表現規制反対派からの応答

 ふわふわエッセイを批判してもあまり意味がないと思うのだが、労力を惜しんでスルーしておくのも良くないと思うので、ちゃんと言及しておくことにする。

「ボールクラッシャーと呼ばれて Vol.5 変態大国ジャパン」

『※この記事で小児性愛を「ロリペド」と表現しているのは、治療と向き合う「ペドフィリア」とはハッキリと区別したいからである。ネットや漫画でカジュアルに表現されるような小児性愛を指して「ロリペド」とする。また、「キモオタ」と表現しているのも、「オタク」とは区別したいからである。』

 この区別はよく分からない。「カジュアルに表現されるような小児性愛」を「ロリペド」と定義し呼称するのは勝手だが、それと対比されるのは「カジュアルに表現されない小児性愛」であるはずであって、「治療と向き合う」かどうかは無関係ではないか。もし両者を対比的位置に置き一方を批判するならば、表現・表出の問題を越えて、小児性愛を治療しようと思わないことさえも筆者は望ましくないと考えているのか、ということになる。

 また、「キモオタ」とキモくない「オタク」とを区別するのは、意図しない範囲に批判対象を広げないようにするという点で賢明だと思うが、結局、「キモオタ」カテゴリの定義、どういう人がそこに入るのかは不明瞭である。

『ロリペドのアカウントも、あっけらかんと、「女児の性器を舐めた」などと明かしているが、いっこうに逮捕されないばかりか、凍結される気配すらない。』

 vol.7の記事だと、『ロリペドがネタ的に幼児の性器を舐めたとツイートしている』と、「ネタ的」と判断しているが、本当に実行していなかったとしても逮捕されるべきだと考えているのか、vol.5記事公開後にあれは「ネタ」だという考えに変化したのか。

『わたしも息子とYouTubeを観ていて、ドラえもんのサムネイルがのび太としずかちゃんの強烈なエロ画像だったことにショックを受け、嫌がるしずかちゃんの絵が、息子に悪影響があるのではと懸念した。』

 ゾーニングやフィルターの議論の俎上に積極的に上げるのは良いと思うが、「悪影響」の理路が不明瞭。

『保護者の自衛も大切だが、生まれた時からネットに触れている子どもはすぐにフィルターなんか外せるようになってしまう。』

 そうなのか?今どういう仕組みでそういうフィルターをかけているのか私はあまり知らないけど、それじゃあ結局、発信者・サイト側がゾーニングをしても子ども本人が掻い潜っていくだけなのでは。

 また、様々な表現が例示され一緒くたに論じられているが、盗撮など犯罪の成果物たる表現は削除等対応すべきで、同じゾーニングの議論でも、子ども・「18禁」という話と、単に不快な表現という話と、性差別・性犯罪肯定表現という話は、切り分けたほうが良い。

『前述のような「性犯罪を肯定的に捉えた表現」や、「萌え」系のイラストの氾濫が環境型セクハラにあたると怒っている人々を、「まなざし村」と揶揄する、何よりも「表現の自由」を重んじる人々がいる。』

 肯定的に捉えているかどうかをどうやって判断するのか、「萌え」系のイラストの中でもセクハラかどうかの基準はどのようなものか、ということが明らかにされるべき(少なくとも合意形成のために議論されるべき)であるのに、基準を明示せず一方的に糾弾すること、或いはその基準が不当であったりダブルスタンダードであることが問題視されて揶揄されているのではないか。(揶揄がそもそも建設的な議論に不必要であり、「まなざし村」という揶揄がレッテル貼りのようになっている現状は宜しくないとは思うが。)

『「表現の自由を守る!」とは言っているのだが、「チンポム」のような超有名なアート集団の表現が弾圧されているという記事を華麗にスルーしたり、政治的な表現規制についてはまったく関心を示さず、どうもエロコンテンツの自由にしか興味がないので、一部で彼らは「せんずり村」と呼ばれている。』

 「表現の自由を守る」という主張と反して、一部の表現だけを気にして他の表現の自由の問題を無視するという態度は批判されてしかるべきだとは思うが、危機に瀕する表現領域の自由を重点的に擁護するのは戦略として当然だし、性的表現がしばしば矢面に立っているというのは、歴史を見ても現状を見ても事実である。そうした理由ある「偏り」に対して「せんずり村」という揶揄は不当だと思うし、相手を「女性を性的対象とする男性」として想定するのもどうかと思う。

 また、「チンポム」(Chim↑Pom)のようなアート集団の表現が弾圧されているというのはよく分からないが、グラフィティなどに関して軽犯罪法を改正しなければ表現の自由が守られているとは言えないということか。勿論そういう立場もあるだろうが、各事例が「表現の自由」の問題と言えるのかどうかというのはきちんと考えるべき。

『ロリペド漫画の愛好家に児童の殺人容疑がかかっているのは事実であり、それが報道されることは、今の日本社会ではごく当たり前のことだ。どんな痛ましいニュースであっても、下ネタをタレ流しにできる今の世の中を守ることが最優先で、事件の深刻さを度外視し、なりふりかまわず戦闘モードに入るのが「せんずり村」のイタさなのだ。』

 「事実であり、それが報道されることは、今の日本社会ではごく当たり前のこと」であるということと、その報道が差別的偏見に基づいていることは両立する。事実であれば、犯罪者の国籍や病歴などを強調して報道して良いのだろうか。それに対して憤ることが、「事件の深刻さを度外視し」「被害者や遺族への配慮はそっちのけ」であることになるのだろうか。

『わたしは自民党や、陰謀論者などの文句ばっかり言ってるのだが、ダントツでクソリプが集まるのはキモオタの文句だ。その量だけで判断しても、キモオタはマイノリティーとはとても思えないのだが、キモオタにはなぜか強烈な被害者意識、被差別者意識がある。』

 何をもって「クソリプ」と見なしているかが不明だが、まず、反論リプライの量は、その「文句」の妥当性などに左右されるだろう。また、ツイッターの「クソリプ」の量でマイノリティでないと判断してよいのであれば、女性からの「クソリプ」の多さから女性はマイノリティではないと言うことも可能であると思うが、それでいいんだろうか。

『こうもモラルが崩壊し、醜悪極まりない性犯罪を肯定した娯楽作品があふれ、どんなシリアスな事件でもネタとして消費するのをヨシとされていては、表現規制も致し方ないのかなと思う。』

 表現規制やゾーニングをすれば人々のモラルが改善されるのだろうか。或いは、人々のモラルが改善されなくとも、表現によって「被害」を受けることがなくなればそれで良いということか。「表現市場」の状況によって表現規制の当否を決めるというのは、「表現の自由」理念から最も遠い発想だろう。

『表現の自由のためには、各業界や、発信者の自主規制や自浄努力は必須だ。少なくとも犯罪行為を肯定する表現は、子どもや、それらを見たくない人の目に触れないように努力するべきだ。表現の自由を守りたいなら、ロリペド漫画やエロコンテンツのタレ流しに怒る人に抗議するのではなく、まず、「せんずり村」が18禁という概念を思い出し、インターネットは公の場なんだと、認識を改めてほしい。』

 ゾーニング等の議論を積極的にしていくことには賛成。しかし、「自主規制」や「自浄努力」の欠如が「表現の自由」の制限を正当化するというのは同意できない。

「ボールクラッシャーと呼ばれて Vol.7 聞け! 表現の自由戦士!」

『「●●人は日本から出て行け」という表現が守られたら、●●人は国籍を隠し身を潜めなければならなくなる。この「●●人は日本から出て行け」は、「人権侵害を伴う表現」ということだ。』

 飛躍。差別表現の自由があるということと、カムアウトできずにパッシングしなければならない現実社会かどうかということは別。また。それを「人権侵害」と言えるかも疑問。

『性暴力を肯定するような表現に触れたくない人々への配慮は必要だ。そして、エロコンテンツを簡単に見られる便利さよりも、偶発的に性暴力に遭遇してはならない人への配慮の方が優先されて然るべきだ。例えば、過去にレイプされたことによって、そういった表現を目にするとフラッシュバックが起きてしまう人はたくさんいる。』

 ゾーニングやトリガー警告の議論の俎上に載せることは大いに結構。ただ、「性暴力を肯定するような表現」と「性暴力」を混同して良いか。また後述のように、そもそも「肯定」しているかどうかをどう判断するのか。

『エロの氾濫と少子化を結びつけるなんてもってのほかだ。』

 この部分は、どういう「結び付け」を想定しているのか分からなかった。

『ずっと表現規制には慎重であるべきと思っていたのだが、こんなにモラルが低下し、性暴力を肯定する表現への怒りすら許容できないのであれば、規制は免れないのではないか。「ちびくろさんぼ」が発売されなくなった経緯に習って、議論の活発さによって社会に悪影響を及ぼす表現が淘汰されていくのが理想だ。けれども、昨今の「民度」ではそれは望めそうもないなと、消極的に表現規制賛成に少しだけ傾いている。また考えは変わるかも知れない。』

 性暴力を「肯定」しているかどうかをどう判断するのかとか、「社会に悪影響を及ぼす」とはどういうことかという論点は一旦横に置いておいて。上で既に一度述べたが、モラルが低下したから、表現市場の現状が望ましくないから、という規制理由が自由を脅かすのを防ぐためにこそ、「表現の自由」理念が重要であるのだ。悪化してきたから規制しますという発想ではなく、「表現の自由」と衝突する「権利侵害」事例が対処されていないとしたら、モラルが十分あったとしても規制などで「表現の自由」を制限すべきだし、そうでないならばそれは自由であるべき。

 「昨今の『民度』」を表現・議論によって変えていくことができないのならば、「議論の活発さによって社会に悪影響を及ぼす表現が淘汰されていく」という理想をどうやって実現するのだろう。「『民度』が高い人々が多い社会における『淘汰』は可能だが、『民度』が低下してくるとどうしようもないので規制します」という仕組みが前提としているのは、議論によってより良い正義を考え出し、人々の考えを変え、表現市場を変えるという淘汰ではなく、むしろ、議論する前から主張を同じくする人が多いから数の力で勝つという淘汰である。表現市場の意味を、表現・議論が持つ力を、そのように捉えるとき、現実を変革・改善することに対して、悲観的にならざるを得ない。現実世界を生きる人々の考えを変えられないのに、どうやって現実世界を変えることができるのか。

『反社会的な表現がアリかナシかの線引きをするのは非常に難しい。しかし、線引きができなくとも、ダメなものを判断することはできる。例えば、子どもとセックスしたり、女性をレイプすることは違法だし、それを肯定する表現に怒るのはごくごく普通のことだ。パンチラを盗撮してネットに拡散なんて、明らかな犯罪だし、きちんと怒って通報して淘汰していかなければならない。(中略)「あなたにダメなものを判断する権利があるんですか?」と、問われることがあるが、ダメなものを判断して、そう発言することに権利もクソもない。それこそが「表現の自由」だ。』

 何を根拠に、どういう意味で「ダメ」と言っているのか、どういう「自浄」が必要だと言っているのか、という点が重要である。「私個人が嫌い・不快であり、特に何も求めないが言いたいことは言う」ということなら、「表現の自由戦士」は何も言うことはない。しかし、あるポルノ漫画が性犯罪や違法な行為を「肯定」しているという点でその表現を批判したり、表現物の取り扱いに差をつけるべき(ゾーニングや規制等)とするならば、物語表現が行為を「肯定」するとはどういうことなのか(どういう描写だと「肯定」していることになるのか)という議論が必要になってくる。(また、単にゾーニングされれば良いのか、批判によってより良い表現生産を目指すのか、というのも気になる。)表現への評価・批判も当然「表現の自由」の下に守られるべきである。しかし、同様に批判への反論もあり得るし、ゾーニングなど何かしらの対応を求めるなら、より緻密で、踏み込んだ議論が必要であろう。

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