自分用メモ:奇妙な会話

「「AV強要問題」はいかにして始まったのか」中村 淳彦

 こちらの記事にちょっと面白い点があった。

 バクシーシ山下氏が出版した『ひとはみな、ハダカになる。(よりみちパン!セ)』(理論社、2007)について、

 宮本氏:『山下氏は青少年向けにアダルトビデオの啓発書みたいなものをお書きになって、その存在を知った職員たちが、まあ猛烈に怒ったわけです。ポルノをあたかも女性の職業として、良いものであるかの如く、知らしめるような青少年向けの啓発書はいかがなものかと。そして、理論社に対して実際に抗議活動を始めました。』

 ここでの問題は「青少年向け」に「ポルノをあたかも女性の職業として、良いものであるかの如く、知らしめる」ことであるように読めるのだが、これに対して、聴き手の中村氏は『アダルトビデオ関連の本を子供に向けて販売したことが問題となったわけですね。』と問題をリフレーム(再・枠付け)している。このリフレームにより、問題の枠組みは「AV関連の本を子供向けに出すこと」へと定まり、「青少年啓発書としての内容の問題性」というフレームは退く。

 そのすぐ後に、

 宮本氏:『抗議に関しては婦人保護施設や女性団体だけではなく、性暴力被害を受ける人たちが集積する場所、つまり、児童養護施設とか、軽度の知的障がい者施設、母子生活支援施設などに狙いを定めて、全国的にビラを撒きました。すると、各団体からは当然抗議するべきという声があがりましたし、児童養護施設、知的障がい者施設の職員からの反響もすごかった。自分のところにはこういう被害を受けた人がいるという手紙も届きました。アダルトビデオが女性を性商品化することでいかに女の子たちが巻き込まれているか、とか。』

 ここでも、「アダルトビデオが女性を性商品化すること」が「性暴力被害」と関連付けられることによって問題視されているように読める。宮本氏が二度示唆した問題意識は、「「ポルノ」や性の商品化は現実の性暴力被害とつながっており問題である」というPAPSの軸となるいつもの論である。この問題意識からは、ポルノの問題性を無視している内容が問題だという批判にもつなげることができる。

 しかし、中村氏は『バクシーシ山下氏の著書の内容ではなく、バクシーシ山下氏の著書を児童書の出版社が子供に向けたことを問題視したわけですね。』とリフレームしている。今度は明確に「内容の問題性」フレームは棄却され、「AV関連の本を子供向けに出すこと」から「バクシーシ山下氏の著書を子供向けに出すこと」へと問題フレームが少し変形している。

 これに対して宮本氏は『もちろん山下氏には、表現の自由がありますから。』と返している。

 中村氏はどうしてあえてリフレーミングしたのか。中村氏のリフレームの根拠が全くないとは考えにくい。中村氏のフレームについて理解する手助けとして、PAPSが実際に当時どのようなことを問題視していたのか、見てみよう。

語られた問題点

 2012年に宮本氏が書いた『週刊金曜日』の記事では、「性暴力を助長するような作品を撮る人物の著書を子どもたちの手に渡すことができない」、「著者が同書に書いていない性的に残虐で人権侵害的な映像に子どもが不用意に接触する危険性」、「ポルノに対して青少年が誤った理解をする可能性」という点が指摘されている。

前の二点(著者山下氏の問題性、子供が山下氏のAV作品に誘導される危険性)をA、三点目(子供向け啓発書としての内容の問題性)をBとして無理やり分類すると、先の取材記事における「ポルノを良いものであるかのように示す」という宮本氏のフレームはB、「バクシーシ山下氏の著書を子供向けに出す」という中村氏のフレームはAに近い。

 PAPSウェブサイトにある文章からすると、2008年当初の「理論社問題」においては、問題の主眼はAの誘導的危険性であるように見える。Bの本の内容に言及するにしても、それは誘導性を増す要素としてのみ触れられている。

「問題なのは、今回の本が、……子どもを読者対象に定めた新書シリーズ(「よりみちパン!セ」)の中の1冊として出版されたことです。」……「同書の読者対象として設定されている中学生や高校生や小学高学年生がこの本を読み、山下の「デビュー作」として紹介されている「女犯」──徹底的な女性蔑視と女性への暴力を娯楽化した暴力AV──などを視聴したら何が起きるでしょうか。」(理論社問題より引用)…A 

「この本の記述には、「だれでも」「ふつう」という表現が繰り返し使われており、子どもたちがこの本を読むことによって、バクシーシ山下のビデオの世界が抵抗なく入っていけるものであるかのように感じ、たとえば巻末に紹介のあるバクシーシのビデオ「女犯」を「見てみたい」と思ってもまったく不思議ではありません。」(理論社問題 要望書より引用)…A(B)

「そしてこの本の最も欺瞞的なところは、バクシーシ山下が自らのビデオのこれほどまでの暴力性をまったく書いていないことです。」(同上)…(A)B

「この本が読者である子どもたちに対して、その深刻な暴力を覆い隠した上で、バクシーシ山下のAVに対する関心をかきたてていること、そしてそれを実際に見ることにより心身に重大な被害を生じさせる、現実的な危険性をもっていることに最大の問題がある」(同上)…A(B)

「青少年に性の情報を伝えるのに、極めつけの性暴力映像を撮影し商品にしているAV監督に執筆依頼する理由、必然性がどうしても理解できませんでした。バクシーシ山下に執筆させたことにより結果的には女性への暴力を容認し、強化する大人社会のあり方を是認するメッセージを青少年に発してしまったことになる」(理論社問題 中間報告より引用)…A

 その後、後年の「イースト・プレス社問題」では、Aのフレームは残りつつも、本の内容(B)それ自体が問題点の一つとして現れてくる。

「このような人物が、青少年向けの「よりみちパン!セ」の執筆陣に抜擢され、青少年向けに性を語るという名目の著作を出したことに、私たちは心底驚きました。出版元の理論社はもともと子どもや青少年向けに良書を出してきた老舗の出版社であり、あろうことかそのような出版社が、わざわざ暴力AV監督のバクシーシ山下に執筆依頼して、このような著作を出させたことに憤りを禁じえませんでした。」(イースト・プレス社問題 要望書より引用)…A

「バクシーシ山下は『ひとはみな、ハダカになる。』の中で、アダルトビデオの世界を紹介し、それへの好奇心を掻きたてる一方で、その世界に蔓延している性暴力(何よりも自分たちが行なってきた性暴力)の問題や、出演した人々がその後さまざまな困難や苦しみ、後悔を持つにいたったことなども完全に無視し、アダルトビデオの世界があたかも普通のことであるかのように、語っています。このような著作を青少年が読めば、たとえば男の子であればアダルトビデオで描かれているような暴力的性行為を普通のこととみなしてそれを日常において再現しかねないし、また女の子であれば、自分もアダルトビデオの世界に飛び込もうと思う人も出る可能性があります。」(同上)…B

「青少年向けに「性」を語るのに、どうしてその性を徹底的に貶め、蹂躙し、金儲けの手段にしてきたような人物が選ばれるのでしょうか?」(同上)…A

*

 上に見てきたように、『ひとはみな、ハダカになる。』に関する理論社への抗議としては、基本的にAフレームに基づいて述べられてきたにもかかわらず、先の取材記事において宮本氏はBのフレームにしか言及しなかった(記事に載らなかった)。それに対して、(何らかの形で抗議活動について既に知っていた)中村氏がAのフレームを提示した。

 中村氏の意図がどうであれ、中村氏のフレーミングは、補足的情報というだけでなく、宮本氏が過去の抗議活動をBとしてリフレームすることによって、理論社への抗議が「悪書追放」と同列視されてしまうことを防いでいる。

「今回の「回収・絶版」要求が、この本を読むことによって子どもに深刻な被害(権利侵害)が発生する現実的な危険が差し迫っており、それを防ぐには「回収・絶版」以外に方法がないものとして選択されたことです。その点において、今回の「回収・絶版」要求は、数の力にものをいわせて自分たちの気に入らない思想や表現を市場流通から排除することを求めるいわゆる「悪書追放」運動とは明確に一線を画すものでした。」(理論社問題より引用)

 中村氏の『バクシーシ山下氏の著書の内容ではなく、バクシーシ山下氏の著書を児童書の出版社が子供に向けたことを問題視したわけですね。』という言葉を受け、宮本氏はそれを訂正したりせず『もちろん山下氏には、表現の自由がありますから。』と返した。つまり、「表現の自由」の観点から批判を受けるであろうBフレームを手放し、中村氏の提示したAフレームを受け入れた。

 中村氏が直前の相手の語りと無関係に(会話上は無根拠に)リフレームしたこと、(普通だったら失礼な)それを宮本氏が訂正したり戸惑ったりせず、それまでの自分のフレームを翻した上にまたそれを何事もないかのように流したこと。フレーム転換がなされているのに、そのときあるべき「しるし」がないため、奇妙な印象を受けた。当然、対面の会話を記事にするときに編集が入っているだろうが、会話として面白かったので感想として残しておく。

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