青識消費

 今回は、青識亜論氏のnote「『性的消費』とはなにかを真面目に考える」を拝読した感想を述べたいと思います。私は、性的消費も性的モノ化もよく分からないマンですので、文章中に混乱・根本的無理解などがあるかもしれませんが、指摘、批判を頂ければ幸いです。では始めます。

性は特別?

 やはり性的欲望のみを特別視する根拠が弱い。人間が他人の「欲望・享楽」の対象になるのが性的欲望だけとは思えない。「感動ポルノ」では、(障害者という)「弱者性」を「欲望・享楽」の対象にしてくれるなということがまさに言われたのではなかったか。「人間性はどうでもよく、ただ性的傾向性だけが傾向性の対象なのである。それゆえ、この場合、人間性は後ろに押しやられる。」カントのこうしたレトリックは、性的傾向性に限らず、弱者性などその他の属性にも当てはまるように思う。

 もし、「他者(の身体)に直接に向けられている」・「(他者の身体の)直接の使用」という点が重要であるならば、ポルノなどの表現物は問題対象にならないはずである。また、「享楽」が性的享楽に限定した意味であるならば、どうして「(性的)享楽の対象」が他の欲望対象(例えば、見世物としての「畸形」)と区別され、特別視されるのかが不明である。

 そもそも「人間性」とは何か。青識氏は「人間性(人格)」と書いてしまっているが、人間性は人格と同一物なのか。

労働の位置づけ

 (正当な)労働と(不当な)性的欲望とを対比させるような書き方を青識氏がしている理由は、よく判らない。「自由な選択意志」による労使関係をカントが正当だと見なしているということに触れるのは構わない。しかし、マルクス主義的には資本家労働者関係でも「モノ化」・「道具性」は問題にされるし、一部のラディフェミはその関係をセクシュアリティ関係に類推させて批判しているらしい(江口論文より)。であれば、単純に労働者を「『自由な選択意志』の主体」とみなして、『だから労働は問題ではない』というように論を持っていくことはできないと思う。

表現批判の困難さ

 ここからは、性的消費の中でも、表現における性的消費について考えてみる。

 以下は、加藤秀一「〈性の商品化〉をめぐるノート」『性現象論』の注12から引用。

 次に生じてくるのは、何が「性的」な行為で何がそうでないかをいかに決定するのか、という問題である。服を着た幼稚園児の写真だって観る者によってはエロティックなのだから、何がポルノで何がそうでないかを決めることはできないという、すでにお馴染みのアレだ。正直なところ、ぼくはこの類の議論には飽き飽きしている。そんなことはどんな馬鹿にだって分かることにすぎない。言うまでもなく、「性」はある対象の属性ではなく、対象へ向かう視線や欲望の側に内在する。それゆえ必要なのは、(中略)特定の対象を選んでそれに「性的」という意味を与える支配的な欲望の政治学なのだ。したがって、支配的なコードと個々の文脈との関係に照らして「性的」なものとそうでないもの、ポルノとそうでないものを分けることはできるし、そうでなければ、セクシュアル・ハラスメントなどという概念は無意味になってしまう。そこに曖昧な事例や逸脱が残るのはあたりまえのことだろう。赤川学は、右の箇所を批判して、「性」についての「支配的なコード」が何かについては「合意が得られない」ことを強調している(赤川[1996:28-29]『性への自由/性からの自由』)。右でも議論の余地が残る領域の存在は認められているのだから、ぼくと赤川氏の認識のちがいはそれをどこまで強調するかという程度問題にすぎないとも言えるが、(後略)。

 もし性的消費を悪だとするならば、性的領域に限らず、あらゆる属性をステレオタイプ的に描く表現、モノとして描く表現すべてを批判すべきであろう。(勿論、差別概念の中に性差別概念があるように、一つの分類として、性的消費という概念はあっても良いだろうが。)ある表現が性的か否かという(「合意が得られない」)議論に労力を費やすよりも、モノ化がなされているかどうかを議論すべきである。(即ち、女性のセクシュアル化、障碍者の弱者化・異形化、など。)では、モノ化に対して、どのような批判が考えられるか。

 美少女絵カバーの抱き枕は、それ自体モノ化されているとも言えるかもしれないが、それに誕生日プレゼントをあげるようなことは道具性の否定のように思われる。表現のありようだけではなく、使用法も問題になってくる。また、カリカチュア、オーバー・セクシュアリゼーションは、受け手のデコード(解釈)によっては、ポルノとしても機能するし、風刺としても機能する。表現への視線、解釈、使用を問題とするとき、それは個々の文脈とコードの問題である。表現への視線や解釈は「表明」されなければ批判できないので、性的消費表現の批判の多くは、ある表現単体を、「支配的なコード」に基づいて、「そのコードは性差別的だ、モノ化だ」と批判するしかない。

 こうして見ると、性的消費表現の批判は、差別表現の批判と同様に、詳細で緻密な言語化が必要であるように思う。というのも、「その表現は性的消費だ」と主張するだけでは不十分で、その表現の(ある一つの)解釈がどのような点でモノ化なのか、そしてどのようにモノ化をエンコードしているのか(つまり、見る・解釈する・使用する人々がモノ化をするように促すような仕掛けが表現にあるのか)、ということを示さなくてはならないからだ。

 翻って、性的消費表現を批判する人々の中で、そのように踏み込んだ批判をしている人が何人いたか知らないが、グリ美ちゃんでも何でも良いので、きちんとした「事例批判」があれば是非とも読みたい。上の引用部で加藤がセクハラに言及しているが、セクハラについてもレッテル貼りのような批判がツイッターではよく見られる。(青識氏の「環境型セクハラ」という言葉の用法にも私は批判的である。)「差別」も「セクハラ」も「性的消費」概念も、ガバガバ概念棒に終始するのではないことを望む。

 以下は、赤川学「売買春をめぐる言説のレトリック分析」『性の商品化』より引用。

 〈性の商品化〉というレトリックは、わかりやすいし、使いやすい。フェミニズム以外の人々をもまきこむ(動員する)ことにも長けたレトリックといえる。しかも現在では女性にとって不利な状況一般をこのレトリックはカバーするかのようである。しかし根本的な疑問は、売買春をはじめとして、ポルノ、ミスコン、セクハラなどフェミニズムが一括して〈性の商品化〉という枠の中にくくり容れている現象にも、それぞれ固有な問題構成があるのではないかということだ。〈性の商品化〉というレトリックはかえって、そうした固有の問題構成を隠蔽してはいまいか。わかりやすくいえば、このレトリックにポルノなりセクハラなりを根本的に批判しうる潜在能力が備わっているのだろうか。大いに疑わしく思う。

性的欲望は人間によって充足される?

 女性が男性の性欲の対象としてオモチャのように扱われる、という批判……は、〈性の商品化〉問題にも言葉を代えて密輸入されているとみなければならない。女性の「玩弄物視」から「商品化」へという、レトリックの転換点のなかにそのことが記されている。……もともと〈性の商品化〉の実質的な意味内容は「女性を、モノ=動物=器械=玩弄物=商品のように扱う(みる)」ということを意味していたのだから。おそらく「モノ=動物=器械=玩弄物=商品」という言葉に共通する属性は「人間として、人格として扱われない」ということであり、この意味では〈性の商品化〉といおうと「性の動物化」といおうと「性のモノ化」といおうと同じことなのである。(赤川 同上)
 セックスを……「商品」ではなく、「人格」の中核に結びついたものと捉えること。現代の〈性の商品化〉批判のポイントはここにある。標語的にいうなら「セックスの商品化」ではなく、「セクシュアリティの商品化」。ミシェル・フーコーならば、性を自己の人格、人間性、アイデンティティの中核に位置づけるような、この傾向をsexualizationと呼んだであろう。〈性の商品化〉批判が、こうしたセクシュアリゼーションのもとで可能になっていること、これはあくまでも確認しておきたい。(赤川 同上)

 青識氏の論にも、性的モノ化の過程で「女性が性的な存在にされること=女性のセクシュアル化(sexualization of woman)」が出て来た。赤川の言うセクシュアリゼーションと関係はあるだろうか。

 性的モノ化が問題視されるには、まず、女性が女性性(セクシュアリティ)を自らの人間性の中核に置き、「これは私(女性)のもの」と認識する必要がある(フーコー的セクシュアリゼーション)。次に、表現者が女性性を描く。このとき、性を描くことは、人間性を描くことだと見なされない。それどころか、性という人間性の中の重要な一部が、「商品・表現」としてその女性の外に現れる。つまり、人間性の残部と切り離されるという点が問題視されるのだ。こうして、女性という人間が性的なだけの存在として表現に描かれることになる(マッキノン的セクシュアリゼーション)。そうして、その表現はまた、女性の認識の中で、フーコー的セクシュアリゼーションを引き起こす。

 では、ここで問うてみよう。フーコー的セクシュアリゼーションが行われなかったなら?そんなことがあるだろうか。

 ラディカルに、女性性の多くは解釈で構築されるだけだ、としてしまえば、セクシュアリティ表現に対してどこまで「実在女性と同じ」と感じるかは不明瞭なものになる。「胸がなく、髪が短いけど、骨格が丸いから。」微細な表現から女性という属性を見て取るのは個々の解釈者だろう。(文学テクストだとなお。)女性だと「解釈することもできる」表現を、実在女性のために問題視する立場は、どこまで有効性を持つだろうか。

 例えば、女子用スク水を着た男性像を性的消費するのは、女性(女子)に対しても性的消費なのか。それは女性のセクシュアル化か?男の娘はどうか?そうしたグレーゾーンから典型的女性性表現までのスペクトラムを考えてみると、表現に女性を見て取るのは、実在女性を表現に落とし込んでいるからではなく、表現解釈の「支配的なコード」のためだということが分かる。

 キャラクターを見た女性が「私の体はモノ化されるものなのだ」と思うことは、その女性(解釈者)の被害妄想である、と言うと言い過ぎだろうか。つまり、女性性は本当に実在女性に属するのか?ここで、いわゆる「二次コン」の視点を取り入れてみる。性的表現は、実在女性を表現に落とし込んだ(還元した)ものに限らない。「女性らしさや男性らしさといったジェンダーを分かりやすくキャラクター化すること」(春原氏の分類から引用)が問題視されるのは、実在女性を模したその記号をモノとして解釈する・使うという場合においてである。モノ化の問題意識においては、実在女性との関係が常に意識されている。しかし、記号と実在女性との関係性がもはや薄れつつあるとしたら?つまり、ある表現が、女性をセクシュアルに記号化したものなのか、もはやセクシュアリティ記号それ自体として存在するものなのか、区別できるのだろうか。「人間性を単なる手段として扱っている」のではなく、手段として扱っている物に人々が人間性を見出しているのだとしたら。記号の向こう側に必ず人間がいるはずだという考えは、人間に欲望するのが当然だというセクシュアリティ観に基づいているのではないか。

 そして、ここまで性的消費の対象を「女性」と記述してきたことについて述べなければならない。当然、男性も性的消費され得る。ただ、性的消費に性別二元論を導入するのは不可能であるか、少なくとも不十分である。パンセクシュアルの人が中性やアンドロギュノスを性的消費するのは、実在する誰にとってのモノ化なのか。ケモっ子は男女どちらを「モノ化」したものか。

ゾーニングすれば解決?

 ポルノの「使用」に際して、「批判や批評の態度・視点はまったくない」という中里見氏の主張は確かだろうか?「使用」者は、「精神的、身体的、生理的作用の全体を通じて……性的快感と生理的反応をつうじて全身で肯定」するだけなのだろうか?

 あるポルノがある人の性的理想・性幻想を反映していれば、その人が「使用」時にポルノを全肯定する可能性は高い。(ここでの「肯定」とは、それが現実に起こると考えることではなく、批判的・批評的視点を持たないということである。)しかし、異なる性的理想を持つ別の人がいたとすれば、そのポルノを「見る」際にも「使用」する際にも、全肯定するとは考えにくい(例えば、興奮・快感の程度の不満)。

 当然のことだが、男性の全員が暴力的ポルノを好むわけではなく、そもそも、女性が登場するポルノを見るのは男性だけではない。とすれば、異なる性的理想を持つ人々が批判しあうことで、批判的視点を内面化できる。少なくとも、批判的視点が存在するということは認識されるだろう。(フェミニズムからの批判はまさにそれを目的としていると思う。)ならば、多様な性的理想を持つ人が、ポルノに対して活発に言論を交わすことが必要である。この点で、余りにも厳格にゾーニングしてしまうのは、かえって問題であるかもしれない。

 瀬地山角「性の商品化とリベラリズム」を参照してみよう。表象の持つメッセージを問題とする場合に、内容の性差別性や、女性をモノとして扱っていることが男性の持つ女性像に影響を与えるといった「フェミニズム固有の内容批判」は尊重されるべきだと瀬地山は述べる。しかし、

 しかし表象のファンタジー性を考えると、内容批判には限界があると考えざるを得ない。女性の声に応えた性差別的ではない商品をもっと流通させるという戦略とともに、ある種の棲み分けを行っていくことしかできないだろう。(『フェミニズムとリベラリズム』4章)

 これに対し、江原由美子が言うには、内容批判の主旨は、「見たくない」という点ではない。

 「棲み分け」こそが、「男性向けに作られた暴力AVを男性だけが見ている」状況を生み出し、そのことが「女性は男性が振るう暴力から性的快楽を得る」等の「神話」を、維持・流通させているとも考えられるからである。……もし(実際の性関係への)悪影響が生じ得る可能性(リスク)があるとするならば、……そのリスクを負わされる可能性を持つのは、ほとんど女性ということになる。「棲み分ければそれでよい」といかない理由はここにある。(同書内 6章)

 例えば、細身の女性を理想・規範として描く表現が多ければ、それは男女問わず人々の感性構造をある程度規定するであろう。それにより女性の摂食障害などが生じることもあるだろう。そうした「偏った」表現市場に対して、新しい表現をもっと流通させるというのは青識氏のスタンスに近いと思うし、合理的な戦略だと思う。

 一方、青識氏が、そして江原が述べているように、もし内容が批判されるべき表現であるなら、ゾーニングされているかどうかは問題ではない。批判の根拠は、見てしまった不快感ではなく、性差別性やモノ化されていることであるからだ。

最後に

 青識氏の論考に、最後の最後で「フェミイズム」という誤字を発見。

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