AI生成物は基本的には著作権はなく、創作意図及び創作的寄与があれば著作権が得られるというふうに言われています。(参考: 文化庁 AIと著作権 )
この記事では、前者の著作権がないAI生成物について、表現の自由で守られるべきなのかについて考えていきます。
広島AIプロセス等で国際的なルール作りの議論がなされている最中であり、生成AIと法律・憲法等の関係性については多くが検討段階にあると思われる現状を踏まえると、結論は出せないとは思いますが、原理に従って考えることは叶うでしょう。
自分にはあまり詳しい知識がないので、間違っている箇所があればご指摘いただければと思います。
見出し画像は落書きなので特に意味はありません。
表現の自由が保証する対象について
表現の自由は憲法第21条に定められているものです。
精神的自由権の一つです。
世界人権宣言第19条でも定められています。
精神的自由権について見てみると、
というように、表現の自由は「各個人の内面的」なものを表現する自由を指しているようです。
19条の「思想及び良心の自由」を実現するために20条、21条、23条が存在するという考え方もあるようです。(参考: HOUGAKU Cafe 表現の自由とは?どこまでが「表現」に含まれる?わかりやすく解説 )
表現の自由は、表現する行為者を主体として保障されており、その行為者は人であることが前提となっております。
著作権のないAI生成物は、創作的意図及び創作的寄与が認められないものですから、それは「各個人の内面的」なものを表現したとは言えないのではないのか、すなわち表現の自由の保障を受けないのではないのか、という疑問が生まれるわけです。
そして、機械が表現の行為者であっても表現の自由を適用するのかという話にもなるでしょう。
ただし、世界人権宣言においては、「情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。」と記されていて、この「情報」は「各個人の内面的生活」との関係性を必要としないかもしれません。
表現の自由に保証されるか否かが、実際にはどう判別されているのかを見てみると、
上記のように、違憲性を鑑みて判断されるようです。
憲法上に「表現」の明確な定義がない以上、著作権のないAI生成物がどういう判断になるのかは未知数というのが実情だと思います。
新しい概念の出現によって解釈を変えることも十分考えられるでしょう。
表現の自由の価値について
表現の自由には、自己実現と自己統治という二つの保証根拠があるといわれています。
著作権のないAI生成物を表現の自由の範囲内に入れることで、これらの価値が得られるのかを考えていきます。
まず自己実現について見ていくと、果たして著作権のないAI生成物は自己を自律的に規定するために使うことができるのかという疑問をもちます。
生成AIの学習・出力に際して、AI利用者が関与する部分はプロンプトの入力等僅かであり、また出力物にはランダム性が伴います。
どういったラベル付けを行って学習したかによって、生成AIはバイアスを持つこともあります。(参考: ジェネレーティブAIが抱える問題を浮き彫りにする「1本のバナナ問題」とは? - GIGAZINE )
これはAI利用者が自律的に選別・選択していない部分が大多数であることを意味しており、自己自身への理解はむしろ薄まってしまうのではないのかと感じます。
文部科学省が発表した「初等中等教育段階における生成AIの利用に関する暫定的なガイドライン」では、感性や独創性を発揮させたい場面等では生成AIの利用は適切でないと考えられています。
子どもは使いこなすのが難しいといった面もあるかもしれませんが、子ども自身が自律的に選別・選択しない部分が多いために、「自分で判断する」必要性を訴えているのではないかと思います。
次に自己統治についてです。
民主主義における共同決定のためには、個人個人が意見を持ち、発することが出来る環境が必要です。
著作物とは、その人の思想または感情が表現されたものを意味しますから、著作権のないAI生成物は思想または感情が表現されていない、若しくは十分に表現されているとは言えないものだということになるでしょう。
人による表現というよりかは機械による表現である、と言えるでしょう。
これは生成AIとは異なるかもしれませんが、AIの判断を参考にした例です。
「最後は専門の職員が判断している」としていますし、AIを取り入れたことで良い結果となったこともあったかもしれません。
私が問題に思うのは、民主主義の思想とAIによる判断の活用は相容れるのかという点です。
個人が意見を持つために参考にする、表現のために参考にする、といった用途ならば問題ないかもしれませんが、
人間の意見とAIの意見を同等に扱うようなことになれば、AIに人権を与えるようなことになりかねません。
著作権のないAI生成物そのものを表現の自由で保障することは民主主義に必要なのでしょうか。
【追記:国際シンポジウム:AIと民主主義 | 東京大学未来ビジョン研究センターにおいて、AIが民主主義にとって脅威となる場合や有用になる場合について話題が挙がっており、一概に白黒つけられないことが伺えます。】
もうひとつ、表現の自由には「思想の自由市場」という価値があります。
文章生成AIは誤情報をさも真実かのように回答することがあり、ソース元を明示しないものも多いです。
画像生成AI、特にリアルな画像を生成するものは、事実と異なる画像を出力するため、容易にディープフェイクが作れてしまう危険性があります。
メタ情報のないAI生成物は、情報空間を不安定にさせることはあっても安定させることはないのではないかと思います。
おわりに
国内では、表現の自由のために生成AIを推進すべきだという意見が見受けられます。
しかし、AI生成物を表現の自由で保障すべきかどうかという事自体をそもそも議論する必要があると思いました。
著作権のあるAI生成物に関しては表現の自由で保障されるであろうと思いますが、そうなると「どの程度の創作的寄与で著作権を与えるべきか」は非常に重要な論点になると思います。
そして、まだその先にも問題が残っています。
生成AIは検討するべき懸念事項が山積みであり、やみくもに推進するべきものなのか疑問を持つべきだと思います。