心理学ガール #11

十分と必要

 僕は心理学部の大学4年生。ここはゼミ棟の空き教室。今日も僕はハルちゃんと催眠について話をしている。

ハル「先輩。以前、心理学的にいえば現時点で催眠状態は存在しないという話をしましたけど、催眠をやっている人の集まりでは、催眠状態やトランス状態は楽しいものだと、みんなが言っていました。“ない”はずのものを楽しんでいるってどういうことなんですか?」

僕「心理学的な催眠状態は、催眠という現象の前提又は原因となるものとしての構成概念だという話をしたね。そして、その意味での催眠状態はないという話だった。それで、催眠をやっている人達……”催眠愛好家”とでも呼ぼうか。催眠愛好家がいう催眠状態、トランス状態、あるいは変性意識状態は、学問的に定義されたものではないけど、催眠の実践を通じて、それぞれが主観的に感じている、何らかの状態があるんだと思う。心理学徒としては、心理学的な催眠状態と、催眠の実践において感じられる、いわゆる“催眠状態”とをきちんと区別しなくてはいけないと思う。その上で、いわゆる“催眠状態”、“トランス状態”や“変性意識状態”について、それが何であろうかを考えてみることは、大事なんじゃないかな」

ハル「変性意談状態も聞きますね。催眠愛好家がいう催眠状態とトランス状態と変性意識状態は、それぞれどう違うんですか?」

僕「それは、催眠愛好家に聞いてみないとわからないけど……一般的にいえば、トランス状態が一番広い意味で、意識が変容した状態を指していると思う。変性意識状態は、トランス状態とほぼ同じ意味だけど、もう少し限定的に使用されているんじゃないかな。それは多分、変性意識状態について、日本語の研究論文があるからだと思う。催眠状態は、トランス状態や変性意識状態の中の一部分を指しているだろうけど、正直、正確には使い分けられていないと思う。どれも催眠のときに感じられる主観的な感覚のことを指していると思うし、また、それが催眠の原因としての催眠状態と混同されていると思う」

ハル「なるほど、催眠状態と言っても、催眠の原因としてのものと、催眠での主観的な感覚のものとがある……。それと、以前も話してくれましたけど、変性意識状態については研究があるんですね。どんな内容が気になります」

僕「齋藤稔正先生が書いた本、『変性意状態(ASC)に関する研究』が詳しい。催眠状態を含めて、変性意識状態について話をするなら、学問的な話でなくても必読書だと思う。僕はこの本を持っていて、読みやすいように個人的にPDF化して保存してある。今、このタブレット端末で読むことができるから、少しこの本の内容について話してみようか」

ハル「はい、ぜひお願いします!」

僕「この本では、催眠や瞑想による主観的感覚としての変性意識状態を操作的に定義している。つまり変性意識状態を測定できるようにしたんだ。これによって、その他の心理尺度や性格特性と変性意識状態のときの傾向とを分析することができるようになった。これは、ある構成概念を心理学的に研究するために大切なことなんだ」

ハル「構成概念については、色々と教えてもらったので、なんとなくわかります」

僕「うん。この本では、変性意識状態について、通常における現実的な意思決定のプロセスの機能が低減しているものとして検討しているのがおもしろい。つまり、通常意識においての行動は、イメージや記憶が想起されて、それに対して実行するべきかの検討がなされ、最終的に意思決定がなされて行動に移されるとしている。そうすると、変性意識状態は、そういった検討がなされずに行動が起きてしまう状態といえる。結局、齋藤先生は、変性意識状態を、『変性意識状態とは、人為的、自発的とを問わず心理的・生理的・薬物的あるいはその他の手段・方法によって生起した状態であって、正常状態にいる時に比較して、心理的機能や主観的経験における著しい異常性や変容を特徴とし、それを体験者自身が主観的に(もしくは他の客観的な観察者によって) 認知可能な意識状態である。』と定義している。変性意識状態という構成概念をある程度包括的に作れていると思う。ただ注意しなくてはいけないのは、構成概念の話のときにしたように、この定義が全ての変性意識状態を網羅している訳ではないといこと。必ず漏れているものはある」

ハル「今の説明を聞いただけでも、おもしろそうな研究だなっておもいました。そして、その方法なら催眠状態も研究できそうに思いました」

僕「主観的な感覚としての催眠状態は研究できるかもしれないね。だけど、それはあくまで主観的な話であって、催眠理論でいう催眠の原因としての催眠状態は難しいんじゃないかな。この本では、変性意識状態と催眠についても検討しているから、手に入れて読んでみてと言いたいけど、古本でしか手に入らないから所蔵している大学の図番館とかから借りるか複写依頼するかしかない。PDFにするためにバラバラになった僕の本でよければ貸すけどね」

ハル「ありがとうございます。ちょっと、自分で探してみます!」

僕「変性意識状態の研究を読んで思うのは、主観的な感覚としての変性意識があるために、催眠の原因としての催眠状態もあると思ってしまうんだろうなってこと。他には、催眠状態は変性意識状態に含まれるけど、変性意識状態は必ずしも催眠状態ではないんだけど、イコールと思ってしまうとか。僕も催眠愛好家と催眠について話をしたことがあるけど、ここら辺のことを整理しながら話さないと、会話がこんがらがるんだよね。最後に一つ論文を紹介して今日は帰ろ。」

ハル「はい」

僕「山本和佳先生と門前進先生の論文『変性意識状態における主観的経験の特徴』なんだけど、この論文では、齋藤先生の変性意識状態のテストを使って、催眠暗示の違いを検討している。ざっくりいうと、身体の運動に関する暗示とイメージに関する暗示とリラックスの暗示では、主観的な変性意識状態に違いが見られたということ。具体的には、運動系の暗示では、他に比べて感覚の喪失を感じられたという結果なんだけど、結局、主観的な催眠状態ってのは、暗示による経験から生じている“結果”であって、催眠状態を深くするみたいなものは違うんじゃないかなって思うんだよね。おっと、そろそろ帰らなきゃ。また、今度ゆっくり話そうね」

ハル「わかりました。今日はありがとうございました!」

 ハルちゃんと僕は教室を出た。