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雑感*存在論的、郵便的について1(メモ書き)/2(音楽論をかねる)

2010.07.03 Saturday / 07.13 Tuesday | 

その1-考えたことの列挙。

郵便的。「性」性(欲動という言葉遣いに象徴されるように)への力点があまりにつよい―フロイトから学ぶ所がたしかに大きい故―が、より人格的フェーズでの表現を「も」要すると考える点(これはラカンにもいえるのだが)。そうでないと、とくに女性の性が、何か常にこびつつ怯えているのっぺらぼうな、あるいは一様な顔をもつものとして身振り手振りする存在にしかならない、というか自動的にさせられる。その域を出ない(出させてもらえない)、ような印象を受ける。欲動を情動的志向性のみでなく人格的志向性としても捉え直す必要を感じる(この思想が大衆化すればするほど、与えうる影響のことも考える)、別な言い方をすればファルスが禁止をうける、去勢されるのは、なぜそうされねばならないかをもっと学的-倫理的な位相で掘り下げてもらいたい。という点と、

偉大な哲学者はちょっと大きな郵便局、といわれる点について。哲学者は受け取った手紙を読まない(手紙を開けること、声化することひいては理解=聞くことをしない)で、その「思考」は断片化されたエクリチュールの群れを読むことが出来ないままに結合させ配達する諸機会の群れとして、言葉に宿る反復強迫(幽霊)に呼びかけられ成立する、という所で、たとえ言葉に宿る反復強迫に呼びかけられたそのシニフィアンのみによって(哲学者の行為が)動かされるとしても、その動かされる行為のなかに哲学者の自我が絡む(反響反映する)ことは全くあり得ないのか、がわからない点(多分それは結合・配達に選択-採用されなかったものたちが帯びる志向性の問題に、より絡むと思われる)と、他方それを思想として展開する際にも、その語りとして何かをなぞらえとして例示していく作業が必須だが、その際の選択・提示という作業に、ある種の責任が伴わないのか――別な言い方をすればなぞらえとして何を取り上げ何を取り上げないかの選択権(介在)の問題ともいえる――、また集められ方全体の「帯びる」志向性。集められたもの・選択されたものひとつびとつについては非常に適確だ、――たしかにそれはそうだと思う――といえるとしても。という問いがどうしても私自身に残る点から、この思想をそのままでは自分のバックボーンにできないかもしれない、注意深くしていくべきという結論が出そうだと言うこと。だがたくさんの暗示に満ちたメッセージがあった。(まだ、さらに時間がある時に丁寧に読み進め、場合によっては読み直してもいこう)

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もうひとつ。クラインの壺(否定神学の思考系)について。クラインの壺の底は、いつも大抵平らに記されている。がたしかに平らな側面を縫合作用(の一部)として持つが、じつはもう少し球体を帯びたものと理解されてもいいかもしれない。そして(これはもっと重要なことだが、)振幅運動にさらされている。何故といえばその底は他者性を含んだある働きかけ(汝なすべし)としての息を(穴・欠如を通して、縫合作用の準-外から)吹き込まれている(このため、閉じ<られ>ない)ゆえ、――さらにはその超越的働きかけのもといが実際の「社会」からの直接の要請となって二重に自己に働きかけるため、――振動するからだ。この、穴(欠損)への超越の息からの吹き込まれ、を語らないと、あの管のようなものの旋回のダイナミズム、つまり何故上昇し回り込むのかを、十分に語ることが出来ない。

ところでその蜘蛛の巣のように世界を編み、欠損――これは、生殖(性)的意味合いとともに、(それだけでなく!)、より知的で人格的なニュアンスと位相を欲する「基点=盲点」としての能動態である欠損、ここにも脳と、欠けた世界を再構成し対象化しようとする視覚的知的領野が、より充溢した意味合いとして含まれる――ゆえに、必然的に他者を欲しこれによって欠如を補う(存在論的にまた倫理的に、それが正しいか、また可能かどうかどうか別にして、補「おうとする」)。その欠如を補なわんとする形で編まれる編み物――それは通底するもの・横断するものとしてのデリダのいうエクリチュールやシニフィアンを、含むかも知れない。また、ある種の律法(汝なすべし、を、超越的働きかけとしてばかりではなく他者性・社会性として吸収し要請する律法)を、含む――を、編む底。社会・世界認識として球体をすら帯びるかも知れない底。その、縫合作用によって形作られる振幅運動する底は、もしかすると?横滑り(ズレ)を起こしうる(これはまだ判断保留だが。もしくはあらかじめ起こしている、また絶えず起こさせられ続ける、とも言うべきか)。そしてそのズレにともなう形でまたあの管の上昇旋回のダイナミズムを汝なすべしとして起こし自我に要求・ないし(超越的自己として自己=自我に)喚起することを繰り返す。??その際、管の旋回のダイナミズムは、主体=自我の待機する「裏側-外側」をまわり、下降して(超越からの促しとして)主体=自我を喚起する、という仕方である。その上昇旋回→下降の汝なすべしは、待機する主体=自我を覚(リアライズ)し、ときに(その中の日常的自我の部分を)滅する。がしかしこの主体=自我は、その降りてくる・もしくは後ろから促す超越的働きかけに、つねに「応じ」受け容れ、我欲すの主体能動性に転じる、というばかりでなく、拒否したり、判断留保し放置する場合がある。これは、(ひとつには?)ラカンのいう出会い損ない、と理解してもよいかも知れない(東氏の本によればハイデガー・フロイトも起らなかった出会い、というのを言っており、それとも理解できるかもしれない)。

何故拒否・保留しうるかというと、ひとつには、その主体=自我の「在りよう」によって、要請(すなわち不可能なもの)が(潜在意識的にはともかく)主体=自我に十分に聞こえない場合がある――粗暴またはアナーキー、アクロバティクな状態にいる際、何らかの形で確信的拒絶状態にいることがありうる、或いは状況に呑まれているか、総じて空じられにくい状態でいる時を含め――のと、もうひとつはその待機する主体=自我が、その超越的要請を、純一に超越的・人格的な作用(応えるべき促し-作用)か、意図的なイデオロギー装置からの要請(拒否すべき促し-作用)かを判断しようとしたりするからだと思われる(この熟達さには非常な修練を要するように思われる。が主体=自我(これがデカルトのコギトかどうかはまだ明確な判断を避けたいが最近の思想の言説を耳に挟むところでは可能性はあるようだ)は、己と他者・社会との関係からたえずこの訓練を要求されるしされるべきである)。或いはまた、この(汝~すべしの)要請・働きかけを受けても、これを処理すべきエクリチュールの位相を自我が踏み外し、我田引水で誤った解釈(縫合・編み込み)を施すためとも言えるかも知れない。(これがデリダのいう行方不明に該当するかどうかわからないが)、いずれにしてもそのような幾つかの理由で、出会い損ないが生じうる。(それが自我に内在し沈殿するか、あるいは底の欠損を通じて外へ放擲されるか、もし底の横滑り(ズレ)がありうるならそこから洩れると理解すべきかどうかは、未だ判断を保留)。

ところで、この待機する主体=自我への要請が、ハイデガーのいうとされる現存在(特異点)、日常の自我からより能動的主体となって(我欲す→フォネーとして)転換される際、この現存在は、「ハイデガーによれば二重構造を帯びているとされていたのに、ラカン派によってはこの二義性が完全に排除された」、と東氏の註釈にあるが、もしラカン派がこの二義性を破棄したとすれば(ラカンらしいといえるのかも知れないが)非常に残念なことだ。この二義性は確実だと思われる。二つの様態を事実帯びるから。「性(生殖)である欠損」としてと、打算的あるいは知的(ことによれば)人格的!、な当体として機能もしうるあの「盲点=基点」として。ともに違ったニュアンスとフェーズで、それぞれ他者性を要求する(※相互に逆側の様態を「帯びる」、という面も当然含めるが。おそらく実体としてはそうなるのだろう)。

もし、この否定神学系列の思考を私が自分の表現・イマジネーションのバックボーンとして(けしてこのような、哲学的な表現・言葉遣いの位相のままではなく)形成する場合には、否定神学のこの誤っているだろう側面を、捉え直す必要がある。

もうひとつ、修正しなければならない点。つまり東氏が指摘しているラカン派・否定神学が「思考不可能なものを単数化」してしまう、という点。これは、「単数」化――この処理は、ラカン自身かジジェクかといったことはわからないが――ではなく、「一構造」化=共通の存在仕様化、すべきである。そこにて<複数の>「思考不可能なもの」が生ずるととらえるべきと私的には考える。

さいごに、そもそも存在論的-郵便的を読んだのも、時代の先端思想・先端的潮流「だからそれに則さなければならない」と考えて、というわけではなく、むしろ自分の表現素材に時代の潮流からある意味で根本的修正を迫られる点があるか、もしくは馬鹿にされ一笑に付されるか、という必要性からしていた読書であることと、自分としては表現のフェーズを思弁ではなくイマジネーションの展開世界にやはり置きたいため、基礎的素養のない哲学的な表現位相でのやりとりは正直を言って避けたい、ということから、この思考の次元では直接ひととのやりとりはせず、私の勝手なつぶやきとして処理していただけるよう(笑)お願い致します。

最後になるが、非常に多面的示唆にみちた、綿密なすぐれた本だったゆえに自分にも何とか読み進められたことと、TWITTERでお世話になった方々に感謝の意を表したい。

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補記(twitterから転記、2010/07/05)

無意識と意識(自覚的自我)のより良質な的を得た(脱線の少ない;実りある)連携プレーが人間としても時代の要請としても求められる。無意識の示唆する処をどうよりエゴイスティクでなく再編しうるか。その方法論として有効な思想(or態度)という意味づけ。解釈学と否定関係にあるのは疑問の余地。

解釈学は、自分たちが一度決めた解釈だけでなく、後どんなに色々な解釈の余地があるか。それをできるかぎり洗いざらい探求・提示して、社会にとってより有益(非-選民的)な解釈を公開・選択することが求められるのかも。解釈を施さず手つかずのままにする方法とは別の仕方での探求。両方アリでは

無意識の語る処を意識へ返す、とき、エゴイスティックな再編(意味理解)から、次第に人格的再編へと進化する、という事実がある。=成長。この点、教育の役割もやはり大きい。

社会にとってより有益(非-選民的)、自己本位(エゴイスティック)でないetcetc...これらの意味するところとはいったいなんなのか。。共同体理念の具現と自己の確立の両立(内なる平和と外なる平和)

共同体(民族・宗教・国家・階級)エゴも、個人のエゴも、無意識の意識化の失敗(行方不明)に関しては同じ構造。

※このtwitterアカウントは削除されています


その2-音楽論を兼ねる。

「存在論的、郵便的」(東浩紀氏:著)を読んでいて時折ふと想い出す子供の頃よくやったゲームがある。

伝言ゲームだ。その例。

「玉座の前には、鎖につながれたジャックが、両側を兵隊にはさまれて立っていました。王さまのそばには白うさぎがいましたが、その片手にはトランペット、もう一方の手には羊皮紙の巻物がにぎられていました。」

不思議の国のアリス L・キャロル/訳:脇明子 


かりにこのような伝言を題目とすると、出題者からこの文章を耳に囁かれ、参加者の最初の人間から順繰りに囁きづたいでアンカーまで、まったく一言も間違い無しに送り届けられると正解、というゲームだ。この題目に、少しでも主観を交えて、「ジャック」を「ジョーカー」と伝えたり、「白うさぎ」を「三月うさぎ」としたり、「もう一方の手には…ええっと、何の巻物だっけ。」などと言い淀んだりしてはいけないのである。とにかく囁かれた通りに間違い無く伝え切ること。これを想い出す。

このゲームに於いては意識=自我をいわば空じて、判断や解釈・批判・選択なしに、もっといえば理解すら介在無しで、語り継ぐことだけが尊重されなければならない。つまり「(存在論的、郵便的p317)あらゆる意識的注意を排したその純粋な聴取状態」を持続させなければならないわけで、フロイトの言う『平等に漂う注意』(※精神分析治療中の医師が留意すること、専ら患者の話を聞くことすなわち精神分析医の無意識が自分に語られる患者の無意識の派生物から患者の諸々の思いつきを決定している無意識を再構成すること、をなすための処方箋、としての)を持続しなければならない。これを要求されることに於いて、郵便的方法・態度と伝言ゲームとは酷似していると思われるのだ。

さてここで重要なのは、どの伝達者(ゲーム参加者)の意識によっても「シニフィアンとして同定されず、直接に他方のエクリチュールと呼応しあう可能性(p318)」があるとされる点である。すなわち無意識同士の直接の連繋(転移)、もしくはエクリチュールそのもののじかな分有・交換、「中継可能性(同p319)=郵便空間の開け」ということである。各伝達者の固有のシニフィアン(たとえばアリスを知っていれば、白ウサギより三月ウサギのほうが印象的であるとか、裁判というものを知っていれば、玉座でなく被告席ではないのか?等といった意識の潜勢)が何らか働くはずであるが、それを無効化し、伝達内容に流れ込まないように留意するわけである。もしかりに、出題される伝言内容がある程度、またはかなりの程度、パフォーマティヴな、意味ありげの挑発的内容であっても、私たち伝達者はそれがコンスタティヴかパフォーマティヴかの判断手前なまま、伝言していかなければならない、という訳だ。

しかし同書では同時に、フロイトの仕事に関し、これのみすなわち郵便的処理・無意識の配達(運び)のみではなく、それ以上のことも行ったことを述べている、すなわち症例を「学問的な出版の対象」にする場合には、「補助手段すなわち媒介を必要とした」、とも言っているのだ。つまり「無意識的なものを意識=知(wissen)の統御下に置くことを試み(p317)」たと。

何故こんな事を気にとめるかというと、「存在論的、郵便的」を読んでここにて力説されていることを少しずつ理解するにつれ、ますますわからなくなる点があるからである。それはつまり、
理解・解釈をすることなく手つかずのまま運ぶ、ことの「社会的」応用、また他との連携である。われわれは現実の存在として殆どつねに「状況づけられて」いる――たとえば選挙でよりよい共同体形成をしてくれそうな政党に投票しなければならないが、その際こころの中で思い描く通りの政党が現実には存在していない。がよりましだと判断される党に一票投じなければならない、その際どんな点を最優先に考えまたどんな点を危険視しておくべきかの判断をどうするか、など。或いは、ある女性から結婚を迫られているが結婚より優先すべき仕事や経済状態の問題などがあり出来ない、どう説得したらこれまで育んできた愛情にもて納得してもらえると考えるかとか。或いはまた自分はナチにより特権的に自由を許されている楽団員であるが、他の楽団員に積極的な勧誘を押しすすめたり密告などを行っているナチ党員でもある楽団員と、どのように接していくことが、奏でる音楽に恥じない人間的行為となりうるか自問する、等々etcetc..――が、こうした場合、それぞれ“郵便的”な態度で臨むことによって、社会的存在として、ときに政治的存在として、この自己が自己に対し他者に対し社会に対し世界に対し、(との間で、でもよいが)「具体的にどうする」ことができるのか。どういう態度を現実的にはとることになるのか。がよくわからない点だ。郵便的、は「状況づけられた」存在としてある私たちにどう振る舞えるようにしてくれるのか。

状況づけられている、とは何か。まったき自由、まったき主体性、まったき手つかずにして混じり気ない行為、などが立場上予め奪われている、ということである。覆しがたい社会的地位・共同体の中で与えられる選択肢が限られている、先行きの政局・社会的経済的動きが読みがたい、等から、まったき○○に触れることが許されていない・視界が100%明かされていない、ということである。その条件のなかから精一杯の態度と行為を示さなければならない、というとき、郵便的の持つ「判断・決断・批判・理解(自我の作用:世界の再構成)の介在なしに行為するということが可能なのだろうか。臨床医フロイトでさえ、上述のように、それまでの積み重ねを再構成する(=学的対象にする)場合には、補助手段すなわち媒介を必要とした、つまり無意識的なものを意識=知(wissen)の統御下に置くこと、を要した訳である。するとやはり、エクリチュールそのものに直に出会い、エクリチュールの他者性とじかに交換することを積み重ねても、それらの貴重な経験を状況づけられた我の社会的行為・人生への意味ある行為へと再編し参与して行く際には、自我のより適確な判断を要求せざるを得ないのである。であれば郵便的態度は、その注意深さにより自身の純粋度・厳密度を脅かしから逸らすよう努力させられながらも、これまたより洗練された解釈学的施行(決行)を待たなければならない、そしてよりよい連携プレーを希求されざるを得ないということになりはしないだろうか。するとよりよい連携とは何か、ということになり、そのための軸・座標を提示されなければならない。その際、郵便的態度は、状況づけられている意識=自我の、実り多い判断の為に、まさしく状況づけられた生活・人生の一刻一刻に於いてどう担保・応用されるべきであり、逆にまた意識=自我による理解・解釈は、どう郵便的に蓄積された財産を再編することが求められるのだろうか。

まず郵便的態度の日常への応用であるが、日常が状況づけられているとはいえ、状況づけられている条件を、われわれが予め意識の上で押殺しているのであってはならない。むしろこれを――われわれは逐一精神分析を受けるわけにも行かないので、自分自身の分身を精神分析家に置き換えるか、身の回りの他者に謂わばこの役割を委ねるかを以て、予めわれわれを押殺しているものを――越える。そのためにも、一体今自分(達)は“何によって状況づけられているのかを、社会・共同体を「(露わにされない仕組みごと)理解」することで知り”、――仮に想像的次元のみででも――自分の立場を相対化;準-外在化しておくべきである。このことによって今の自分を状況づけてしまっているものは何か、その正体、できるかぎりでの全容とそのシステムを、把握しなおすべきである。私たちはむしろ見えないものによってこそ条件づけられ・状況づけられている、ということが、郵便的態度によって学ぶべき点なのであってみればこそ、その(あったかもしれない)みえないものをみえるようにするのがわれわれにとってより求められる哲学性であるである。

次に、では解釈学もしくは現象学自身によって、この郵便的態度(の意図するもの)を学習・吸収することができないかの問題が残る(このことに成功した場合、解釈学もしくは現象学そのものの本来的質を向上させることにつながるのかも知れない)。この本(デリダ-東氏)によると、現象学や解釈学的多義性は、郵便的とは相いれない立場であるとして、もしくは過去の不本意な思考的態度であり乗り越えられるべき対象として、理論づけられているように読める(幾つかデリダによって、散種との差異を以てダメだしされている所の例を以下に挙げる)。

――デリダが散種についてこだわっていること――

  1. 散種の観念は実体化できない(p22、ハーバーマスのいうデリダ批判に存する誤解、ユダヤ神秘主義へのなぞらえと、実体化した把握への反論)

  2. 散種は決して記号の強固な(コンテクストを超えた)同一性を保証するものではなく、その同一性を脅かす契機としてのみ機能する(p22)

  3. (記号の多義性は、その「背後」あるいは「深層」が与えるとイメージすることができるが、)散種は、任意のコンテクストからの切断可能性=引用可能性から与えられる。したがってそれは定義上、記号を含む背後や深層によっては保証されない。(散種の効果は、)ひとつの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクストのあいだを移動することにより、つねに事後的に見いだされる(というふうに知られる)。エクリチュールの単数性こそが記号に宿る散種的複数性に対し論理的に先行している(ので、まず最初に散種の舞台があり、ついでそれが転倒されて記号の単数性が生じたという線形的な/物象化論的な順序を考えることはできない)。(p23-24)

  4. 構造主義的意識またはコンテクストをはじめにすえる多義性の思考では、まず最初にコンテクストあるいは「構造」があり、それがひとつの記号(エクリチュール)の多義性を重層的に規定している。つまりこの思考のもとでは必然的に、多義性の探究は時間的な遡行、かつてあった豊かさ(過去)への回帰としてイメージされる。そのイメージはさらに裏返され、多義性が完全に明らかになるある未来の時点が、それがいくら遠かろうとも理念的に想定されることになる。過去-現在-未来は多義性の思考においては一直線に配置され(※そればかりではなくもっと柔軟で可変的で錯綜した多義性の思考もあるはずだとは思うが、非常に高度にダイナミックな思考力を要求されることではある←Rei注)、さらに過去と未来は繋がれて円環をなす[=デリダが捉える弁証法*拠:ヘーゲル]が、散種の思考の時間性はこれとは別で、散種ははじめにあったものではなく、エクリチュールから事後的に見いだされたもの(である)。それはエクリチュールが移動したあとには遡行的に発見されるが、エクリチュールの移動の前には何ものでもない。(p24-25)

さてところで、たとえば(p19)「何の違いがある?What's the difference?」の解釈。これをとって考えてみよう。

素朴な質問文(コンスタティヴ)としての理解。もしくは意味の違いを見いだすことを促している(パフォーマティヴ1)、という理解か、逆に見いだすべきでない(禁止・抑圧、パフォーマティヴ2)と理解するかは、郵便的態度によって、エクリチュールにただひとつの乱暴なシニフィアンを挿入しない、を教訓とし、出来るだけ多くの意味を潜在的に担保させたまま非介入でいる(全ての意味理解への態度保留でいる)か、もしくは逆にあらゆる解釈を施し(可能な全てのシニフィアンを挿入してみることで全ての意味理解を試みるが過去→現在の曖昧さと現在→未来への猶予はとっておく。みずからも他者も代表的にどれかには属さ(せ)ないで猶予している。このふたつの態度、両方が可能である。この地平はイデオロギーの問題を越えた所に設置することが出来るはずである。

ただ、デリダ自身は散種の多義性化を嫌っている。言い換えれば、ある地点で解釈学的多義性と「合流」させられることを極力回避し、あくまで距離をとっている。(p26=従来あった多義性の抑圧でなくむしろ多義性の捏造;散種の多義性化のほうが問題であるとしている点)。

ただ、私としては郵便的態度が解釈学的多義性と連携することで――厳密には多義性(パロールの多様性)が散種;二重所属性(エクリチュールの多様性)の地点を記憶しておくこと・少なくとも再編可能性を認めることで――人間にとってよりよい実現に役立つこと、畢竟不透明な存在、状況づけられた存在でありふたたび状況に帰らざるをえない存在であるわれわれが、そのなかで精一杯より自由な選択を得るために「考えること」への哲学の貢献度をあげ、より上質にすることに貢献することのほうが、散種そのものの保障を以てして他の遡行を回避し知の再編への連携を阻むこと(あくまで他の潮流の方法との性質の違いを担保すること)よりはるかに重要と捉えたい。

実際、デリダの批判するこの部分、「(p26、H=G.ガダマーらへの批判)問題にすべきは、(多様性の抑圧以上に)もともとなかった多様性が事後的にあったかのように見なされてしまう現象=散種の多義性化~形而上学的転倒は多様性を抑圧するのでなく、捏造する。~その時彼らが出会っているのは、実は自らの鏡像、彼ら自身がテクストに投射した予期に過ぎない~そこで出会うことになるのはつねに他者ではなく自分自身(予期)である」とある点だが、これに関しては、ヘーゲルの閉じられる弁証法などとは違い、(一様でひとつの解釈に決めつけられずに、またすべてが予め可視化・明証化されていた――たとえばあの当時のファシズムはいかにもファシズムの顔をしてやってきたかのような結果論的倒錯を含む――というにも等しい物象化的-逆行的認識にならずに、常にあの生まで不可視的な時間経過への再想像を担保しながらも、なおかつ危険や誤謬への陥穽を避けうる、最善を尽くす認識論的再編を以て開かれてさえあれば[※つまりだからこれには細心の注意が必要である])かならずしも罪ばかりある認識・一掃されるべき思想潮流とは思われない。

われわれ人間の認識――状況に帰るにあたり、潜在する多様なシニフィアンの解釈学的受肉作用を通して最終的には意識=自我に返さざるを得ない――が出会っているのは、デリダが言うように確かに「実は自らの鏡像、彼ら自身がテクストに投射した予期に過ぎない」(解釈学的循環としてデリダが解釈学を敬遠する論拠;対H=G・ガダマーp26)、のではあっても、それは一端はありうることとして享受し、その上で鏡像と他者リアリティとをたえず分岐更新させ、(未来に向かって=時間に即して)開かれた再編をする作業を強いることとする。この再編の成功可能性を予め否認しておくことは、結局その(自らの方法論の)厳密度・純粋度を保つために(人生や社会にとって)役立つ[=理解され解釈され人生へと再編される]ものに還元されないままでいることのほうを選びこれを欲している立場のように読める。

したがって、哲学にそこまでの宙に浮いた純粋度をばかり求めない(哲学のエクリチュールにおけるシニフィアンの抵触無さ・また認識様態に於ける転倒無さ、つまり哲学=態度による、哲学=態度のための、哲学=態度のままの宙づりをあえて第一義的に求めない)私にとっては、デリダのこだわる「散種と多義性の差別化」の問題に関しては、解釈学が自己の解釈をよりエクリチュールのじかな交換の地平に、非-選民的(これは同時にエゴイスティクでない、ということでもある)な方向性に、近づけるためになるのならよいが、逆に(よりよき)解釈学への応用を、散種そのものの処女性を担保するために、阻む、という意味であってみれば、残念であると、さしあたっては判断しておきたい。それはいわば、多様な人物や楽団により幾世紀にもわたって演奏されれば名曲として多くの人間に理解されそれぞれの人生の視点から共感されうるであろう楽曲が、演奏されない[=そのつど一定のシニフィアンによって方向付けされない]、その価値が社会に還元されないようなものである(ナチに逆利用される可能性も予め無いが、ひとびとに感動を与え、演奏の歴史を重ねるたび、ねがわくばそのメッセージの「より深い感動」へと昇華されていく、こともない)、と理解するから。(もちろん、これはけしてナチに利用されるべき音楽ではない、といった共理解・音楽家の真意への深い理解を得るべくよい演奏を重ねることが必要だが。またそういうメッセージにあふれた音楽をこそ奏でることが求められるが。)

否!郵便的とは、演奏されないことではけしてない。「占有もなく転倒もない演奏をされる」ということである、と反論されるかもしれない(伝言ゲームのように、理解されないままor(極力)感情移入されないまま、ひたすら演奏される演奏)。と今度は、こういう問いが生じる。

人間は、あるものには関心を向けず、あるものには向ける、という志向性を帯びている(状況づけられている)。精神分析でさえ、(治療のために有効な)何かには着目する――患者自身か、分析家かはよく知らないが――訳である。すると、私たちが通常世界の中にあまたある言葉や行為、また作品のうちのあるものには関心を寄せないのに、別のある言葉や行為、作品には関心が向く(自発性の秩序の根拠)、というのは何が決定していることなのか。そのシニフィアンの正体とはなにか。自発性の秩序の根拠には、ある幽かな調和が――予定調和とはあえて言わないまでも――前提となるはずである。そしてこれらの関係は阿吽の呼吸であり壊れやすいが、自発性の秩序のさなかにその前提となる輪郭の曖昧な調和を、つまり正体を、確認することは全く不可能ではない。し、確認してもその意味の純粋性と効果は変わらない、(認識論的「転倒」が起こりうる可変的位相に身を置いて振り返るのであるからその時点において質は変わるが)といったことがあり得る、というのが私見である

もし、シニフィアンの正体,といったものさえ無いのだと言うとなると、意味が有るのか無いのかもわからない、どう関係するのかしないのかもわからない無数のエクリチュール、否エクリチュールにすらならぬコンテクストの断片だらけの世界が、ただわれわれの周りに漂っている、といった具合になってしまう。――(エクリチュールの、コンテクストからの)引用(=切断)可能性、とデリダ自身もいうが、どこかから○○を引用しようとする意識の志向性、引用を志向するものとしてのシニフィアンを、理解しようとせぬまま行為をなすことのすでに手前で、郵便的でない態度、意識の志向性によって脅かされている状態、に染まっていないとは言えぬ事にならないのだろうか(郵便的態度「=」自我的思考の陥穽に填らない、という保障的図式にはならぬこと、これはある意味でデリダ自身が積極的に認めてもけしておかしくはない点だと私には思えるが)。また、そうだとすると、そうした手つかずさ;理解せぬまま書くこと(=シューベルト的――これは共感・同感しない、という意味とはおよそ違う。むしろその懐の深さを以てこそ可能な、フロイト-デリダ云うところの「平等に漂う注意」である)と、[限定されない]意味を(〖理解〗)しながら書くこと(=シューマン的*)との間に、それほどの担保されるべき決定的<価値>の(繰り返すが認識論的<質>の、ではない)乖離があるのだろうか(※その際、もっとも力点を置きたいのは、「精神分析の臨床という舞台」以外から判断されるべき視点・世界はまる切りないのか、理念はその舞台にだけ存するのか。という点だ)。

*…シューマンというひとの音楽は、意識と無意識の間、潜在意識の高度に発達したひとの音楽であると言っていい。彼の内声部の錯綜はここにひとつの鍵がある。彼にとっての意味の経験とともに、その経験が二重化される――リアリティと、準リアリティ――そこを語っているし、その場から語っているのだ。

※ ところでその際、準リアリティ(潜在的リアリティ)とは何故生じるのだろうか。それはひとつには、“ 想像と現実というものは、それ自身、もとより境界がじつに曖昧 ”なものであり、また時間的にも倒錯的(継起的→転倒的→再-継起的)・可変的である為で、したがってその処理が錯綜する為である(暗示性を生き生きと担保した解釈の多義性余地)。シューマンとは夢想のひととばかり思われる節があるが(たしかにそういう面もあるが。ただしその想像力というものの質が問題である。彼の場合それは往々にして誠実さであった)、同時にリアリティの尊重・他者(性)の尊重意識の強い性質でもあった。他者=自分と対峙する側面をもつもの=完全に同化しえないもの=「差異」のリアリティを尊重し、これを外部に保持する意識、独善的解釈を回避しようとする意識の強い人間でもあったように思う(=彼の批評精神)。ところが感受性=共感力と想像力の豊かさ(同化への憧憬;飛翔と焦燥)、またそれらの振り幅のすごさが、(或面ではそれを助けもするが、同時に)それを阻害する要素ともなり、想像(思いやり・誠実からの、また知性からの想像)世界と、ほんとうの現実(!?)の境界で格闘し錯綜することになる。そのうち、他者性の息吹――曖昧さを含めた素朴で時間経過的な息吹(=意味世界)――そのものを喪失し、窒息・停滞させ、破綻しがちになる、という、非常に精神的労苦の多い作業を伴う魂の質なのである。これはシューマン論であるが、したがって哲学的な意味と位相に還元すれば、「真に良心的な」解釈学的作業とは、たしかに他者(他文化;差異と同一性の交錯)への想像力をゆたかにしそれを誠実に行おうとする程危険も伴う作業であると、たしかにいえる。その遂行のためには延々たる猶予性に耐久する合理的精神の完遂が必要とされる。この点で、解釈学は、最先端で良質の現象学研究に裏付けられるとよいのではないかと思う

それとまた、上記以上に大きい問題として、後者(己のシニフィアンを「理解」しつつ世界に臨む態度)のがわは**全面的に誤謬であり、意識のありようとして存在する意味がまったく無いものであって、逆にともすると前者が陥るかも知れぬ危険を補完するという効能も、まる切りありえないのだろうか?

**…この認識の前提には、(認識論的)「転倒」<がために>、解釈学的誤謬が犯されるのだ、というデリダの認識がある。が、(認識論的転倒自体は事実、起こるとして)、ほんとうに<それ=転倒が>、解釈学的<誤謬の根拠>なのだろうか、原因はむしろ<他所に>なかったのかということは問われなければならないだろう。
したがってこの場合の他所とは、解釈学的態度にとっても郵便的態度にとってももっとその枠の外、ということがありうるのかまでを考える、ということである。
また認識論的「転倒」と(解釈学的)誤謬の因果関係を認める場合、今のところの私見では、これを問題にするとすれば純粋に認識論の位相それ自身の問題というよりむしろ、上記のシューマンについての枠内でも述べたように、誠実な批判精神による、パラドキシカルな認識論上の他者性(他者の現実性)についての病と、(左と同じことでもあるが)時間性の錯綜の病と化しうる点にある、と思う。とはいえ、それだからといって(その内包する危険性ゆえに)解釈学的認識論・方法論は<一掃されるべき>なのだろうか。それは成功すれば他者性の自覚化;意識=自我の成長;人格の形成という啓蒙作用の、じつに大きなものである。この成功の鍵は、ひとえに保証のない不安に耐え、また、未来とはほんらい(自己自身の努力によって)埋まらない虚穴であること・つねに(状況・歴史・時間の可変性に伴い)裏切られうること、これをむしろ当然の前提とさえし、焦燥感のない、あくなき探究、を持することだ。じっくりと、時間をかける勤勉を以て自・他文化の息づかいを担保――たんに自・他文化を引き離すのでなく――するということ。(バッハ的合理性。しかもそれはベートーヴェン的な意味で状況に対する明敏さ・受動性の引受けと能動的再編というタフな様態を帯びるかも知れない)

この問題に関して思いつくのは、ひとつには芸術の分野であるが、少なくとも芸術作品や芸術家に於いては両者のパターンがあるようにみえるし、芸術の中で分けても暗示性の強い音楽の分野でさえ、その混在の妙こそが、むしろ絶妙なその共犯関係こそが、すばらしい作品も多い。逆に絵画など対象性のつよい分野でも、無意識への働きかけ・暗示性にすぐれた作品などもあり、もともと「表現」という座標においては、両者の線引きがじつに困難である場合が多い。(むしろ両者の臨界を侵犯するものこそが表現行為であると言えるかも知れない。対象性のつよい表現媒体か、隠喩性の強い表現媒体か、という問題もあるが、同時にその特質の乗り越えという不可思議な様相もまたある。)この分野では、その芸術作品・芸術家の質によっては意識世界が無意識世界を補っていることで生じる価値も多いし、無意識世界の純度は、意識化によってその純度を下げられる、ということは生じない、という事象がありうるし、それこそが芸術家の腕=良心の見せ所である。

もうひとつ、たとえば「教育」という座標においては、丸暗記型の詰め込み式でない質のよいそれの実践のためには後者;(己が無意識に即している立場や法則への)「自覚化」(意識世界への再編)の作業を促す立場が尊重されざるを得ないとも考える。もちろん、無意識の世界をもっと尊重すべき面も教育の中にはあり、たとえばIQなどの測定も、もっと無意識世界にも光を当てたほうがよいのでは、と思う立場に私個人としては居るが。したがってこの分野でも両方の手腕が必要なのであることを痛感する。がいずれにしても両者の連携プレーが必須な分野であると考える。


さて他方、現象学についても少し考えると、(p46、フッサールのくだり)現象学が、みずからに宿っているその民族中心主義を、いわゆる文化相対主義――地上のあらゆる文化を平等に差異化・相対化しているようにみえて、実はこの中にヨーロッパという「民族中心主義そのものの乗り越え」を、入れていなかった。それにより、歴史至上主義(ヨーロッパの歴史の特権化)に陥った。別な観点から言えば、実際には存るヨーロッパの中のみえない他者(他文化)への視線を欠いていた(つまりは言い換えれば、他民族の文化の中のみえないヨーロッパ的なもの[への志向性]をも同時に無視した!これはこの場合のフッサールだけではなくレヴィ=ストロース構造主義にも当てはまると私は考えるが)――によってはけして乗り越えられなかった、という問題をとってみても、郵便的態度を吸収することで、みずからの学によって乗り越えることも可能であると見る。

デリダは、「(p27、多少意訳)解釈学者・研究者たちは、実際にはあるエクリチュール=表層だけを分有している。しかしその背後に何らかの多義性を見出そうとしたとき(転倒)、彼らは解釈学的循環を通じ、そのエクリチュールの意味=深層を共有する共同体へと組織されることになるだろう。『そして他者は消える。』」と断定するが、消さない態度―共同体が閉じられない態度―というのが解釈学や現象学に於いてもありうるのではないだろうか(繰り返すが非常に高度なダイナミズムを伴う懐の深い思考が要求される)。逆に言うと先述したように郵便的態度のがわにも(「つねにすでに」その地平が意識=自我のシニフィアンによってたえず脅かされているとみる限り、或いはまた条件法的位相の挿入をもし過てば、また郵便的態度が理想の前提にしている分野を狭く捉えすぎれば)閉じられる態度がありえない、という保障もない。

解釈学や現象学が、(郵便的態度から学び)よりよいものとなるためには「予期(自分自身・他者)」を多元化・可変化する努力、ひとつ選んだことにより逆に失われていくもの・(今形勢しつつあるものから)洩れていく別のものたち=すでにその手前にあったであろう他の分身たち、を追うことを忘れず・そのもといに還ることをあきらめず、できるかぎり(既成概念や、今追い・今属しているシニフィアンから=状況から、)空じられることに応じ、同時にたえず(未来に向かって)開かれているべきである、と教訓を得られると理解できる。

郵便的態度から学ぶべきは、たとえば「何の違いがある?(What's the difference?)」で、かりに実際にはパフォーマティヴなコンテクストであろうと、むしろコンスタティヴに読むことを以て乗り越える、(ユーモア;相手のパフォーマティヴの勢力を逆手にとる形で、天然ボケもしくは疑似天然ボケの態度で状況の乗り越えを果たす)ことなどが可能である。つまり[事実・実態、また相手の意図など真相はどうであろうと]***あえてコンスタティヴ・パフォーマティヴかは理解保留とする空相の次元にまで遡ることである。パフォーマティヴな潜勢に対しパフォーマティヴに応酬する、という必要はないわけであるから。

***これは、ある意味でロベルト・シューマン的な意味に於ける(狂気にも通じうる危うさと繊細さを伴う)フモール理解ともなるであろう。かれのたえず転調可能性を孕んだ音楽とフモールは、ひとつの粗暴な、もしく安易なシニフィアンに彼のエクリチュールを限定させない事によってこそ生ずる。この多義性へと開かれた態度の有効さは、健全なる非常な忍耐力をともなって現象学や解釈学にも応用されるべきである。(*付記20110901)

つまり総じて郵便的とは、何かに相対する思想的潮流だというよりは、むしろひとつの空じられた態度なのであって、――そもそも現象学も、もとはといえばそうした態度のはずであるが――その態度不履行・遡行可能性の不十全が起こした結果が諸々あると。このこと(エポケーを完全に成就しえなかった教訓)は、では郵便的学「派」が、その「(社会的・政治的位相での)実践において」郵便的態度(運び)を不十分にしか行いえないこともありうるのを、示唆しているとはいえないのだろうか。

あるいはまたこうも言っておこう。この点の厳密度を何より優先するあまりの、別なものへの陥穽、たとえば無意識至上主義(この思想・思想的態度がより大衆化した次元において引き起こされ易いと危惧される点の一つ)=無意識の世界の純粋度を意識の介入や転倒によって阻害されることのないよう、との注意が、結局われわれの無意識世界を解放したまま生きる――たとえばその原初たる性欲を全面的に解放するとか、まま解放した表現を(より優越的に)文化として推奨する:お墨付きを与える――という流れを誘発していく、など。そのことのほうにより注意を向けるべきとも、捉えたい(状況論的位相)。

郵便的か解釈学的態度か現象学的態度か、ということへのこだわりよりもっと尊重されるべき事。それは、より開かれた共同体利益へと思想が還元されること、非-選民的=脱エゴイスティクな基軸(orその方向へと向かうこと)を、思想間で共有しようとし、この姿勢を確認することの重要性、そのものではなかろうか。

意識とは違う「無意識独特のシステム」を、理解し、意味の世界にわかるように組み替えるのは、意識である(意識化)。その意識化・自覚化・相対化(外へ出ること)によってひとはある意味で救済されていく。これは上記のようにフロイト自身がやってきたことでもあるのであって(=編纂)、彼は意味の保留・運びだけをして来た訳ではない。繰り返すが患者に対する臨床適応はそうだったとしても、その問題を理解しようとしてやはり意味とそれを取り巻くシステムへと遡行し、研究成果としてきたのである。臨床の再編・解釈が要求されたのである。解釈学、また現象学は、どう郵便的に蓄積されうる財産を実人生へと再編することが求められるのか、その基軸を示すことが同時に言及・要求されてくる。

無意識と意識(自覚的自我)のより良質な的を得た(実りある)連携プレーが人間としても時代の要請としても求められる。無意識の示唆する処をどうよりよく・行方不明の少ない実りあるものに再編=意味理解しうるか。その再編の基軸を、“思想潮流を超えて”問い、確立していくことの重要性を哲学者・思想家たちには求めたい。 無意識の語る処を意識へ返す、とき、エゴイスティックな再編(意味理解)から、次第に人格的再編へと進化する、という事実がある。=成長。この点、再度言うが教育の役割もやはり大きく、深く絡むであろう。「条件法的位相(p57)をどう挿入するか」、かつてあったかも知れない、また新しい・来るべき出来事のために。まさしくそのことが、思想潮流を超えて問われているのではないか。

より開かれた共同体のため、よりエゴイスティクでなく / 非-選民的、であらん というスタンスへの合意であってほしい。昨今の政治状況と同じく、この理念から超潮派で取り組んで欲しいものだ。

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