(口頭)対話の場の設計についての喜多見こけし氏記事へのコメント


 文章論理が分かりにくかったり無意味な比喩があったりと、喜多見氏の筆致が好みでなかったので所々苛立ちながら読んだ。

 そもそも「あなた」がしたい「その」対話が(文章記事でのやり取りでなく)口頭である必要があるのかという点について私は懐疑的だが(https://twitter.com/hyougen0/status/1209088608453324800)、もちろん口頭対話ならではの効果・意義もあるだろうと思う。(それが『魔術的なもの・力』かどうかは、どういう意味で「魔術的」と言っているのか不明なので判断保留。)

 2節の途中で出てくるが、『企画されるイベントは、各論客が使っている語の背景、話の前提も含めて問う場である、という反論』に対して特に再反論できていないのでは。口頭対話で『パッケージ化された言説同士を対峙させ』た上で、問いと応答によって『異言語』を理解しそれに対して意見を述べる(批判する)ことは可能である。私たちはその方法論を議論するべきであって、「時間が限られている」「自由に語るだけではダメですよね」とか当然のことを(冗長な筆致で)繰り返し言うだけでは無意味。対話における『自由への固執』が対話不成立を導いているという指摘は全く的外れで、それは単に対話・議論の(内容でなく方法・技術としての)質が低いからである。
 5節で提案している「禁止ワード」は、言葉・概念の定義をいちいち問う・答えるというプロセスを強制的に行わせるための仕掛けでしかない。氏自身も『解像度が高く、かつ共通認識も構築しやすいような語りが生み出せるよう誘導するためだ』と書いている。つまり、言葉の定義・意味が曖昧なまま(各自で異なるまま)議論することが問題であるに過ぎず、「それはどういう意味ですか?」「それにはこういう前提がありますよね?」「それ本当に正しいですか?」などの問い・応答をいちいちやっていけば良い(やっていくしかない)のである。

 喜多見氏が実践を以て方法論の模索をしていくのは結構なのだが、議論・対話方法論や『哲学対話や自助グループ、当事者研究といった実践』に基づいたファシリテート技術についての知はすでに先行蓄積があると思うので、素人が何も勉強せずに「禁止ワード」というアイデアだけで「とにかくやってみよう」というのは、失敗に終わるだけではという懸念が強い。
 もちろん、素人こそ、ある程度の失敗をするにせよ試行錯誤で実践を積み重ねていくことは重要だと思う。問題は、その失敗のコストを誰が負うことになるのか、ということだ。おそらくそのコスト負担って平等ではないですよね。もちろん、意志・覚悟を持って不平等な議論コスト・リスク負担を引き受けている論者・活動家は既にいるし、今後も出てくるだろう。その意志に「ただ乗り」するように、議論企画・運営者が不平等なコスト問題を見ない振りすること・あたかも克服できているかのように振る舞うことは、見過ごせない問題であると私は思う。
 喜多見氏の企画・参加者募集に対して、スタッフとしてファシリテートの専門家が付いてくれる可能性はもちろんあるだろう。しかし、私としては、「企画しました!人も集めよう!」という熱意とスピード感は尊敬・評価しつつも、むしろそのような「企画したい・すぐ実行したい欲」は警戒すべきだと思っている。まずは、現状の対話・議論状況に不満や危機感を持っていて、対話の場の設計について考え・試行したい人々で、それをテーマに一緒に(口頭)対話してみてはどうか(非公開でも良いので)。

 具体的トークテーマを決めて、そのテーマ決定の背景意図も話し合って……といった対話の場の準備の話し合いもプレ企画として配信・アーカイブするというのは良い考えだと思う。

追記:
『相手の持つ前提、背景や動機と相手の主張、これらを曲解せず、自分の持つ前提や主張とすり合わせようとするわずかばかりの誠意はいつだって、自分の知識・信念体系において世界や他者を理解しようとする引力のようなものに敗北してしまう。』(3節から引用)
 この部分は何とも考えさせられる文ですね。でも、もし仮に、他者理解が、どうしても原理的に、自身の知識・信念体系においてしかできないとしても、何らかの共通基盤に基づいて、取り除けない「フィルター」を介してでも、不可避の「誤解」を通じてでも、私たちは「より良い」他者理解のために誠実に対話をし続ける(目指し続ける)ことができます。

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