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実家の猫が懐かない

子猫をもらってきた

2014年の春、実家で母が飼っていた虎縞の雌猫が亡くなった。私が山形県で大学生をやっていた頃にもらってきた猫なので、享年18歳の大往生だった。
その猫とは大学を卒業後、一緒に実家で暮らしていた時期があり、冬になると布団にも入ってくる仲だったため、私が実家を出てからも、たまに帰るとニャーニャーと嬉しそうに出迎えてくれた。

その猫と私よりもずっと長い時間を過ごしてきた母を元気づけるには、新しい猫を迎えるのが一番だろうと、なんとなく新猫との出逢いを探していたところ、友人の家に居候している野良猫が子供を産んだという話が舞い込んできた。

さっそく見学にいくと、3匹の雉虎の子猫がピョンピョンと跳ねまわっていた。なるほど、これはかわいい。子猫はだいたいかわいいものだが、前の猫が破った障子がそのままになっている実家の和室にぴったりくる猫のような気がした。

今までの経験上、猫は異性の人間に懐くという印象があるので、3兄弟の中から唯一の雌猫を貰い受けることにした。私が飼う訳ではないのだが、私にこそ懐いてほしいというわがままだ。どっちにしろ一緒に暮らす母親には懐くだろうし。

持参したピンクの洗濯カゴにトイレシートを敷き、まだ名前のない子猫に入っていただく。その洗濯カゴはハート型の穴が全体に抜かれており、穴から覗く子猫は最高にかわいかった。

そのまま私が車で実家まで運んだのだが、結果的にこれがよくなかった。子猫は明らかに不機嫌な顔をしており、特に私を見る目が『家なき子』に出ていた頃の安達祐実のようなのだ。

どうも子猫にとって、私は『飼い主を仲介してくれた優しい人』ではなく、『親猫から強引に引き離した極悪人』とインプットされてしまったらしい。

うちの家族に、そして私に、果たしてこの猫は懐いてくれるのだろうか。

母親にはすぐ懐いた

洗濯カゴから出でてきた猫は、しばらく様子を伺ってから、母の元へと歩みより、小さな声でニャーと鳴いた。どうやら早くも母を飼い主(私から助けてくれた人)と認めたようだ。

母が子猫を抱きかかえると、そのまま大人しく膝の上で撫でられている。心から羨ましい。ちょっと私にも抱かせてよと手を伸ばすと、「お前にだけは抱かれるか」と、サッと逃げてしまった。やはり私は敵と認識されているようである。悲しい。

とりあえず今日はまだ子猫も気持ちの整理がついていないだろうと、大人しく帰ることにした。
そして1日置いて翌々日に実家へと訪れたのだが、子猫は私の姿を見つけると速攻で押し入れの奥に入り込み、この日は私が帰るまで、そこから出てくることは一度もなかった。

その後も何度か訪問したのだが、私に懐く気配はゼロ。そんなに俺のことが嫌いなのかと、打ちひしがれて焼酎を煽るという愚行が繰り返されるだけ。

それなのに母親からは、「毎日一緒に寝ています」という報告のメールが写真付きで送られてくる。自慢か。名前はチャッピーと名付けたらしい。チャッピー……

マグロで猫を釣る

ある日、私は30キロのマグロを釣り上げた。脂の乗った最高にうまいキハダマグロである。そうだ、猫といえば魚が好きなはず(そう考えているのは日本人だけらしいが)。ならばこのマグロを持っていけば、あのチャッピーも私に懐くのではなかろうか。

もちろん理想としては、前に実家で飼っていた先代猫のように、食べ物でなんか釣らなくても信頼関係によって甘えてきてもらいたい。だがとりあえずは賄賂もアリだろう。私はどうしてもチャッピーを抱っこしたいのだ。

刺身にしてきたマグロを持って実家に行き、まずは母親へと渡す。そして一切れ回収して手に持って、台所の隅に引っ込んでいたチャッピーに3メートルの距離を置いて差し出した。こちらから無理に近づくのではなく、チャッピーの方から近づくのを待つ作戦である。

マグロの存在に気付いたチャッピーが、ジリジリと近寄ってくる。こちらには敵意がないことを全身全霊で伝える。目で訴えるべきか、目線を外すべきか迷うところだ。

5分間に及ぶ無言の会話の末、初めて見るであろうマグロに対する好奇心が私への敵意を凌駕した。チャッピーが私の手から食事をしたのだ!

この一切れのマグロをきっかけに、チャッピーと私の距離は少しだけ縮まり、何も持たずに近づけば逃げるものの、食べ物やオモチャといった賄賂を持っていけば、多少は相手をしてくれるようになった。
もう少しであの日の無礼を許してくれることだろう。

やっぱり私に懐かない

チャッピーが来てから数か月が経ち、すっかりその体は大きくなった。一般論として、一番かわいい時期は過ぎてしまったのかもしれないが、大人になったチャッピーだって美人でかわいい。

相変わらず物理的にも心理的にも距離を置かれているが、そろそろ『大人の人間』対『大人の猫』として、分かり合える頃だろうと鰹節を手に乗せて差し出してみた。

しばらくの沈黙の末に近づいてきた。そしてザラっとした舌でペロペロと私の手を舐めてくれた。ここまでくればもう友達だ。

鰹節を食べ終わったところで、極力優しく抱えて私の膝に乗せてみる。すると初めてこの家へとやってきた日のあの目で私を睨み、全速力で逃げていってしまった。しまった、まだ早かった。逃げる時に爪を立てなかったのは、せめてものチャッピーなりの配慮なのだろう。ありがとう、そしてごめん。

その日以来、チャッピーと私との信頼関係はまたゼロに戻ってしまい、実家に行っても頭や腹を撫でることはおろか、その姿をみることすら難しくなってしまった。

母親の話によると、私の車のエンジン音が聞こえただけで、飛んで逃げてしまうのだとか。そんなに私のことが苦手なのか。でもいいんですよ、母親に懐いているのなら。

いつの日かを信じて

その後はなるべくこちらからチャッピーに近づかないようにした。たとえ目の前に現れても、手を出さず、声も掛けず、おびえさせないようすることに徹したのだ。いつかチャッピーの方から近づいてくれる日がくるのを待つのだ。

そしてチャッピーが来てから1年近くが経ったある日のこと。実家で夕ご飯を食べて、さて帰ろうとしたその時だった。台所の隅に隠れていたチャッピーがトコトコとやってきて、玄関の前に敷いてあったマットの上に横たわって、「今日は撫でてもいいんだぞ」という表情でこちらを見たのだ。

そういえばこのマットは、先代猫が私を出迎えてくれていた場所であり、その猫を一番撫でた場所だった。もしかしたら『匂い』や『想い』がマットに残っており、それがチャッピーに伝わったのかもしれない。

マットの上に横たわるチャッピーに、恐る恐る手を伸ばす。実家でのんびりと育ったチャッピーの毛並みはすこぶるよく、撫で心地は最高だった。ありがとう、チャッピー。そして先代の猫よ。

ただこれで完全に打ち解けたのかというとそんなこともなく、チャッピーの心は猫らしく気まぐれだ。大人しく撫でさせてくれるのは5回に1回程度。姿を見せてくれないことの方が全然多い。

それでもいつの日か、私が実家でうたた寝をしていると、気がつけば寄り添うように横で寝ているというような時が来ることを信じている。

そして10年後……

チャッピーが実家の飼い猫となってから10年の月日が経った。だがこの猫は私に懐くどころか、心の距離は離れるばかり。実家に行くと必ずダッシュで二階へ走って隠れる始末である。

姿を隠す場所は毎回同じなので、追いかければ顔を見ることだけはできるのだが(本気で隠れている訳ではないと信じたい)、どう贔屓目に観ても懐く気配のない表情で「シャー!」と睨みつけてくるし、手を伸ばせば当然本気の猫パンチが飛んでくる。そんなに私が嫌いですか。

このようにベルリンよりも崩壊しなそうな高い壁のあるチャッピーだが、心の底から私を嫌っている訳でははずだ。「ちゅ~る」を与えさえすれば、警戒心バリバリのイカミミ状態ながら顔を近づけてくれるのだから。

ちゅ~るを与えなければ近づけない関係ともいえるのだが、これが私とチャッピーにおけるギブアンドテイクである。だがこれ以上を望んではいけない。ちゅ~るを食べているときなら触れるかなと手を伸ばしたら、ものすごい速さの右フックが飛んできた。しかも爪を伸ばした状態で。あぶねえ。

とりあえず、チャッピーと母が元気そうでなによりである。
たぶん今後も絶対懐かないけど、私はずっと待っているよ。

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