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映画・アニメ好きへ贈る!バンドアニメの到達点「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」を語る③最も愛情深いのは

若葉睦を理解するには

ぼくは若葉睦という少女について踏み込んで表現する言葉をいまだ見つけられていないのですが、今のところぼくが彼女に抱いている印象は「作中で誰よりも愛情深い人間なのではないか」というものです。

1話中盤、そよに「座らない?」と促され、「うん」と頷きながらも座る素振りを見せずに立ったまま話をする短いシーンがあります。初めてこのシーンを見た時の違和感が、彼女を理解する鍵でした。

睦に座るよう促すそよ

一般的にこのように疑問形で投げかけられる言葉は行動を勧めたり促す文意がありますが、ここでの彼女は頷く、つまりに勧めに応じたにもかかわらず座らないという逆の行動を取っています。
しかし、この言葉を裏のないただの問いとして捉えるとどうでしょう。「座らない?」という問いは否定形の疑問文であるため、それを肯定することは「座らない」という当初の否定を認めることになります。

「座らない?(座ったら)」→「うん(座る)」
「座らない?(座らない?)」→「うん(座らない)」

つまり、彼女は「質問」には答えていました。ただ言葉を字義通りに真っ直ぐ受け取って真っ直ぐ返していただけなのです。
ここで冒頭のセリフに繋がります。

「みんな楽しくやってきたじゃない。睦ちゃんもそう思うよね」
「私は……バンド、楽しいって思ったこと一度もない」

1話冒頭、スタジオにて

多くの人は、コミュニケーションにおいて日常的にレトリックを用い、また用いられることが染みついていると思います。それは表現の技法であれ、本音と建前を使い分ける目的であれ。
そんな"普通の"人が活動を共にした相手から「楽しいと思ったことはない」と言われた場合、「あなたたちとの時間は無駄だった」と自分たちや自分たちとの関係の否定だと受け取るでしょう。事実、そのような運用のほうが一般的だと思います。
しかし、どこまでも正直で、レトリックの一つすら操ることのできない不器用な彼女の言葉として捉えると、楽しかったかどうかを問われたので真っ直ぐ答えただけなのだと理解できます。

バンドに参加した理由

では、「楽しいと思ったことはない」彼女はなぜバンドに参加していたのでしょうか。これも彼女の人となりを振り返ると見えてきます。
彼女は嘘がつけません。そして自己主張も乏しいです。しかし断ることはできるため、言いなりというわけでもありません。そこに意思はあるのです。
とすると、彼女がバンドに参加していたのも自らの意思によるものです。楽しいとは思っていない。報酬もない。技術的な刺激があるわけでもない。そんな得るものがないはずの活動に参加する理由として真っ先に挙がるものといえば「付き合い」です。
そうは言っても、彼女は社交辞令などの器用な振る舞いはできませんし、当然ただの付き合いに参加するような適応的な振る舞いもしないでしょう。この結論は矛盾しています。であれば、付き合いに見えるそれには別の理由があったことになります。

彼女がバンドに参加していた理由——それは、「祥子に誘われたから」というものではないでしょうか。
これは身も蓋もないように思えるかもしれません。しかし、「誰の誘いでも参加する」ことと「誘った相手のために参加する」ことは似ているようで違うのです。もう少し突き詰めると、「祥子の助けになりたかった」「祥子の喜ぶ顔が見たかった」「祥子といたかった」ということになるでしょうか。
13話を通して彼女の振る舞いを見ていると、自己主張こそ乏しいですが、沈黙からは逡巡や相克が見て取れますし、何より、そよや祥子と「一緒にいる」という”選択”をし続けていることがわかります。

「CRYCHICには祥子の誘いがあったから参加した。バンドは楽しいとは思えなかったけれど、祥子の助けになりたくて続けていた」
このように、祥子という線を引けば意外とシンプルな動機が見えてきます。そしてこれは、そよに対しても同様のことが言えます。
睦は祥子の事情をある程度把握していることがうかがえるので、そよの願いが叶わないことも知っていました。それでもそよのそばを離れず、ライブにも足を運び、そよをまなざし続けたのは、そよの心に寄り添う彼女なりの優しさだったのではないでしょうか。

ここで視点をそよに移すと、睦はCRYCHIC解散の元凶であり、その後も頼みを拒み、祥子とのやり取りでも望む答えをくれず見ているだけの睦の行動はおちょくっているように感じられてしまっていました。
とりわけ婉曲的な自己主張が染みついているそよからしてみれば、12話での「よかったね」という言葉は、自分を困らせておいてよくも白々しいことを、と受け取ってしまったのも無理はないかもしれません。「人は鏡」なのです。

ここで再び睦の視点に戻ると、「よかったね」の言葉は客観的なライブの感想ではなく、ひとりぼっちではなくなったそよを心から祝福する言葉だとわかります。
また、彼女は月の森では胡瓜の世話をしており、壁紙もアイコンも胡瓜に設定するほどに思い入れがある様子が描かれています。そんな胡瓜を袋いっぱいに持参することが彼女にとってどれだけ思いのこもった贈り物だっかは、想像に難くありません。

12話。個人的に本作で最も辛いシーン

若葉睦という少女

若葉睦は、ただ寄り添うという行動でしか愛情を表せない、どうしようもなく口下手で不器用で、世界との接し方が人とは違うだけの女の子なのだと思います。
そんな彼女の胸中に思いを馳せる時、口にしたことだけでなく"口にしなかったかこと"に着目すると、とても正直で雄弁な心の内が見えてくるかもしれません。

ところで、ぼくが当初彼女に抱いていたのは今よりも冷たい印象でした。
「自分がステージに立つよりステージにいるみんなを見ているほうが、より"自分ごと"としての実感が得られる」そんな精神性を持った子であり、周りの人間と同じように感情が動かない自分のことをどこか欠けた、冷たい存在なのだと思っている。言うなれば燈と似た欠落感を抱えて生きている子なのでは、と。
しかし、この物語を見届けた今では、真逆の印象になりました。
何も与えられなくとも寄り添い続け、それどころか、そよからも祥子からもどんなに冷たい言葉を浴びせられても二人のそばから離れなかった彼女は、本作において誰よりも温かい心の持ち主である。そう確信しています。

口下手で不器用で世界との接し方が人とは違う。そんな、なにかと燈と通ずる部分も多い彼女ですが、燈と違い自己表現の方法や居場所をまだ見つけていないように見えます。そんな彼女がこれからどう変化していくのか。そして再び笑顔が見られる日が来るのか。続編では、彼女にも祝福が訪れることを願っています。

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