしまうことは出来るからである。
 すなわち、われわれが夢解釈の作業の際に熟考を捨てて、意図せざる表象を浮かび上がらせるようにしているからといって、われわれが無目的な表象経過に身を委ねているのだとするのは、明らかに正しくないのである。見やすい道理であるが、われわれはいつだって自分に知られている目標表象だけしか断念できないのであるし、その表象を断念したかと思えば、たちまち、知られていない──厳密ではない言い方になるが──無意識の目標表象が力を得るのであって、今度はそれが、意図せざる表象を決定されたものとして保持して行くのである。およそ目標とする表象がないままに思考するというようなことを、われわれの心の生活からの固有の影響力によって作り出すことはできないであろうし、また、どんな心的惑乱の状態があれば、そうした思考の仕方が作り出されるのかということも、われわれには知られていない。精神科医たちはそこで心的構造の堅固さを見捨てるのが早すぎる。ヒステリーやパラノイアの枠の中でも、夢の形成や解消に際してと同様に、統制の取れていない、目標表象を欠いた思考の流れというものは現れてこないことを私は知っている。そうした思考の流れは、ひょっとすると、内因性の心的な疾患においても、実は現れていないのかもしれない。錯乱患者の譫妄せんもうでさえも、リュレ Leuret の鋭い推測によれば、ただ脱落があることによってわれわれにとって理解できないものになっているだけで、意味を持っている。観察の機会が与えられたとき、私も同じ確信を得た。治安は検閲の仕事であり、それはもはや自分の支配を隠そうともしない。もうおかしなところがなくなるように作り替えに向けて協力する代わりに、検閲は、文句をつけたいところは手当たり次第に削除してしまい、その結果、残されたものは甚だ脈絡のないものになる。この検閲はロシアの国境の新聞検閲に似ている。外国の新聞は、すっかり黒塗りを入れられてから、護られるべき読者たちの手に届けられるのである。

B 退行

 さてしかし、われわれはさまざまな異議に対抗して持論を護ってきたし、少なくともわれわれの防衛のための武器がどの辺に存しているのかを示したのであるから、われわれはもう、長きに亘り準備をしてきた心理学的探究に入り込むことをこれ以上引き延ばすことはできない。まずは、これまでの探究の主要な成果を、まとめて呈示しておくことにする。夢というものは、他の心的行為に比して何ら遜色のない心的行為である。夢の原動力は、どんな場合でも、成就されるべき欲望である。夢が欲望だとは見えなかったり、夢が数々の奇妙さや不条理を呈するとしたら、それは夢がその形成途上で蒙った、心的検閲の影響に依っている。この検閲を免れる必要の他にも、夢の形成に際しては、心的素材の縮合の必要、感覚的心像での呈示可能性への顧慮、そして──必ずというわけではないにしても──夢構築の合理的で了解可能な外見形成への顧慮、といったものが協働していた。これらの命題のどれをとっても、そこから心理学的な前提擁立と推論とに向かう道が開かれている。欲望の動機と四つの条件との間にある相互関係、ならびにそれら四つの条件の相互関係を探究しなければならない。夢は、心の生活の関連の中へと、組み込まれるべきものである。

〔…〕

 退行についてわれわれはさらに、それは神経症の症状形成の理論において、夢理論においてと同様の重要な役割を演じているということを述べておきたい。その上で、われわれは三種類の退行を区別しておく。(a)ここで展開してきたψ系の図式という意味での局所論的な退行。(b)より古い心的形成物への舞い戻りが問題になるという限りでの、時間的な退行。(c)原始的な表現方法や呈示方法が、通常の表現方法や呈示方法の代替を務めた場合の形式的な退行。しかし、これら三種類のすべての退行は、基礎においては一つであり、ほとんどの場合には一緒に現れる。というのは、時間的により古いものは、同時に形式的に原始的なものであり、心的局所論においては知覚末端に近いものだからである。
 また、すでにわれわれに向かって反復的に顔を覗かせているある一つの印象を言葉にしないまま、夢における退行という主題を離れるわけにはいかない。この印象は、精神神経症の研究が深められた後には、改めて強化されてこちらに戻ってくることであろう。その印象というのはこうである。夢見ること、それは全体としてみれば、夢見る人の早期の諸事情への一片の退行である。つまり夢は、夢見る人の幼年期の再生であり、幼年期に支配的であった諸欲動のうごめきや、当時手に入れることのできた表現方法の再生ではなかろうか。この個人の幼年期の背後にまで進めば、系統発生的な幼年期、つまり人類の発展が垣間見られる。一人一人の個人は、実際には人類の発展の、偶然の生命環境に影響された縮小的な反復である。われわれは、夢の中には「一片の蒼古的人間性が働き続けており、そこには人はもはや直接に到達することはできない」というFr・ニーチェの言葉がいかに的を射ているかを感じることができる。そしてわれわれは、夢の分析によって人間の太古的遺産を識るに至り、人間における心的に生得的なものを認識することができるであろうと期待するようになる。夢と神経症とは、われわれがこれまで推測し得たよりもさらに多くのものを、心的な古代から引き継いでいるようであり、それゆえ精神分析は、人間性の始原の最も古く最も暗い段階を再構成しようと努める諸学問のうちにあって、高い位を要求してよいと思われる。
 われわれの心理学的な夢の再評価のこの最初の部分は、われわれ自身をも特別に満足させなかったかもしれない。われわれにとっては、これは暗闇の中に建物を建てていくようなものだったと考えて自らを慰めよう。われわれが完全に誤りに陥っているのでなければ、別の着手点からでもおおよそ同じ領域に到達できるに違いないし、ひょっとするとその時には正しい道がもっと分かるようになっているであろう。
C 欲望成就について

〔…〕

 いまや私は、夢にとっての無意識の欲望の意味するところが何であるかを鮮明に指摘することができる。私は、その刺激の元がおもに、あるいはもっぱら日中の生活の残渣からやって来るような部類の多くの夢があることを認めよう。いつかはきっと員外教授になりたいという私の欲望でさえ、私の友人の健康への心配が日中からずっと活動を続けていたのでなかったら、その晩は私をゆっくりと寝かせてくれたことであろうと思う。しかしこの心配だけでは、やはり夢を形成するには至らなかったであろう。夢に必要な原動力が、なんらかの欲望でもって与えられなければならなかったのである。夢の原動力としてのそうした欲望を調達してくることが、その心配のなすべきことがらだったわけである。これをたとえて言うなら、日中思考が夢にとって起業家の役割を果たしていることは大いにありうるが、起業家は、言われるように、着想とそれを実行に移そうという衝迫を持っていても、資本がなければなにもすることができない、ということになる。起業家は、出資を引き受けてくれる資本家を必要とする。夢のための心的な出費を提供するこうした資本家は、日中思考がどのようなものであろうと、いつでもそして是が非でも、無意識からの欲望なのである。
 資本家自身が起業家であるということも、もちろんある。それは夢にとってはまったく普通の場合である。日中の作業によって無意識の欲望が賦活されていて、この無意識の欲望が夜になって夢を作り出す。ここで例えとして出している実業方面の関係には他にもいろいろな可能性があるだろうが、それらは夢過程と並行的に置いてみることができる。起業家自身も資本の小さな部分を担うこともあろう。何人かの起業家が同じ資本家によることもあろう。何人かの資本家が共同で起業家たちに必要なものを都合することもあろう。それと同じで、一つ以上の夢欲望によって担われている夢もあり、同様の変異型はいくつもあるだろうが、それらはひとまず措いても差し支えなく、今は取り立てて興味を引くものではない。夢欲望についてのこの議論においてまだ不完全なところは、後になってから補完することができるであろう。
D 夢による覚醒──夢の機能──不安夢

〔…〕

 意識の感覚表面のうちVbwに向けられている表面は、W系〔知覚系〕に向けられている表面に比べると、睡眠状態によって、はるかに非興奮性に保たれていると仮定しなければなるまい。意識が、夜の間の思考過程に対する関心を引き揚げてしまうというのも、なるほど目的に叶ったことなのである。思考の中には、何も起こってはならないのであり、だからVbwは眠りを希求するのだ。しかし、夢は、いったん知覚となったからには、このたび獲得した諸性質を使って、意識を興奮させることができるようになっている。この感覚興奮は、その機能がそもそも存しているところのことをやってのける。というのは、感覚興奮は、Vbwにとって自由にできる備給エネルギーを、興奮させてくる何ものかに対して、注意力として振り向けるからである〔本巻三九五頁〕。それゆえにわれわれは、夢はその都度覚醒させるものである、つまりVbwの静止中の力の一部を、活動の中へと移し替えるのだということを認めざるを得ない。夢は、前意識の静止中の力から、われわれが、関連性と理解のし易さを顧慮する二次加工と呼んだ、あの影響力を受け取ることになる。これはつまり、こういうことだ。夢は、この前意識からの影響力によって、他のあらゆる知覚内容と同じ扱いを受けるのである。夢は、その素材が許す限りでの予期表象の下に引き入れられる。夢過程のこの第三部分において経過の方向を考慮に入れるとなれば、それは再び前進的なものだということになる。
 誤解を避けるため、これらの夢過程の時間的特性について、一言述べておこう。明らかにモーリのギロチンの夢の謎に刺激を受けたゴブロー Goblot (S. 289f.)の魅力的な考え方は、夢はまさに睡眠と覚醒の移行時間帯にこそ出現するものなのだということを示そうとしている〔本巻二八二頁〕。覚醒には時間が必要であり、その時間の間に夢は起こってくるのである。夢がこんなにも強烈だったから目が覚めてしまったのだ、人はそんな風に考えがちだ。現実には、われわれが夢を見ているときには、すでに覚醒のごく近くまで来ていたので、それで夢がそんなにも強烈になったのである。「《夢、それは始まっている目覚めである》」。
E 一次過程と二次過程、抑圧

〔…〕

 夢は、われわれの日中生活から派生して完全に論理的に繋ぎ合わされている多くの思考の代替物になりうるということを、われわれは知った。これらの思考については、われわれの正常な精神生活から派生したものであることを疑うことはできない。われわれが自分たちの思考過程に関して高く評価している特質、つまりそれによってその思考過程が高次の複雑化した能力であると言われるような特質を、われわれは夢思考においても再び見出す。しかし、この思考作業が睡眠の間にも遂行されなければならないという必然性を仮定する必要はもうない。そのような仮定は、これまでわれわれが保持してきた心的な睡眠状態についての見方を、根本から混乱させてしまうであろう。むしろ、これらの思考が昼間のうちから派生してきているというのは十分にありうることらしい。そしてそれらは、その初発からずっと意識によって認められないまま、それでも継続しており、そして眠りが始まると共に、もう用意のできたものとして、そこに見出されるという仕儀となったのである。もしわれわれが、このようなことがらの成り行きから何かを引き出してきてもよいというのであれば、それはたかだか、次のようなことの証拠がここにあるということになるだろう。すなわち、複雑な思考の作業は意識の協働がなくとも可能であるということだ。いずれにせよわれわれは、ヒステリー患者や強迫表象を持った人の精神分析をするたびに、このことを思い知らされずにはいなかったのである。これらの夢思考は、それ自体では確かに意識に参入できない。それらが日中ずっと、意識的になることができなかったとすれば、そこには様々な理由があることだろう。意識的になるということは、ある特定の心的機能、すなわち注意〔本巻三三一頁〕を向けられることと結び付いているのだが、その注意というものは、どうやら一定の量を得ないと働かないものであるから、その量が別の目標によって、当該の思考過程から逸らされてしまったということがあり得よう。また、この思考過程が意識に取り入れられないでいたことの別の事情として、次のようなものもあり得よう。意識的に反省してみれば、われわれは注意を向けるときにある特定の道を辿ることが知られる。その途上で、われわれが何か批判に耐え得ないような表象にぶつかると、われわれはそこで中断する。われわれは注意の備給を、そこで脱落させる。しかしながら、いったん始められて放棄された思考過程は、もし注意を強いて惹き付けるような特別に高い強度にまである時点で達していたという前歴がなければ、もう二度と注意を向けられることがないままに、さらに紡がれて行くということがありうると考えられるのである。そうすると、端緒のうちに、たとえば、現在の思考行為の目的にとって正しくないとか無用であるとかいう判断を通じて、意識によって棄却が行われてしまうということ、これが、ある思考過程が意識によって気づかれないまま、眠りが始まるまで続いて行くことの原因でありうることになる。

〔…〕

ところで、夢は病理的な現象ではない。夢が心的平衡に障害を来しているということは前提にできない。夢は後に作業能力の減弱を残すわけではない。私自身の夢や、私の神経症患者たちの夢から健康な人々の夢を推し量ることはできないとする異論は、どう見ても根拠の乏しいものとして斥けてよかろうと思う。このようにしてわれわれは、様々な現象からそれらの原動力にまで遡ろうとするのであるが、そうすると、神経症が活用している心的機制は、心の生活を襲った病的な障害によって初めて創り出されたものではなくて、むしろ心の装置の正常の組立のうちに、あらかじめ存在しているものだと知るようになる。二つの心的系、両者間の移行の検閲、一方の活動の他方による制止と隠蔽、二つの系の意識への関係──あるいは、実際の諸事情の正しい解釈によってその諸事情の代わりに判明してくるものならば何でも──、これらのものはすべて、われわれの正常の心の仕組みのうちに属しており、夢は、この構造を知ることへと導くいろいろな道の一つを、われわれに示しているのである。もし、知識が最小限これだけは間違いなく増えたということで満足しようというのであれば、次のように言ってみることもできよう。すなわち、正常な人間においても、抑え込まれたものは外き続き存続し、心的な作業を営む力を保ち続けているということを、夢はわれわれに証拠立てている。夢それ自体が、この抑え込まれたものの様々な表出物の一つなのである。理論に従って言えば、すべての場合にそうであり、また、把握可能な経験に限ってみても、少なくとも夢生活の顕著な性格がきわめてありありと示されるような多くの場合においてこそ、まさにそうなのだと言える。覚醒生活において矛盾対当関係による処分を受けて表現を妨げられ、内的知覚からも離断されてしまったもの、そういうふうにして心において抑え込まれてしまったものは、夜の生活において、そして安協形成の下で、意識につきまとうための伝手と方便を見出すのである。

 《天の神々を動かす能わずば、冥界を動かさん》。

 夢解釈はしかし心の生活の無意識を知るための王道である

 夢を分析することによって、われわれはこの驚嘆すべき、また秘密に満ちた心の仕組みの構成についていささかの洞察の進展を手にすることになる。確かにささやかな進展ではあるが、それでもそれによって、他の様々な形成物──病理的なものと呼ばれるような──から、この仕組みの解明へとさらに進んで行くための端緒が開かれる。というのも、正当にも機能的と名付けられているような疾患では、この装置の破壊やその内部における新たな分裂の発生を仮定しなければならない理由はないからである。そうした疾患は力動論的に、すなわち、諸力の運動──その効果は機能が正常な間は表に顕れないのであるが──の構成要素の増大や減弱によって説明されるべきである。この装置は二つの審級から組み立てられていることによって、正常な作動においてもある種の精巧さが可能になっているが、その精巧さは一つの審級だけでは実現不可能だったであろう。そのことについては、別の個所で示すことにしよう。
F 無意識と意識、現実

〔…〕

 しかしながら、私は、二つの系というこの思い描きやすい表象を今なお維持しておくことが、目的に叶い、正当性もあることだと思う。表象、思考、心的構築物といったものは、一般的にそもそも神経系の器質的な諸要素のうちに局在化され得るものではなくて、いわば、それらの諸要素の間にあるということ、そこでは抵抗や通道が、それらに応じた相関関係を形づくっているのだということを想い出しておけば、この呈示の方式を濫用することは避けられる。われわれの内的知覚の客体となり得るものすべては、ちょうど望遠鏡の中を進む光によって与えられる像のように、なるものである。しかしそれなら、それ自体は何ら心的なものではなく、われわれの心的な知覚にとっても接近し得ないこれらの系のほうを、ちょうど、像を結ばせる望遠鏡のレンズたちのように想定しておくのは妥当ということになるだろう。この喩えをさらに進めてよいなら、二つの系の間に位置する検閲は、新しい媒体へと移行するにあたっての光の屈折に対応するであろう。

〔…〕

 意識的生活と夢生活との古い対立が、無意識の心的なるものの導入によって、その然るべき位置にまで引き下げられたからには、諸家が以前から今に至るまで微に入り細を穿って取り組んできた一連の夢問題は吹き払われることになるだろう。夢の中で遂行されている、人々を不思議がらせてきたいくつかの作業は、もはや夢にではなくて、日中も働いている無意識の思考に帰せられる。夢は、シェルナー Scherner(S. 114f.)に従えば、身体を象徴化する呈示法を操っているように見えるが、そうだとしてもわれわれは、これはおそらく性的なうごめきをなぞるようなある種の無意識の空想ファンタジーのなせる業であって、そうした空想は夢だけでなく、ヒステリー性の恐怖症をはじめその他の症状においても表現されていることを知っている。夢は、日中の仕事を継続して片付け、価値のある思いつきを明るみに出したりするものだが、ただわれわれはここから、夢工作の作業としての、そして心の深部の暗い力からの力添えの印としての夢の偽装を引き剥がさねばならない(タルティーニのソナタの夢における悪魔の話を参照)。まさに知的な作業も、この同じ心の力の支配を免れておらず、この力こそが昼の間から、こうした作業を推し進めているのである。われわれは知的そして芸術的な産出物について、その意識的な性格をおそらくあまりにも高く過大評価する傾向がある。高度な産出力を備えたゲーテやヘルムホルツのような人々から、われわれはむしろ、彼らの創造の本質的で新しいものは、彼らにとってまるで思いつきのように与えられ、ほとんど出来上がった状態で彼らの知覚にやって来たということを教えられる。あらゆる精神力を挙げて精を出しているようなその他の場合には、意識の活動もやはり協働しているわけであるが、このことはとくに怪しむに当たらない。しかし、どこであれ意識的活動が協働してさえいれば、それが他のすべての活動をわれわれの目から覆い隠してしまってもよいとなれば、それは意識的活動の優先権の濫用というものであろう。

〔…〕

 昨年のこと、私はある無邪気な眼差しをした頭の良さそうな少女の対診に呼ばれたことがあった。彼女の身なりは一風変わっていた。普通ならば女性の服装は襞の一つ一つにまで心配りがしてあるものだが、彼女の靴下の片方はずり落ちていて、ブラウスのボタンが二つ外れていた。彼女は片方の脚の痛みを訴え、促されもしないのに片方のふくらはぎを出して見せた。それにしても彼女の主訴は、彼女自身の言葉を用いるが、こういうものであった。何かが体の中に差し込まれていて、それが行ったり来たりして彼女を隅から隅まで揺り動かすような感じがする、というのである。そうしてそれは、時に彼女の全身をこわばらせる、ともいう。同席していた同僚は私と目を見合わせた。彼もこの訴えを間違うことなく受け取っていた。しかしわれわれ二人に奇妙な感じを抱かせたのは、患者の母親が、こうしたことを聞いて、何も思わないということであった。彼女は、娘がいま述べた通りの状況を、繰り返し自分自身のこととして経験していたはずだからである。娘は自分では、自分の述べたことの重要性について何も気づいていない風であった。もし気づいていたら、彼女はそれを自分から口にすることはなかったであろう。これは、普通ならば前意識に留まるはずの空想ファンタジーが、愁訴という仮面を被って、無害なものとして意識に受け入れられるほどに検閲の目を逃れることに成功した例である。
 もう一つの例。私は、十四歳の少年の精神分析治療を始めた。彼は、痙攣性のチック、ヒステリー性の嘔吐、頭痛、その他の症状を患っていた。私は彼に、目を閉じると、像が見えたり、思いつきが出てきたりするだろうから、それを私に報告しなければいけないよ、と確言しておいた。すると彼は、像が見えてきたと答えた。彼が私の診察にやってくる前に最後に受けた印象が、彼の想い出の中に視覚的によみがえってきた。彼は、叔父とチェスをしていたのだが、そのチェス盤が、いま彼の前に見えた。彼は、有利になる陣形や不利になる陣形、それから、やってはいけない動きを考えたりした。それから盤の上に一丁の短刀が見えた。それは彼の父親の持ち物であったが、空想の中で盤の上に移動してきたのである。それから盤の上には鎌が見えた。さらに大鎌も加わった。今度は年とった農夫の姿が現れて、遠く離れた故郷の家の前で、大鎌で草を刈っていた。何日か後、私はこれらの像の並びを理解することになった。楽しいとは言えない家族関係が、この少年を興奮に陥れていたのである。父親は、頑固で揃癪持ちで、母親とは折り合いが悪く、その教育手段は脅しであった。父親は気弱で優しい母と離別した。父親はある日再婚して、別の若い女性を、新しい母として家に入れた。それから何日も経たないうちに、十四歳の少年の病気が勃発した。父親に対する抑え込まれた怒りを暗示するものとしてみれば、あの様々な像は、ひとまとまりのものとして理解されるのであった。聞き覚えていた神話がその素材を与えていた。鎌は、ゼウスがそれで父を去勢したあの鎌だ。大鎌と農夫の姿とは、あの暴虐な老クロノスの話を描き出していた。自分の子どもたちをむさぼり食ったクロノスに、その子ゼウスは、子どもらしからぬ復讐をやってのけた。父親の再婚というのは、子どもが以前、自分の性器で遊んでいたときに父親から聞かされた非難と脅しとを、父親にお返ししてやるのに絶好の機会であった(盤上の遊び、やってはいけない動き、それで人を殺せる短刀)。長きに亘り抑圧されていた想起と、無意識に留まっていたそのひこばえとは、ここで自分のほうに開かれてきた迂回路を通り、見かけは意味のない像となって、意識に滑り込んできたのである。
 このように、私としては、夢を取り扱うことの理論的な価値を、心理学的な認識に対する貢献、ならびに精神神経症の理解のための下ごしらえに求めたいと思う。すでにわれわれの知の今日の状態によって、神経症のうち治療可能な病型には良好な治療的影響を与えることができているのであってみれば、心の装置の構造と機能について根底的な知見が得られればそれがどれほど高度な重要性を持つに至るかは、誰にも予想できないほどであろう。このように言うと、それでは心というものを知り、個々人の隠された性格特性を発見する上で、夢を取り扱うことに実民的価値はあるのかどうか、ということが問われるであろう。いわく、夢が無意識の蠢きを明らかにするというが、ではそういう添きは、心の生活における現実的な力としての価値を持っていないのか。また、抑え込まれた欲望は、夢を作り出すように、ある日また別のものを作り出しもするとなれば、そうした欲望の倫理的な意義は些少に見積ってよいものなのかどうか。
 私には、これらの問いに答える資格がないように思う。私は、夢問題のこうした側面について、まだあまり遠くまで考えを進めておかなかったからだ。ただ私は、臣下が皇帝を殺害する夢を見たからといってその臣下を処刑してしまったローマ皇帝は、いずれにしろ正しくなかったと思う。皇帝はまずもって、その夢が意味するところを深く考えてみるべきであった。それは、夢が身に纏っている見かけとは定めし違ったものであっただろうからである。そしてまた、額面上は別の姿を取っている夢が、むしろそういった大逆罪的な意味を持っていることがありうることになるが、それでもなお、ここはプラトンの言葉に考慮を払うべきところであろう。すなわち、悪人が実人生で実行していることを、善人は夢見るだけで満足しているのである、と。したがって私は、夢には気ままにさせておくのが最良の策であると思う。無意識の欲望に現実性を認定すべきかどうかを、私は言うことができない。何であれ移行思考とか、中間思考というようなものには、むろん現実性は認められない。無意識の欲望を、その最後的で最も真なる表現において、自分の目の前にしたならば、人は必ずや、心的現実物質的現実と混同してはならない特別な存在の様式であると言うに違いない。だとすると、人々が自分たちの夢の非道徳性を引き受けることに逆らうのは、理屈に合わないことのように見える。心の装置の機能を評価して、意識と無意識の関係を洞察すれば、われわれの夢生活と空想生活の倫理的なふとどきさは、そのほとんどが消え失せてしまうことであろう。
 「現在(現実)の状況に関して夢がわれわれに告げ知らせてきたものを、意識においても探し求めてみよう。そのときわれわれは、分析の拡大鏡のもとで見えた巨大なものを、滴虫類としてそこに再び見出すことになっても、驚いてはいけない」(H・ザックス Sachs(1912, S. 569))。
 人間の性格を実践的に判定する必要に関しては、たいていは行為と、意識的に表明された姿勢とで十分である。まずは行為が考慮されるべきものとなる。なぜなら多くの衝動は、意識に進出したとしても、心の生活の現実の諸力によって、行為へと成熟する前に廃棄されてしまうからである。実際、衝動が、何らの心的な掣肘も受けずにやって来たとしても、それはしばしば、無意識が、衝動はいずれどこかの段階で阻止されるであろうことを先刻ご承知であるからなのである。いずれにせよ、われわれの徳性は、ひどく掘り返された地盤の上に高らかに立っているのだと知っておくことが有益であることには変わりないだろう。人間の性格は、あらゆる方向に向かって力動論的に動かされている複雑なものなので、それを、われわれの年を経て久しい道徳理論が好みがちなように、単純な選択肢のどれかで片付けてしまおうとしても、そうは問屋が卸さないだろう。
 では次に、未来を知るということについて、夢の価値はいかほどのものか。もちろんそのようなことは考えることもできない。それに代えて、過去を知るということについてはどうか、と考えよう。というのも、どのような意味においても、夢というものは過去に由来するからである。とはいえ、夢はわれわれに未来を示しているのだという古くからの信念にも、真理がまったく含まれていないわけではない。夢はわれわれに、欲望を成就したものとして表象させてくれるのであるから、その意味ではやはり、夢はわれわれを未来に導いているのである。しかし、夢見る人によって現在のこととされたその未来は、不壊の欲望によって、往時の過去の姿そのままに象られているのである。

解題

新宮一成

〔…〕

Ⅰ フロイトの夢解釈のシステム
(一) 睡眠という生理的条件
 夢は、睡眠という生理的条件の下でのみ可能となる心的活動である。睡眠中にも人間の精神は全面的に休止するわけではない。フロイトは、人が起きている間にも、眠っている間にも、引き続いて営む種類の思考活動があるとする。すなわち「無意識」という思考活動である。そして夢の思考は、この睡眠という生理的条件を護ろうとする。すなわち夢とは「睡眠の番人」である(第四巻、三○四頁)。
 夢の多くの荒唐無稽な場面は、眠る人が「起きなくてもよい」と自分に言い聞かせていると考えると理解できるような内容から成っている。眠りを、眠りの内側から支えようとするこの機能は、とくに身体の内外から、眠りを覚ますような感覚刺激がやって来たときに目立って現れる。喉が渇いて起きなければならなくなったときに、フロイトは妻がの水を飲ませてくれる夢を見たという(第四巻、一六七頁)。だから、もう目を醒ます理由はなくなったというわけである。「夢は欲望成就である」というフロイトの基本的な命題は、問題の欲望が「眠りたい」という生理学的な欲望であるときに、最も端的に妥当する。そして、「眠りたい」という欲望を夢が成就させるのに紛れて、他の様々な欲望が、成航されることを目指して滑り込んでくる。喉が渇いたフロイトは、妻が壺の水を飲ませてくれるところを少に見ながら、「人に贈り物として上げてしまったあの壺を取り返したい」といういささか卑小な欲望をも成就させてしまったのである。
 しかし、夢はいつまでも、われわれを覚醒から差し止めておいてくれるわけではない。遅かれ早かれ目は醒める。夢が生理学的には覚醒への儚い抵抗であるとすれば、わざわざ極小の時間のあいだ眠りを引き延ばすことには、おそらく生理的安寧以上の意味があることであろう。
(二) 人を目覚めさせる不安
 人を目覚めさせるものは何だろうか。それは、強い光でもなければ大きな音でもない。われわれは、眠りの終わりが、かえって自分の内側からやってくることをよく知っている。われわれはその力に抗しきれない。われわれのできることはただ、われわれを内側から目覚めさせるその原因を、外側から来る夜明けの光や時を告げる鶏の声に重ね合わせて、あたかも自分は朝が来たから目を醒ましたかのように、自分を錯覚させることだけだ。外的な刺激で起きたように見えても、もっと激しい原因がわれわれの内側から来ていたことをわれわれは想い出すことができる。それは不安である。
 確かに、われわれが不安で目が醒めるということは、稀にしかないかもしれない。だから、不安がわれわれを目覚めさせるというのは例外的な現象だと思うこともできるだろう。そして、その例外的な不安の原因について考えなければならないとしても、単に一時的なきっかけを明らかにして、次からは不安のない睡眠を確保すればよいのだと思ってしまう。
 しかし、それは間違っている。不安こそ本来の、われわれの覚醒の原因である。なぜなら、不安は強すぎる欲望が抑圧によって形を変えたものであり、欲望こそ夢の本源であるからである。夢は、欲望成就である。だから夢は、不安に化けている欲望を、最終的には相手にしないわけにはいかないのである。フロイトは本書を執筆するにあたって、不安夢の問題が非常に大切であることを知っていたが、しかしその記述を先延ばしにして、最後の第七章でようやく扱った(D節、本巻三八〇頁以下)。欲望は不安に変わる。そして不安な夢になって人の目を覚まさせる。その成り行きを語るためには、まず悲しみがおかしみに変わったり、心配が喜びに変わったりする夢の中の感情の変転の事例を、十分に扱っておく必要があったのである(第六章「夢工作」)。
 夢は「眠りの番人」として、ある強力で根本的な欲望を、受入可能な範囲の不安という形式に変換しようとするが、しかしその不安があまりに強くなりすぎると、自らの役目をやり通せなくなる。不安へと姿を変えるこの根本的な欲望という問題は、後年の『制止、症状、不安』(本全集第十九巻)において「不安信号説」が導入されたことによっていささかの修正を要することになるであろう。しかし、われわれの眠りを破るものが、われわれ自身が抱えている古い欲望の力であるということは、夢理論の基本的な命題として残り続ける。
 その欲望は「エディプスコンプレクス」という名を持ち、その概念はソポクレスによる悲劇への参照と共に、本書において確立された(用語自体の初出は一九一〇年の「男性における対象選択のある特殊な型について」(本全集第十一巻、二五二頁)である)。フロイトは本書では基本的に自分自身の夢から夢理論を構築するように努めており、後述するように、第五章と第七章において、自身の夢からエディプス的構造を深く切り出している。あらゆる夢の欲望成就にあたって、その背景の地平線上にうごめく、力の源泉がこのエディプス的欲望である。その欲望は、幼年時代など人生の早期に、いったん(無意識において)成就されたものである。それゆえに、それは生活のどんな局面にも、長くそして執拗に働き続けている。
 どのような生活を送ろうとも、ある一日の中で、自分の考えに未解決の部分が残らないなどということはない。その部分を解決したいという欲望は、その夜の夢にとっての「潜在思考」となる。「壺を上げなければよかった」という物欲は、まさか「返してください」と友人に申し出る形では満たされないだろう。その恥ずかしさはしかし、一つには「眠りを引き延ばす」という生理的な機能を遂行するという機会を捉えてならば、乗り越えられる。妻の手に、壺が現れる。そして水もそこから出てくる。しかも、その壺はエトルリアの骨董品である。第六章には「エトルリア人の墓」が登場するが(本巻二二二頁)、エトルリアというのは古代ローマ文明に先立って栄えた文明である。この夢においてフロイトは、自らの出自をエトルリアに重ね、ローマに対して、自分と自分の父祖を優位に立たせるという根本的な欲望も成就させたと言えないだろうか。そうだとすれば、妻の手にある壺から水を飲ませてもらうという授乳のような状況と合わせて、ここにもエディプスコンプレクスの強い力が働いたと言うことができよう。
 このように、フロイトの夢解釈のシステムは、人間の様々な欲望と不安とを、人の経験の時空間を活用して大がかりに配した仕掛けである。夢そのものとも言える、実際に見えたり聞こえたりしている「夢の内容」すなわち「顕在内容」は、その素材をいろいろなところから取ってきている。あまりにも多彩であるから、その選択はほとんど無秩序のように思える。だから、夢は、脳が睡眠によって現実との関係を失ったときの、神経からのランダムな信号発生の結果のように見えるかも知れない。実際にそのような説はあるが、しかし、それだけではない。睡眠には当然目的がある。睡眠は冬眠のように活動水準を下げることのみを目標としているのではない。睡眠には、現在の刺激からわれわれの思考を護り、われわれが過去との関係を組み替えながら保持し続けるのを助けるという、れっきとした機能があるのだ。その際の組み替えの活動が夢を作り出す。夢は、過去を引き出して来ることによって、かえって現実との間で次々と新たな関係を紡ぎ出していると言ってよい。その活動を描き出すために、フロイトはいくつかの独自の概念を必要とした。それらのフロイト的概念の相互的な連関を、次に展望しておくことにしよう。
(三) 顕在内容、夢工作、潜在思考、無意識の欲望
 私は先ほど、覚醒の本然的な原因は、無意識の欲望が変形して生まれたところの不安であると述べた。これは、フロイトの「夢の資本家は無意識の欲望である」という位置づけに呼応した考え方である。フロイトは、夢の形成過程を、非常に分かりやすく、資本主義社会の商品生産になぞらえて述べている(本巻三五六─三五七頁)。資本家とは、無意識の欲望、すなわちエディプスコンプレクスである。エディプスコンプレクスがかつて成就したことがあるということがなければ、われわれは夢を見ることができない。それは資本が無いということだからである。
 しかし、このエディプスコンプレクスという資本家は、どのような小さな事業にも気前よく資本を投入してくれる、得がたい資本家でもある。ごくありふれた、小市民的な、自己中心的な欲望に対しても、ここから資本が流入してくる。エディプスコンプレクスの助けを借りて、日々を生きる夢見る主体は、一個の起業家となり、事業主となる。彼は夢において、資本家の資本を元手に、自分の欲望を成就させることができるのである。
 そしてフロイトは、この事業主であるわれわれが夢見ている間に職人たちが現れて、この事業主の潜在的な監督の下で仕事をすると考える。彼らの仕事は「夢工作」と呼ばれる。われわれが頭の中に有している表象の備蓄は、これらの職人たちの工作の素材である。フロイトはその一部を機織りになぞらえる(本巻一〇頁)。この辺りはいかにも、マイスター制の生きていたかつてのドイツ語圏の生産システムを彷彿とさせる。職人たちは、事業主の欲望を成就させるべく、それらの備器の中から適した素材を探し出して組み合わせるのだ。
 その「夢工作」には、四つの機制が立てられている。「縮合」、「遷移」、「呈示可能性への順慮」、そして「二次加工」である。「縮合」にあたるドイツ語 Verdichtung は、従来「圧縮」と訳されることも多かったが、二つ以上のものを何かの理由を付けて一つにしてしまうというその成り行きには、「縮合」という日本語の語感が適していると考えてこれを採用した。なおフロイトは、同じ機制に対して、説明の際に Kompression という語をも用いており(本巻三九七頁)、こちらには「圧縮」という訳語を充てた。「遷移」にあたるドイツ語は Verschiebung であり、「ずらす」ことを意味する。表象間で相互に強度がやり取りされるため、強調点がずれるという現象である。従来は「移動」や「置き換え」と訳されて日本語が定まらなかった観があるが、本邦訳では新たに統一的に「遷移」という語を充てて、術語であることを強調した。
 夢という心的活動は、潜在思考を呈示するにあたって、その活動の性質上、視覚的に使える素材を優先して用いて思考を夢の中に登場させる。この「呈示可能性への顧慮」のために、夢の場面は相互に無関係な視覚像の無意味な組み合わせになることがある。また四つめの機制である「二次加工」には、夢生活が決して、覚醒生活から切り離されて存在する聖域ではないことがよく現れている。夢と覚醒は、互いにいわば外交交渉のようなことをしている。われわれは、醒めるということを前提にして、あるいは夢が夢であることを承知した上で、夢を見ているのである。そしてわれわれは、夢を見ながら夢が間もなく終わろうとしていることを知ると、できあいの筋書きを借りて、夢をまとめてしまう傾向を持っているのである。夢を研究すること自体への批判として、夢は、後からそのように夢みたと想像された形でしか想い出せないから、夢経験のありのままのデータというものはない、というものがある。しかし、夢は、それが後からの加工を受けるということも含めて、夢なのである。
 こうした四つの仕事を行う職人たちが、夜になれば働こうとして、われわれの心の中に控えている。昼間の忘れられがちな思考である潜在思考の主であるわれわれ主体は、一方では、無意識の欲望から資本を借り入れ、他方ではこれらの職人たちを雇用することで、夢を作り出し、夢として自らを呈示するための事業を興すのである。
 これらの夢工作を経て、「潜在思考」の意を体した夢が出来上がる。出来上がった夢を、「顕在内容」という。したがって、厳密な意味で夢が心理的に成し遂げたことはといえば、種々の夢工作だけということになる。無意識の欲望はわれわれの子どもの時にもう作られて保存されてきたものであるし、潜在思考は生活の中で日々作られ、睡眠の中に持ち込まれるものだからである。しかし、われわれにとっての「夢の意味」は、潜在思考と顕在内容の間を取り持つ夢工作からだけ、発生するのではない。夢を解釈して、夢の機能と意味を全体として理解するためには、フロイトの構想を見渡し、改めて、夢形成に関与する三つの層を頭に置きながら考えてみなければならない。
 三つの層の最深部、すなわち無意識の欲望から、夢工作のためのエネルギー、つまりフロイトの言う「資本」がやってこなければ、夢は作られない。作る必要もない。問題は、この無意識の欲望に対する人間の態度は如何なるものか、ということにあるのである。ちょうど、資本に対して、労働者として対峙するか資本家として臨むかで生活の大局的な意味が作られるように、無意識の欲望をどう成就させるかという根本的な問題を突きつけられることによって、われわれの夢のゆくえは決まる。
 ここまで、フロイトが作り出した夢解釈のための概念装置を振り返ってきたので、次にフロイトがこれらの装置を用いてどのように夢を解釈し、心の働きを組み立て直したのかを見て行くことにしたい。

Ⅲ フロイトの夢解釈と「象徴」
 フロイトは第六章、E節「夢における、象徴による呈示法──続・類型夢」に一九一九年に追加された個所(本巻一五一頁)で、すべての夢が性的に解釈できるとは、どこにも書いた覚えがない、と主張しているが、フロイトの夢解釈は、彼の意図せざる汎性論として巷に知れ渡った。哲学者のジャック・デリダは、同じくE節の「夢の中の複雑な機械類や装置はどれも、十中八九、性器であり──たいてい男性性器であるが──」(本巻一〇〇頁)という句を引用し、エクリチュールの舞台としての夢のありようを見直しているが、フロイトの夢解釈の、少なくとも入り口としての性的解釈は、つとに一般化していたと言える(「フロイトとエクリチュールの舞台」、『エクリチュールと差異』(下)所収、三好郁朗訳、法政大学出版局(叢書ウニベルシタス)、一九八三年)。同時代のウィーンを生きたルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、ひとひねりした言い方でこのことを捉え、性のように人生にとって重要なことがらが、夢の中に入ってこないはずはないから、性的に解釈すれば、夢の意味を言い当てることができてしまうものだ、と皮肉に述べている。「事実は、諸君が、諸君の生活の中での大きな物事──たとえば性のような──に心を奪われているときには、諸君が何から出発しようが、連想が最終的不可避的にその同じ主題へ戻っていくだろう、ということなのだ。(…)強力な神話である」(『ウィトゲンシュタイン全集』第十巻「講義集」、藤本隆志訳、大修館書店、一九七七年、二二三頁)。ところで、この「人生にとって重要なことがら」というところには、性的象徴だけでなく、一般的な象徴作用の特徴が現れている。

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