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(※ネタバレあり)『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の副読本としての『スキゾ/パラノ・エヴァンゲリオン』

どうも、
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開されて早1週間、いまだに最後の記号の出し方がわからないタカハシヒョウリです。
初日の朝から3回連続で見たところ、思いのほか予告編が長くて完全な9時間ぶっ通しとなったのも今となっては懐かしい思い出。

最初の所謂「エヴァブーム」の時、自分は10歳だった。
96年頃だと思うが、昼のワイドショーで「今、エヴァンゲリオンというアニメがブーム!」という特集をやっていて、それを見て初めてエヴァを知った。
映像の大部分はコスプレイヤー(ミサトだった気がする)の映像とか、そういうものだったと思うが、ちょっとだけ映った本編が気になって、近所にあったクラスメイトの実家のレンタルビデオ屋に行ってエヴァのVHS1巻を借りた。(まだ弐拾壱話以降のビデオは出ていなかったと記憶している)
オープニングを見た瞬間から、熱いパトスがほとばしった。

そのエヴァブームの熱狂の中、たくさんの関連本が出版され、パトスがほとばしった僕は「エヴァ」と書いてある本は片っ端から買って読んだ。世代の人には結構共感してもらえるだろう。
中には妄想を垂れ流してるだけの解説本(今読むと逆に面白い)や、ファンがワイワイしているだけの非公式のファンブック(そういうのも楽しんでいたのだが)のようなものも多かった。
そんな中、もっとも繰り返し読んだ本が太田出版の『スキゾ・エヴァンゲリオン』『パラノ・エヴァンゲリオン』だった。
TV版と旧劇場版の間に出版されたこの本は、サブカルチャー誌『Quick Japan』に掲載された編集家・竹熊健太郎氏とノンフィクション作家・大泉実成氏による、庵野秀明監督のロングインタビューを上下巻の書籍に再構成したものだ。
ちなみに、この本のタイトルは『パラノ』内の「庵野秀明欠席裁判」にて、

鶴巻(和哉氏) 映画をそういうタイトルにしたら、と僕が言ったの

(『パラノ・エヴァンゲリオン』「庵野秀明欠席裁判」より)

ということで、実は旧劇場版のタイトルのアイデアだった。
当時の出版物としては、庵野監督の生の声に最も接近できるであろう本ということで結構「エヴァファン必読書!」的な扱いを受けていた内容の濃い本である(そして安い、800円)。

そんな『パラノ』『スキゾ』も絶版本ということで隔世の感があるなぁと思っていたら、なんと電子書籍で読めるじゃないの。
ということで『シン・エヴァ』を見てから『パラノ』『スキゾ』を読み返してみると、この本が「テレビ版エヴァ」の副読本の域を超えて、
『シン・エヴァ』を読み解く副読本としての重要さを持っていると強く感じたのだ。
そこで、『パラノ』『スキゾ』から『シン・エヴァ』に繋がっている部分をいくつか引用しつつ、ああだこうだと言ってみようと思う。
そうすることで、シン・エヴァがテレビシリーズから、いやそのもっと前から続く構想の延長上にあるという事が見えてくるんじゃないかという僕の妄想を垂れ流すのがこの原稿だ。
(この原稿も25年後に読んだら逆に面白くなっていてほしい)
ちなみに僕の主観的なシン・エヴァの感想はあまりここには書かないつもり。予定は未定だが。

シン・エヴァは、恐ろしいほど多面的なエンタメ表現の集合体で、「エヴァ」という外殻がなければ空中分解してしまうほどに情報量も多く雑多だ。庵野監督自身もパンフレットの序文にて、

「アニメーション映像の持つ様々な感覚的・技術的な粋を凝らした面白さを、可能な限り詰め込んでいます。」(パンフレットより)

と書いているが、様々な表現技術が(ややパッチワークのように)繋げられ、過去のエヴァのあらゆる要素を内包しつつ、エンタメとして自立させている点は驚異的と言える。
だが、その中心に位置するものは、笑ってしまうくらいTVシリーズの時と変わらない、庵野監督自身の進行中の「人生」とも言えるものだという点も強調したい。
『スキゾ』の中で庵野監督は、こう語っている。

庵野 僕らは結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない、それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。

(『スキゾ・エヴァンゲリオン』より)

これは、シン・エヴァにおいても引き続き有効な言葉ではないだろうか。では、スタート。

撮影所から現実へ、ラストシーンの源泉

シンジの駆るエヴァ初号機と、ゲンドウの13号機の究極の親子ゲンカは、突如メタ的に撮影所内のセットで行われているように描写される。
そして登場人物たちは、やがてその撮影所から1人、また1人と抜け出して、それぞれの「エヴァがいない現実」へと帰還していく。
残されたシンジを取り巻く世界は、次第に線画、原画へと変わっていき、メタの波の中に消え入りそうになった時、マリがシンジを救出に来るのだ。
物議を醸したテレビシリーズのエンディングを力強く推し進めたようなクライマックスである。
この部分について、『パラノ』の中でTV版のエンディングについての対話の中にこんな部分がある。

竹熊 昔、『幕末太陽傳』という映画がありましたけど…。

庵野 ええ、あれをやりたかったんですよ。あれが近いと思う。川島雄三の気持ちはわかる気がします。

竹熊 最初のプランでは、ラストシーンでフランキー堺が撮影所から出ていってそのまま現代の街の中を逃げていく予定だったんですよね。でも、それはさすがに映画会社から拒否された。

庵野 今村昌平が文句を言ったって話ですね。「イカンなぁ。馬鹿もんが、なぜそれを許さん」って。

(『スキゾ・エヴァンゲリオン』より)

『幕末太陽傳』は、1957年に公開された川島雄三監督のコメディ時代劇である。
この映画は、主人公の佐平次を演じるフランキー堺が「おれはまだまだ生きるんだ!」と啖呵を切り、走って逃げていくシーンで終幕となる。
だが脚本段階では、この逃げだした佐平次が墓場のセットを飛び出し、スタジオの扉を開けて、現実の世界へと突き抜けて走っていく予定だったのだ。
その現実の世界には、劇中の登場人物たちが「現代の服装」で存在しており、そこを走り抜けていく佐平次というエンディングになるはずだった。
上の引用にあるとおり、映画会社やスタッフの反対を受けてこのシーンは採用されることなく公開され、「幻のラストシーン」として伝説的に語り継がれることとなったわけだが、このシークエンス、『シン・エヴァ』のラストにどこか似ていないだろうか?
僕は、撮影所から登場人物が帰還していくシークエンスで、この対話を思い出した。

もちろん、メタ的に現実へと突き抜けてくるエンディングというのは様々な作品に見られる手法なのだが、TV版の段階でこのビジョンが見えていたというのは、「TV版で果たせなかったエンディングの補完」とも言えるような興味深いものを感じさせる。

第二期ウルトラ(ウルトラマンA、ウルトラマンタロウ)の扱い

庵野監督の原体験の1つでもある『ウルトラマン』シリーズを筆頭に、円谷プロダクション作品へのオマージュがエヴァには散見される。

たとえば新劇場版シリーズにおいても、序では使徒・ラミエルの鳴き声が『帰ってきたウルトラマン』に登場する結晶状の光怪獣・プリズ魔を意識したものであったり、破でミサトの乗る車両が同じく『帰ってきたウルトラマン』に登場するマットビハイクルに酷似していたり、呼び出し音が初代『ウルトラマン』の科学特捜隊そのまんまだったり。
この辺は、検索すればたくさん出てくると思うのでもうみんなに任せるが、そんな感じで数多くのオマージュがあるということだけ理解してもらえればOKだ。

もちろんシン・エヴァでも、ウルトラマンオマージュがある。特に、かなり露骨かつ大きなオマージュが以下の2つ。

まずは「ゴルゴダオブジェクト」の存在で、4つの十字架が立つこの謎の構築物は、『ウルトラマンA(1972)』でウルトラ4兄弟が磔にされたゴルゴダ星からのイメージだ。
このゴルゴダ星は、通常の宇宙とは別次元の宇宙=「マイナス宇宙」に存在するのだが、そこも完全再現されているのだから間違いない。
(「人でないもの」は、ヤプールなんじゃないの)

もう1つ。マリの8号機が9〜12の4機のエヴァを取り込み「オーバーラッピング」へと進化(?)するのも、『ウルトラマンタロウ(1973)』と『ウルトラマン物語(1984)』で、タロウが他の5兄弟の力を取り込んでスーパーウルトラマンへとパワーアップする「ウルトラオーバーラッピング」が元ネタだ。

さて、この2つについて個人的に注目したいのが、どちらも『帰ってきたウルトラマン』より後のウルトラシリーズからの引用だと言うことだ。
庵野監督は以前から好きなウルトラマンとして初代ウルトラマン(Bタイプ)を挙げており、お気に入りの作品として『帰ってきたウルトラマン』に言及していることが多い。

庵野 ええ。円谷の『帰ってきたウルトラマン』で、郷とMATの仲間が仲良くなって、これで他人とうまくいけるのかなと思ったら、次の週には、また仲違いからスタートってやつと同じですよね。僕の他人に対するコミュニケージョンの不信感とか、恐怖っていうのが出ていますね、その辺は。

(『パラノ・エヴァンゲリオン』より)

あの、仲良くなったと思ったら、またギスギスするエヴァの人間関係も『帰マン』的だ。

『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』は、この『帰ってきたウルトラマン』の後の作品であり、1971年に『仮面ライダー』が登場し「変身ブーム」が巻き起こる中、より子供向け路線へとシフトした作品群とも言われる。
パラノの中で、この辺の作品についての言及がある。

庵野 えーと、『ウルトラマンエース』から抜けはじめて、『ウルトラマンタロウ』が途中まで。

(『パラノ・エヴァンゲリオン』より)


実際、初代『ウルトラマン』を幼少期にリアルタイムで見た人たちの話を聞くと『A』で離れていき、『タロウ』で卒業したという話が本当に多い。『帰マン』と『エース』、この間には明らかな壁、断絶があるのだ。

エヴァ内のオマージュで見てみても、これまでは『帰ってきたウルトラマン』以前のネタが大部分を占めていた。『破』に登場する4体のアダムもウルトラ兄弟に酷似しているが、『ウルトラマン』〜『帰ってきたウルトラマン』に登場するジャックまでの4人の意匠を持っているのだ。
だが、今作での代表的な引用は『A』『タロウ』からのもの。
つまりオマージュ的にも「前進」、進んでいるのだ。
ここで、再び『パラノ』から

庵野 あれ(ウルトラマンタロウ)は、大人になって初めてあの良さが(笑)。

竹熊 『タロウ』、ださかったよね(笑)。

庵野 『ウルトラマンレオ』も大人になってからですね。『タロウ』と『レオ』の良さは、やっぱり年をとらないと。大人にならないと。

竹熊 『タロウ』のどこがいいんですか?

庵野 世界観がいいです。(中略)それまでシリアス一辺倒だったウルトラシリーズの世界観を、あそこで子供向けファンタジーな世界に戻そうとしたと思うんですよ。「なんでもあり」の世界ですよね。特撮もナイスです!

(『パラノ・エヴァンゲリオン』より)

これもまた、1つの「成長」という見方もできるだろう。
「なんでもあり」というのも『シン・エヴァ』に繋がるキーワードだ。
(『シン・ウルトラマン』楽しみです。)

ゲンドウの孤独

終盤のゲンドウの独白は、シン・エヴァの白眉とも言える要素だと思う。
まず、このゲンドウとの対峙、対話というのは、エヴァが何度も果たそうとして決着をつけることのできなかっ最後のピースだ。

鶴巻 だから庵野さんは"父親と子供の葛藤"っていうモチーフを延々と繰り返してるのに、(そう意図して)作っているにも関わらず、結局、全部ダメになっていく。テーマとして描き切れない

(『パラノ・エヴァンゲリオン』「庵野秀明欠席裁判」より)

ゲンドウというキャラクターとの対峙を回収しようとするこのシーンには、庵野監督自身の前述の「僕の人生=オリジナル」が色濃く反映されているように感じる。
孤独に対しての感覚が麻痺し、知識に依存する少年。

前田(真宏氏) 「本ばかり」というのは庵野さんのアイデアで、シナリオにも書いてあったことですね。僕は僕なりに、いろいろと空想しながら描きました。ゲンドウを庵野さんに投影して、庵野さんはどんな子供時代だったんだろうなとか。
(『シン・エヴァンゲリオン』パンフレットより)
竹熊 孤独感みたいなものは、ずっとあったんですか?

庵野 孤独感?いや、あんまり認識してないです。そんなに人間というのに興味がなかったんじゃないですか。

竹熊 離人症って言っちゃあ変だけど、リアリティがなかったとか。現実の人間関係に。

庵野 現実の…いや…自分にしか興味がなかったんじゃないですか。

(『パラノ・エヴァンゲリオン』より)

これらの発言を読むと、あのゲンドウの独白シーンが庵野監督と重なるのを避けられない部分がある。
そのうえで、ゲンドウに関して、本当の意味で決着をつけられたのかは、ちょっとわからない。前述の鶴巻さんの発言「テーマとして描ききれない」は、まだ生きているようにも感じる。主観的なもんだが。

ちなみに、あのシーンに出てくる「ゲンドウがピアノを好き」について、「ゲンドウとカヲルが似ている」という以外にどういった意味合いがあるのか、僕には見ながらいまいち測れなかったのだが、Clubhouseで延々とエヴァの話をして色々な意見を聞かせてもらって少し納得できたものがある。

ピアノというのはかなり整理された楽器で、「誰でも音を出せる」という特徴がある。例えば弦楽器にしても、管楽器にしても、音を出すまでが難しい、つまり0から1に到達するのが難しいのだ。
それに対してピアノは「押せば音が出る」という「1」からスタートし、そのすでに存在する「1」というパーツを組み合わせることで演奏する整然とした楽器だ。
これが、すでに作られた物の寄せ集め=「コラージュしかできない」と語る庵野監督の創作感に似ていると考えると「ピアノとゲンドウ」というのが繋がった感じがした。

「唯一の他者」としてのマリ

次は、新劇場版にしか登場しないマリというキャラクターについて。
僕は、最後にシンジの手を引き、現実の世界へと連れ出す存在はマリ以外ではありえなかったと考えている。
理由は明確で、マリは「唯一の他人」だからだ。
「自分の世界=エヴァの世界」という閉鎖した場所から自分を連れ出せるのは、自分ではない人物=他人でなくてはならないという、とてもわかりやすい、スーパーシンプルなロジックなのだ。

なぜならテレビ版に登場するキャラクターは、すべて「庵野監督の分身=同じ人物」だからだ。

庵野 人間ドラマなんて、そうそうやれるもんじゃないですよ。だって全然わからない他人を描くってことじゃないですか。その上、その関係までも描かなきゃならない。生易しいものじゃないと思いますよ。
(中略)
それで僕は、結局、頭の中で考えてもできないんで、しかたなく自分をドラマにそのまま投影している。だから、なんか人間ドラマっぽい感じがするだけで。

竹熊 ああ、庵野さんが「『エヴァ』のキャラは全部自分自身だ」という意味はそれですね。

庵野 ノンフィクションですよね。

(『パラノ・エヴァンゲリオン』より)

よく勘違いされている気がするのだが、エヴァのキャラクターたちが、お互いを拒絶し傷つけ合ってしまうのは、「違いすぎるから」ではない。
似すぎているから」だ。
シンジとアスカは、「他人を拒絶することでしか自我を確立できない」という同じ棘を持っているから、近寄れば傷つけ合ってしまう。
まさに「ヤマアラシのジレンマ」だが、同じ「ヤマアラシ」であることが問題なのだ。
同じ人物が同じ人物に手を差し伸べても、ループを途切れさすことは出来ない。それがエヴァの世界が抱えていた真の意味での「呪い」だったと、僕は考えている。

そんな中でマリは、主要人物の中で唯一、庵野監督自身が生み出し自身を投影したキャラクターではない

ー庵野さん自身のリアルが作品に出てしまうということですが、『:破』のときに鶴巻さんが考えた要素が多いマリについてはどう思いましたか?

鶴巻 『シン・』のマリは『:破』から意味性においてだいぶ変化したと思っています。『:破』では、庵野さん自身が作るとどうしてもシンジ同様に自分自身になってしまうので、マリはそれとは違うキャラクターにしたくて外部の人に預けていたんだと思います。

(『シン・エヴァンゲリオン』パンフレットより)

これは僕の想像だが、だから『シン・エヴァ』におけるマリは「シンジの匂いに敏感」なのではないだろうか、と思う。
体臭とか匂いというのは、他人の象徴だからだ。
「自分の匂い」というのは、自分自身にはわからない。
その匂いの変化に敏感なマリには、他人の象徴という意味合いがあるんじゃないか、と。

「自分の世界への埋没を打ち破り、連れ出してくれるのは他者」
このメッセージがシン・エヴァではかなり強く打ち立てられている。
それはマリ抜きには達成できなかったと思うし、(もちろん安野モヨコさんの影響もあるだろう)、TV版の頃には無く、新劇場版にだけある要素だと言える。

「物語の終わらせ方」

『シン・エヴァ』で、エヴァの世界を抜け出し、初めて「他者」である女性の手を引いて、生まれ育った宇部新川の街にたどり着いたことで、ひとまずエヴァンゲリオンは終わった。
僕は、ひとつの「落とし前」をつけようという真剣さを感じたし、そのための多少の強引さは誠実さとも受け取った。
もちろん受け取り方はそれぞれだ。ちょうどいまハライチの岩井氏が炎上しているが、彼と同じ受け取り方をした人だって少なくないはずだ。
お前だけ、綺麗に大人になるのかよ
「お前がおれたちをこっちに誘ったのに、置き去りにしてそっちに行くのかよ」
25年、エヴァに縛られた人には、そういう寂しさもある。もしかしたらこれは、わからない人には徹底的にわからないことなのかもしれない。

だが、エヴァは本当に終わったんだろうか。どうも、僕にはそう思えない部分がある、
最後にもう1つ、引用を。

庵野 ストーリーの存在というのは、僕は物語にケリをつけることだと思う。基本的に『エヴァ』は僕の人生をフィルムに引き写しているだけなんで、僕が生きているわけだから、物語は終わらない。それでも番組を終わらせなければならない。そうなったら、ストーリーが必要になってくる。

(『スキゾ・エヴァンゲリオン』より)


というわけで、まだまだ『スキゾ』『パラノ』から書けることはたくさんあるのだが、ひとまずこの辺にしておこうと思う。
結局、後半は自分の主観的な話ばかりしてしまった。まぁ、予定は未定なので。
本当に超殴り書きなので、のちのち少しずつ加筆修正していきます。
あと、『パラノ』『スキゾ』のamazonリンクがなぜか埋め込めないので、それものちのち修正しておきます。

サポートいただいたら、美味しいもの食べたりして、それで培った元気とやる気で、また面白いものをお届けします。