心理学ガール #10

冷たく静かに

 僕は心理学部の大学4年生。ここは大学会館2階のいつもの席。今日も僕はハルちゃんと催眠について話をしている。

ハル「わたし、催眠の集まりとかに遊びに行ったりしたから、催眠に詳しい人たちと仲良くなったんです。その人たちの説明だと、やっぱり催眠は、無意識とか潜在意識に直接働き掛ける方法で、そのためには催眠状態や変性意識状態が必要なものだということなんです。心理学的には無意識や催眠状態は”ない”ってことなんですよね」

僕「そうだね。もう少し言えば、あるかないか判断するまでに至らない状況だと思う。”無意識”、”潜在意識”、”催眠状態”、”変性意識状態”はどれも物理的な意味での実体はない。しっかりと構成機念として確立して、その上で操作的に定義されて尺度となり、その尺度が信頼性も妥当性もあれば、”あるもの”として扱えるようになる。現状、そういった研究はないはず……あっ、でも”変性意識状態”については、斎藤稔正先生の『変性意識状態(ASC)に関する研究』で研究されている。この研究をベースにすれば、変性意識状態については、あるものとして議論ができるかもしれないね」

ハル「へぇ、そんな研究があるんですね」

僕「斎藤先生は、確か、催眠研究で有名なヒルガードという心理学者の下で催眠の研究をしていたんじゃなかったかな」

ハル「ヒルガードっていう名前を聞いたことあります……大学院に行きたがっている友人が読んでいた本が『ヒルガードの心理学』でした」

僕「そうそう、心理学入門書で有名な本だね。そのヒルガードさん、実は催眠研究で有名なんだ」

ハル「意外なところで催眠との繋がりを発見してしまいました」

僕「僕が催眠に興味を持ったのは、ブリーフセラピーとか家族療法という心理療法を学んでいて、それらの心理療法のお手本の一つとなったのが、催眠療法をやっていた精神科医のエリクソンという人だったからなんだ」

ハル「エリクソンの名前も聞いたことがあります! アイデンティティを考えた人ですよね!」

僕「いや、それは別のエリクソン。精神科医のエリクソンという別の人がいるんだ。その人の催眠は、それまでの催眠と違った考え方や手法だったので、区別するために”エリクソン催眠”とか”現代催眠”と呼ばれている」

ハル「現代催眠は聞いたことあります。催眠の集まりで、現代催眠ができるんだって自慢している人がいました。わたしには違いはよくわかりませんでしたけど」

僕「学問的な催眠の話とは別に、臨床的な催眠の話があって、エリクソンの催眠の考え方とか手法は、心理療法を実践する上で役に立つこともあると思っている。はるちゃんが、臨床心理学の勉強を本格的に始めた頃には、そんな話もしたいね」

ハル「わたしは、臨床心理系のゼミに入って、臨床心理学を勉強したいと思っていますので、そのときはご指導ください」

僕「まあ、僕にできることは限られているけど。楽しみにしておくよ」

ハル「そうだ、催眠をやっている人たちの間で、催眠の悪用についての話があったんです。先輩は、催眠は悪用できると思いますか?」

僕「ここでいう”催眠”とはなんなのか、同じく”悪用”とはなんなのか、言葉の意味がはっきりしないと答えられないな。具体的に、催眠を使ってどんな悪いことが起きるって話されてるの?」

ハル「催眠を掛けて、個人情報を聞き出したりとかするって話です。ここでいう催眠は、前後不覚な状態にされて、悪用ってのは、言いたくないことを言わせられるってことです」

僕「うーん。僕の知っている限り、催眠ってのは前後不覚になるものではないから、それは催眠と称しているけど催眠ではないんじゃないかな。そして、言いたくないことを言わされる作用が催眠にあるかはわからないけど、催眠以外の場合でも巧みに言いたくないことを言わされることはあると思う。その事件で催眠以外の方法が使われていたのかがわからないから、催眠で言わされていたとは断言できないかな」

ハル「先輩、実際にあったことらしいんですよ。少し冷たくないですか?」

僕「ここは冷静になろう。催眠というシチュエーションで嫌な思いをした人がいるのは事実なんだろうけど、それが、本当に催眠の影響によるものなのかを検証せずに、催眠が危ないものだとしてしまうのはよくない。心理学徒としては、催眠以外でも同じことが起きる可能性を考えた上で、催眠以外の要素として、パーソナルな交流は信頼できる人とすべきと注意喚起すべきだと思うよ。催眠に限らず、信頼できない人と個室で二人きりになるとか、物理的じゃやなくてもオンラインで二人きりになるとか、悪意があれば何が起きるかわからないと思う。危険とすべきは催眠ではないと思うし、そもそも、催眠はそんなものではない」

ハル「そうなんですかね。じゃあ、先輩は、催眠は悪用できないと思ってるんですね」

僕「催眠以前に悪意のある会話は悪用できるから、催眠との区別ができないかもしれないけど、心理学的に言えば催眠だけでは悪用できない」

ハル「確かに、詐欺だって催眠とか関係なく起きてますもんね」

僕「ハルちゃんも、変な人に着いていったらダメだからね。気をつけて」

ハル「心配ありがとうございます。気をつけます。あっ、講義の時間だ。先輩、失礼します」

僕「うん、またね」

 ハルちゃんは、笑顔で手を振って出口に向かっっていった。