「夕焼けは」から始まる物語、シロクマ文芸部、2625文字
夕焼けは、僕の欠けた時間なんて問題じゃないと言ってくれているようで、いつも僕の心を温かくしてくれた。
病室の窓から見えるその光景は、日が沈むにつれて鮮やかな赤と橙に染まり、やがてすべての色を失って暗闇へと変わっていく。
僕は、この病院にどれくらい入院しているのだろうか。日にちも、月日も、はっきりとは覚えていない。ただ、いつも夕焼けを見つめることだけが、僕にとって唯一確かな日課だった。
記憶を失う時間があると知ったのは、もうずいぶん前のことだと思う。気がつくと自分がどこにいるのか、どうしてそこにいるのか、わからないことが頻繁に起こるようになった。
時には、誰かと会話をしていたのに、次の瞬間には見知らぬ場所に立っていることさえあった。そんな僕を不安に思った家族が、僕をこの病院に連れてきた。
その日、僕はいつものように病室の窓から夕焼けを見ていた。濃い赤色の光が空全体を染め上げ、雲の切れ端が燃え尽きて消えていく。僕はぼんやりとその光景を眺めていた。
ふと、視界の隅に何かの影が映った。右側には、建物から突き出した病院の壁があって、そこにも規則正しく病室が並んでいた。その病室の窓際に、ひとりの少女が立っているのに気づいたのだ。
ワンピースを着た、小柄な少女。彼女は、こちらをじっと見つめていた。彼女は僕をじっと見つめていて、僕は視線をそらすことができなかった。
それ以来、彼女は毎日、夕焼けが沈む時間になると、必ずその窓際に現れるようになった。僕は最初、彼女もきっと入院患者の一人なのだろうと思って、深く考えなかった。けれど、彼女が窓の前でただ立ち尽くし、夕日が消えるまで動かずに僕を見つめ続ける、その姿を何度も見るうちに、彼女は僕に何かを伝えたいんじゃないかと思った。
「君は誰?」と、ある日、僕は小さな声で窓の向こうに問いかけた。当然、彼女には聞こえなかっただろう。でも、そのとき、彼女はほんのわずかに微笑み、首を傾げた。その仕草が、僕の胸を締め付けた。
僕は彼女のことを確かめたくて、ナースステーションで彼女について尋ねることにした。
「あの病室にいる少女は何という名前ですか?」
すると、看護師さんは一瞬驚いたような表情を浮かべて、そしてすぐに首を振った。
「患者さんの個人情報は教えられないんだけど……あそこはずっと空き部屋のままよ」
その答えを聞いたとき、僕は全身が凍りつくような感覚を覚えた。
「そんなはずはない」
そう言った僕に看護師さんは微笑むだけだった。
彼女は確かに、毎日僕の目の前に現れた。夕焼けが見えるあの時間、いつも同じ場所で、僕をじっと見つめていた。
僕は動揺を抑えられず、いつもの夕焼けの時間に、その病室へと向かった。ドアの前に立ち、深呼吸をして、ノックをしたけど返事がない。ゆっくりとドアを開けた。扉は静かに開き、中には誰もいなかった。薄暗い病室の中に、窓からの夕焼けが静かに差し込んでいるだけだった。
僕はその場に立ち尽くし、ただ窓の外を見つめた。彼女の姿はどこにもない。
その時、急に頭が痛くなってうずくまった。痛みを振り払うように目を閉じた。そして、意識が飛んだ。
彼女と僕は、その病室で並んで夕焼けを眺めていた。彼女は笑って話してくれた。
「私のことを覚えていないの?」
笑顔なのに、どこか寂しげで、どこか憐れむような表情だった。その笑みが僕の胸に冷たいものを突き刺す。僕は必死で彼女の顔を思い出そうとした。でも、何も浮かんでこない。ただ、心の奥底で何かが軋むような感覚があった。
「覚えていない」
僕は首を振り、彼女はそれを見て、さらに小さく笑った。
「ユウタ。私は……あなたなの」
「僕、だって……?」
僕は呆然とその言葉を繰り返した。一瞬、なんの冗談かと思った。でも、冗談を言っている顔ではなかった。彼女は頷き、手を自分の胸に当てて、恋人にでも話しかけるみたいに言葉を続けた。
「あなたの中には、もう一人の『自分』がいたの。忘れたの? 私はあなたの『別の人格』。あなたが意識のない間に現れる、もう一人のユウタ。そう、あなたの中で、私はずっと一緒に生きてきたのよ」
「別の……人格?」
僕は彼女の言葉を理解しようとしたが、頭の中が混乱していた。彼女が何を言っているのか、理解ができなかった。
「ええ。あなたが失っていた時間、途切れていた記憶。それは全部、私があなたの体を使って過ごしていた時間なの。あなたが目を覚ますと、私は消えて、あなたは何も知らないままになる。あなたが治療を受けていたのも、その『記憶の途切れ』を治すためだったのよ」
僕はその場に立ち尽くし、彼女の顔をまじまじと見つめた。彼女は僕を見返しながら、ゆっくりと手を伸ばし、僕の頬に触れた。冷たい指先が、僕の肌をなぞる。けれど、その感触は確かにあった。
「私は、ずっと、あなたを守っていたのよ。あなたが自分自身を見失わないように」
彼女の言葉が頭の中を反響し、僕は足元が崩れていくような感覚に襲われた。失われた時間。何も覚えていない瞬間。それは――僕の中で、彼女が存在していた時間……?
「治療が進んで、私の存在は次第に薄れていったわ。だからもう、あなたの中に私はいない。でも、せめて最後に――あなたに本当のことを伝えたかった」
僕は彼女の顔を見つめた。彼女の輪郭が、夕焼けの光の中で徐々に溶けていった。僕の体の中から、僕自身の一部が消えていくのを感じた。彼女は、僕だった。そして僕は――これから一人で生きていくんだ。
「さよなら、ユウタ。あなたはもう、一人で大丈夫よ」
そう言い残し、彼女は僕の目の前でふっと消えた。僕は声を失い、ただその場に立ち尽くしていた。彼女がいた証は、もうどこにも残っていなかった。
「君は……僕だったんだね」
誰もいない病室で、その言葉は虚しく響いた。彼女はずっと僕に伝えたかったのか。
僕は夕焼けが完全に消えるまで、ずっと窓の外を見つめ続けていた。そして、心の中で静かに囁いた。
「さよなら。ありがとう。僕の中にいてくれて」
彼女はもういない。僕は一人になったのだ。夕焼けの光が消え、病室はただの薄暗い空間に戻っていた。
それ以来、夕焼けを見ても彼女の姿は現れない。僕は退院し、元の生活に戻った。病院の窓から見た、あの夕焼けの色は、今でも僕の記憶に残っている。けれど、そこにいた彼女は、もはや過去の思い出だ。
僕は一人の「ユウタ」として、これからを生きていくのだと決意した。
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