岡江晃『宅間守 精神鑑定書──精神医療と刑事司法のはざまで』

 おそらく高校二年三学期ころに書かれたと思われる「反省文」が保健ノートに残されている。小学校五年~高校二年の一月ころ(家出の後)までの回想であり、退学は決定していない時期であった。学校提出用の反省文である可能性が高い。そのためか勉強、部活動等の表面的な話題がほとんどで、本人にとって都合の悪いいたずら、事件への内省は一切見られない。謝罪の表現が目につく。最後に部落問題に関する本人特有の論理を披露して終わっている。精神病的体験を疑わせるものは全くない。ただ、試験中に関係のないことが頭に浮かんで試験に集中できないこと、他人の気持ちに配慮できないことの自覚などが窺われる。さらに、「反省文」という枠組みに即した文章を構成することができる能力、知識としての社会的規範は持っていることが窺える。長文であるが抜粋する。誤字と思われる箇所もそのまま転記する(宅間守の文章の引用では、以下同じ)。
「まず僕は、小学校の高学年の頃からの事を書こうと思います。僕は、小学校五年の時、ある同級生の女の子から、私のおじさんは飛行機乗りやと聞かされた。そして、いろいろ、そのおじさんの身上話しを聞かされ、僕もパイロットになりたくなってしまった。そして今まで全くと言っていいほど勉強しなかったが、パイロットへの希望をたくしてちょっと勉強しだした……人より大きい希望をえがくが、その割には、努力が、たりない……その性格が、今まで尾を引く事になったのです。……小学校も卒業間近の頃僕は……国立の中学校に行きたいと思った。そして願書まで取りに行った……いちかばちか合格したらもうけもんやと思っていた。そして願書の中身を見て内申欄があった。五段階に表わす内申欄であった……自分で書いて偽造をしようと思った。……
 ……公立の普通の中学に入学した……勉強どころか、他人と喧嘩をしたり、いろいろな悪い事をやっていた……頑張ろうと思っていたのに、なぜ悪い事をしてしまうのか自分でも不思議だった……二学期の終りの通知票に、口より実行ですと書いてあった……三年になった……悪い友達と遊びほうけていた……生活指導の先生にもしばしば、呼び出され、説経された……自衛隊に行く事を積極的に考え出したのは……自衛隊の試験は、内申書いー済関係なしの一髪勝負だったからです……そして結局××大学高等学校に受験が決った……試験中関係のない事が、頭に浮ぶ。いらいらしながら試験に取りくむ。わからない問題が、よけいわからなくなってくる……予想どおり、落ちた。
 そして××工業高校に希望をたくしてちょっと勉強した……合格してしまった……××工業高校に合格した時は、とてもうれしかった……入学した一週間ほどたってから、野球部に入った。なんと入部して気づいた事は、練習のきつい事、僕は、もうついていけなくなってやめた……しばらくして入った陸上競技部をつづけ……短距離で、明石での県大会でも、準決勝に、くじ引きで落ちるくらいまでいった……少年自衛官に入る事が、夢として、えがくようになった……二年になっても学校をさぼったり……オートバイの事ばかり考えていた……喧嘩とよく遭遇するようになった……〇〇と喧嘩をした……〇〇とやって……お父さんが、学校に呼ばれ、反省文を書いたり、学校から特別休かをもらったりした……単車も購入した。お父さんが、買ってはいけない。どうしても買いたいのなら一二五CCにしとけと言ったけど、僕は、四〇〇CCの単車を買ってしまった……九月の終り頃……四〇〇CCの単車を下取りに出して、中古の五〇〇CCを購入した……二学期は、いつもの様に、ちゃらんぽらんに過しているうちに○○(同級生)との事件になってしまった。そして、○○先生(担任教師)に手を出してしまった。いかなる理由でも教師に手を出してはいけない。まして、警官や自衛官になりたいものが、そんな事やっていてなれるはずがない。今身にしみてそう思います。そして先生に手を出して、またお父さんが、呼び出しになるのかと思い、いやになり家を出た。学校は、やめる決意で出ました……一ヵ月ほど、家をあけていました。もちろん○○(別の同級生)を連れて行った……○○の家に脅迫じみた手紙を出してしまった……兄が、向いに来て家に帰って土方をして働いた……二週間して○○先生が、家に来て、一年留年する気は、ないかと言われた。僕は、いやだとはっきり言った……しかし……もう一度頑張って××工業高校に行くかと思った……だから受け入れてもらえるのであったら、頑張ってやっていくので、もう一度機会をほしい気持ちです……
 ○○との件であるが、あいつの立場も考えず連れ出していった事や大金を貸した事などは、深く反省してます……いけない事は、○○の家族が、びっくりするような手紙を出し事である……今思えば、自分の都合の事しか考えず、他人(○○)の事など考えないで行動してきた自分は、最底な人間だったと思っています。これからは、もっともっと他人の事を考えられる人間になっていきたいと思っております。クラスの中でも自分が、一番思いやりの心が、なかったような気がする……両親の事であるが、心配を今まで非常に掛けて来たと思っています。最近では、一ヵ月近い家出が、一番の心配の種だったでは、ないであろうか。これからは、心配を掛けずに行きたいと思っている……お母さん……家の中で一番弱い立場なのだから、いたわるぐらいの心構えで接してやらねばならないと思う.……親に暴力をふるう事です。今までの僕は、お母さんにそのような行動をたまにとって来た……この世の中で一番好きな人は、おばあさんだ。そのおばあさんにお茶立ちをさせるまで心配さした事は、これからの行動でしか返しようがないが、それが一番のおばあさんの喜びだと思う。これからは、絶対の絶対に家族や先生、親せきの人、おばあさんに心配をかけないように努めたいと思います。
 ××工業高校に入学してから今日に至るまで自分自身何もここちいう頑張りが、なかった……部落問題の事である……俺自信の意見だが、部落差別について積極的に取り組んでいる日本人が、何百万いるかしらんが、過半数の人が、部落民を差別したしているしていた現実である。俺は、大日本帝国民の一人としてこういった陰気な問題を解決する事を望んでいる……俺は、いい案をもっている。部落民自信も生れてくる子が、可哀想、不幸になると思っているのなら子を産まなければいいと思う。部落民が、団結して子をこさえないという条例みたいなものを出し一人も部落民が、子を産まなければ、条例を出し合った最終日以後受精女が、おらなければ、すでに妊娠している部民女が、出産してその子が、死ぬ時が、滅びる時だ……まあ百五十年以内には、滅びる。これも一つの方法だと思う……最後に俺自信の大きな反省点は……先の事を考えて行動せよ。それだけ」である。
 ここに奈良少年刑務所から母と父に宛てて出された手紙が残っている。
 母宛の二通の手紙がある。そのなかにT病院入院の経緯、大怪我したことは母の責任だ、賠償金を出せと脅迫する内容が書かれている。抜粋する(誤字は原文ママ)。
 一通目は、「私が、大怪我して死にかけたのは、あんたの責任で、ある……警察からのがれる目的で入院したのに、その事を一向に病院に退院理由として言っていない……他あらゆる関係証拠において、完全に確実に、誰がどう言おうと、すべてあなたの責任で、ある……今までの報復と懲罰的、気持ちにかられて、意図的に、苦しめてやろうと思い、ひたすら、入院を継続させていたのである。あんたは……己れは、××病院<整形外科>おいて、このまま殺そうか、どうか、相談していたのを俺は知っている……後、十五年生きるかどうか知らんが、絶対に絶対に、何一つ、喜び、楽しさは、ないものと思ってくれ……人が、本当に苦しんでいる時、あほげに扱うとこうなるので、ある。少しでも、多く、俺に賠償金を払えるようにしておいてくれ。それと、年金で、あるが、当然、終身するまで、全額を賠償金の一部として、もらうつもりである……毎晩、己れをガッチンガッチンに殴っている夢を見る。顔が砕けて、歯が全部、取れている顔が夢に出る。それぐらい憎んでいるので、ある……なぜ出さんかった.……五階から飛び降りて、死ぬか、足腰立たんかったら、それまで、しかし助かった限りは、肚くくったらどうや。運命は俺に味方したんや」である。
 二通目は、「昭和五十九年十二月十二日私は、あなたと北陸温泉から帰った次の日、二人で虚〈嘘〉の芝居をして、私が、T病院へ入院した。それは、私の甘い考えで、ひょっとしたら、刑から、逃げれるのでは、と思い、衝動的に、実行に移した。が、その入った直後に、自分の重大な考えの甘さ、又、本当に狂人になる恐怖心で、強く、病院にも、あなたにも再三、訴え、又、排尿障害も、ひどく、すぐ出して欲しいといったのに、同じく病院にもあなたにも、無視された。その結果、私は、危く、人生を閉じかけた。幸か不幸か、一命は、とりとめた。しかし元の無傷の身体は、戻ってこない。なぜ人の衝動的な考えの誤りにつけ込むのですか。なぜ、三週間以上放置したのですか。あなたは、娑婆で、温々とできる立場ですか……
 あなたの言い分は、こうです。◎私が、脅して、病院に連れて行った。一月五日に出したると言っていたのに、かってに飛び降りた。このような事が、親で、あるあなたが、通用すると思っているのですか。増してや、あなたは一月一日に、友達と遊びに行っていますね。私は、すごい、後遺症と心の傷で悩んで、います。本来なら死んでいたのです。あなたに、とれば、その方が、よかったと思います。私は、あなたに今後も、孝行するつもりも、ないし、親愛もしていません。
 ただ、私の生命を奪いかけた、過失者だと思っています。当然、私も、あなたに悪気があったとは、思いません……出してくれていたら、刑務所へ行くはめになっていたか、どうかは、別として、あのような、取り返しのつかない、ケガは、しなくて、済んだのです。
 その後、××病院<整形外科>を退院して、自宅療養していましたが、私は、あの時、半分、命もほかして<捨てて>いました。いや、今もそうかも、わかりません。当然、ケガが、原因です。足も今だに治りません。歯もありません。右足が、しびれます、右手の小指が、しびれます。デコとあごと口びるに、傷跡が、あります。すべて、元には、戻りません。それで、やけになってやっているところに、逮捕されたのです。何かそれで、助けてくれましたが。何も助けてくれませんでしたね。断わっておきますが、一番悪いのは、私です。それは、充分、わかっています。……しかし、結果は、結果なのです。その事に、対して、どうケジメをつけようと考えているのか、手紙なり、奈良に面会に来るなりして、釈明してもらえませんか。あなたが、他人なら、私も、それなりの主断をとりますが、一応親なのだから、出来ません。私の気持ちも、わかって下さい。一層の事、責任が、ないと思っているのなら、はっきり手紙で、『ない』と書いて、送ってくれる方が、スッキリします。私の刑は、後二年と三ヶ月です。○○〈母の実家〉から、いくら、取れたのですか。その辺のところも、スッキリしたらどうですか。なんとか、手紙でも、くれませんか。無論ずっと、黙っているも、かまいませんが、二年三ヵ月、なんか、あっという間にたちますよ。反省して下さい。反省を。以上」である。
 しかし一方、奈良少年刑務所から二通の父への手紙では、反省している、仮釈放に向けて助けて欲しいというような内容である。抜粋する。
 一通目は、「……自分の性格を悟ったのだから、変な方向に行かず、偏屈でも仕方がない、とにかく胴々と生きようと思っています。……僕は、不愉快を与えるのが少し楽しく感じ、偏執的なところがあり、今後、人並な恋愛だの、人並な人間交際は出来ないと思う……僕がやるから恐喝となり、僕がやるから傷害となり、僕がやるから強姦になるのだと思う。だから、僕は大人しく孤独でいた方がいいと思う……平たく言えば、思いやりが一カケラもないのだと思う……平たく言えば性格異常ですが、全て自覚して、御迷惑は一切お掛けしませんので、一日も早く引き受けをしていただいて、社会に出たいです……屈折している面、一本抜けている所、不安定な部分、精神病者と境界線にいる所等、全て自覚しております……やはり、お父さん、刑務所へ来て辛い思いをしても性格は改まらないです。だけど家族には悪かったと思っています……少しは僕の性格も考えて下さい、とにかく、やり残している事、やらないかん事があると、頭にこびりついて、どうしようもありません。とにかく、なんでもいいから助けて下さい……」である。
 二通目は、「……悪いようにばかり解釈、取っていたら埒が、明かないので、いいように取るべき所は、取り前向きな姿勢を取らなければならないと察しています。僕はあらゆる要素から、一度は、矯正施設を経験すべき性で、あったと思っています。虚栄心・劣等感・自信過剰の固まりで、自分自信の器、性格又現実的なレベル等を全く認識しておらず、非常に屈折した考えの元、堪とハッタリで、世の中を渡り、分以上に富を得ようとしていた……やはり、親父の主張は、間違っていると思う。これはよくない。このような考えで、生きて行くには、次元の低い窟折した、生活しか埋めれて来ないと思う。やはり、おかしい、口に出すべき言葉では、ない。しかし、僕は、親父の主張は、正しい面も多々あると思う……僕は、非社交性なので、兄貴とは、どうも性が、合わない反面、羨ましいというか、どっちにしろ、全く異質だという事である。僕は、これから、自らの類・性を認識し、知足安分たる人生を歩もうと思っている。最後に、同じ出所するなら、一日も早い方が、いいので、親父に協力して欲しい。これ以上の、更正も再認識も望めない……お婆ちゃんによろしく。二月三日」である。
 宅間守と大阪拘置所の面会室で会ったときから十年が過ぎました。当然、記憶は次第に曖昧になり歪められていると思いますが、現時点で思い出すことは次のようなことです。
 最初の面接のときの第一印象は、少し弱々しく、少し卑屈な態度であったと感じました。統合失調症かもしれないと感じさせる雰囲気もありました。しかし話しはじめると間もなく、身振り手振りを交えて大変に饒舌になりました。鑑定の作業を続けている途中で私たち鑑定人や鑑定助手の精神科医四人は何度も意見交換をしました。比較的初期の段階で私たち四人は、宅間守は統合失調症ではないという意見で一致しています。このとき私は、責任能力の有無は大きな問題にならないだろうと思ったことを覚えています。もちろんそれからも、発達、精神症状、前頭葉機能、脳腫瘍などをどう考えればいいのか頭を悩ませ続けました。
 その後の面接でも、私たち鑑定人に対しては、ふてぶてしさや威圧的態度、不快感や拒否、あるいは傲慢な態度などは一切見せませんでした。どこかしら、駆け引きや隠し事をしそうにもない単純さも感じられました。そして最終面接のときにも、私がこれまでの話に虚偽や誇張が混じっていないかと問うと、多少の誇張はあったかもしれないが嘘は言っていないと答えました。しかし一貫して自己中心的としか言いようのない考えを持ち続けていました。
 最も強く印象に残っていることは、宅間守がいう「非健康的な精神構造」について具体的に説明するように求めると即座に、「愉快犯的なところ」「不愉快なことが引っかかってはなれないこと」「共感性がないこと」をあげてそれぞれ具体的に説明しました。そして自己診断を問うと、「幻聴幻覚のない分裂病やと思っている」と答えたのです。宅間守は自分自身のことがよく分かっているという驚きを禁じ得ませんでした。
 また、私たちは「情性欠如者」と診断しましたが、宅間守が喜びや悲しみをまったく感じないというわけではありませんでした。市バス運転手に採用されたときや三番目の妻と結婚できたとき、あるいは抗精神病薬の服用により過敏さや焦燥感が減じたときには、「うれしかった」と感情をこめて答えました。
 もちろん、私たちの精神鑑定書は宅間守の全体像を捉えているとはいえないでしょう。宅間守は、弁護人には私たちとは違った顔を見せていたかもしれません。鑑定中にも法廷では粗暴な言動がありました。私たちの鑑定が終わった後には、謝罪や反省がまったくないような獄中手記がマスコミで報じられています。一方で、死刑直前には獄中結婚した妻への感謝の言葉を残したとも伝えられています。
 私は鑑定人として、診断が難しい事例においても、仮に十人の精神科医が鑑定したとして、うち七、八人以上が納得する根拠を示し診断すべきだと考えています。仮説や主観的な思い込みは可能な限り排除すべきです。しかし宅間守については、より正確に人格障害の中核部分を言い表すためにあえて、古典的であり、かつ人格への非難・批判を内包するような「情性欠如者」という診断名を使いました。
 一方、精神科の臨床医としての私は、宅間守が抱いていた視線や音などへの過敏さはおそらくヒリヒリするほどの嫌な感覚を伴っていたのではないだろうか、などと宅間守の内的世界に目を向けようとします。しかし仮に私が附属池田小事件の前に宅間守を診察することがあったとしても治療関係を深めることはできないまま、けっきょくは附属池田小事件に至ったのではないかという暗澹とした思いは消えないままです。
 宅間守は二〇〇三年八月に死刑判決を受け、二〇〇四年九月、死刑が執行されました。
 医療観察法は二〇〇三年七月に成立し、二〇〇五年七月に施行されています。そして新しい入院病棟は全国に徐々に整備されていきました。その入院病棟は、従来の精神医療と比較すれば約三倍のマンパワーで治療にあたる体制になっていました。
 私は二〇〇三年に京都府立洛南病院院長になりました。医療観察法が成立した段階では、より医療的な運用がなされるように努力する方が現実的ではないかと考えるようになりました。別の言い方をすれば、病状が良くなっていても再犯のおそれのために長期入院を続けるという社会防衛的な側面が強くなりすぎないようにしなければならないということです。そして病院として、医療観察法に基づく鑑定や通院を積極的に引き受けていくことにしました。さらに医療観察法による患者専用の入院病棟を作りたいとも考えました(しかしこれは実現しませんでした)。
 また私は二〇〇六年から二〇一二年まで、医療観察法に基づいて行われる入院病棟への厚生労働省の監査に同行し、精神保健指定医として年三、四ヵ所、それぞれ十数人の入院患者の面接を行ってきました。あるいは医療観察法の入院中に自殺した事例についての外部監査委員として調査に加わったこともあります。これらを通じて、医療観察法の入院病棟での治療が、これまでの精神医療よりも優れた面があると同時に、それでもなお限界があることを実感することになります。
 宅間守が附属池田小事件以前に行った数々の粗暴な犯罪行為に関して、現在なら医療観察法に基づく治療をすべしという審判が下されただろうか。私はそんなふうに考えるときがあります。おそらく医療観察法の対象外とされて治療が受けられないかせいぜい通院となったであろう、もし入院になったとしても、比較的短期間で退院になったのではないかと想像します。つまり、医療観察法があったとしても附属池田小事件(あるいは類似の事件)を防ぐことは難しかったのではないかと思っています。

 以上のように、附属池田小事件と宅間守は、私が精神科の臨床医として、都道府県立精神科病院の院長として、あるいは精神鑑定をする者として、為そうとしてきたことに重なり合っています。その意味で、社会にとって忘れることのできない重大事件であると同時に、私にとってもずっと頭のなかから消えない事件でありつづけています。
 今後機会があれば、重大犯罪を犯した統合失調症や妄想性障害の人たちは刑罰を受けるべきかあるいは医療を受けるべきなのか、パーソナリティ(人格)障害や被虐待歴のある人たちに刑罰だけを与えるだけでよいのかなどについて、私が行ってきた数々の精神鑑定の事例を通してまとめていきたいと思っています。

 最後になりましたが、附属池田小事件で犠牲となられた子どもたちに深い哀悼の意を表します。傷害を受けた子どもたち、事件を目撃された子どもたち、ご家族の方々、また先生たちの受けた深い悲しみや衝撃が少しでも和らいでゆくことを心から願っています。
 附属池田小事件の裁判での大きな争点が責任能力の有無でした。私はたとえ何人もの精神科医が何度も精神鑑定をしたとしても、私たちと同様に、宅間守には責任能力があるという結論になるだろうと確信しています。とはいえ、この精神鑑定書が死刑判決を後押ししたことは間違いないでしょう。そのことも含めて私は、宅間守の魂が安らかに眠っていることを祈っています。

 二〇一三年四月 岡江 晃

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?