アナーキテクチャーを目指して



高山建築学校 にて2023年8月11日に講演した内容です。 


アナーキテクチャーと聞いて、アートが好きな人ならゴードン・マッタ=クラークのグループ名を思い浮かべるだろう。この語は建築家のレベウス・ウッズの著書のタイトルにもな っている。私としては一般概念としてのアナーキテクチャーというものを考えたい。つま り、アナーキズム的建築、あるいは支配なき建築である。アナーキズムとは、できるだけヒ エラルキーのない社会を目指そうという考えである。アナーキズムと聞くと日本では(無政 府主義という訳語もあり)危険思想のような印象をもつ人もいるかもしれない。実際、政府を転覆させるためのテロがアナーキズムの名の下に行われたこともあった。しかし私が主張 したいアナーキズムは平和主義的なものである。 
支配なき建築というのは不可能であると思われている。建築にとって、建築を設計する 人々と設計に従って建設する人々のあいだのヒエラルキーが必要だと考えられている。ま た、設計者の間のヒエラルキー(建築家とその事務所の所員たち)や、労働者の間のヒエラ ルキー(多重下請け構造など)が必要であると考えられている。ヒエラルキーによって、複 雑で大規模でありながらも、一貫性、統合性、包括性をもった建築を効率的に実現すること が可能になる。ヒエラルキーがなければ、ばらばらのカオスになる、と。 
じっさいに、これまでの建築はこうしたヒエラルキーのなかで設計され建設されてきたの だし、社会のヒエラルキーに基づく富の集積によって実現されてきた。建築家は、教会であ れ国家であれ大企業であれ、権力に仕えることで壮大で革新的なビジョンを具現化してき た。そのために建築家はまた、権力による支配に積極的に協力してきた。象徴的建築は、た とえば、宗教的世界観を表現するカテドラルや、ナショナリズムを表現する庁舎は、規範の 内面化による人々の支配のための手段として用いられてきた。機能的な建築は、たとえば、 労働生産性を高める工場やオフィス、消費を促すショッピングモール、労働力の再生産を支 援する住宅地、それらを効率的に結ぶ交通網などは、身体に直接的に作用して人々をコント ロールするために用いられてきた。このように支配は建築にとって切っても切れない要素と して浸透している。支配なき建築などというのは、ナイーブなお花畑的夢想にすぎないとい うようなことを、大学でのレクチャーで有名な建築家が述べるのを聞いたことがある。 
また、建築、アーキテクチャーとは語源的には職人の頭目の技術であり、すでに支配 の概念が入り込んでいるともいえる。建築家、アーキテクトの語源であるギリシャ語のアー キテクトンは「アルコン」と「テクトン」という言葉からなっている。テクトンは職人を意 味し、アルコンは頭目、首領、支配者を意味する。だからアーキテクトンは職人の頭目であ る。一方で、アナーキズムはアルコンつまり支配者を否定する考え方である。だからアナー キズム的建築というのは語義矛盾だとも言える。
しかしアーキテクチャーの「アーキ」を「原初・原理」としての「アルケー」として捉え ることもできる。つまり社会的な序列ではなく、時間的、論理的な序列として見るのであ る。そのばあい、建築とは、作ることの原初・原理だと言える。アナーキズム的建築として のアナーキテクチャーは、支配なしに作ることの原初・原理であり、アナキスト的建築家としてのアナーキテクトとは支配なしに作ることの原初・原理の探究者である。 
私は可能なかぎりヒエラルキー的な権力関係が存在しない、対等な関係の中での相互扶助 を基本とした社会を理想としている。そのようなアナーキズム的社会においても、これまで 同様に身体をもった人間が生存するならば、建物や道具などの物理的環境を作っていくこと が必要となるはずである。しかしこの制作の方法は、ヒエラルキーを前提とするものであっ てはならない。支配なしに私たちの環境をデザインする必要がある。そして支配なしに環境 の要素を製造し、修繕し、廃棄する必要がある。しかし今日の環境の構成の仕方は、大きく ヒエラルキーに依存したものである。権力関係がなければだれもやらないような労働に依存 している。だから新しく生活環境の構成の仕方を考え直す必要がある。アナーキズム的建築 はアナーキズムにとってどうしても必要なのである。 
アナーキズムの思想の中でも建築に関して議論がなされてきた。それは主に住宅問題に関 してである。それについては別の機会に論じるとして、支配なしに作ることの原初・原理としてのアナーキテクチャーの探究のためのいくつかの観点を挙げる。
 

1 功利から探究へ 
なぜ私が可能なかぎりヒエラルキー的な権力関係が存在しない、対等な関係の中での相互 扶助を基本とした社会を理想としているかというと、人々が「探究」できる状態が良いとい う私の倫理観がベースになっている。 
探究という概念を、私は哲学者C.S.パースからかりてきている。パースはプラグマティズ ムの創始者として知られているが、認識論において可謬主義という立場を主張した。認識論 は知識の由来を問う哲学の分野である。合理論や経験論といった立場が認識論の伝統的な立 場としてあって、合理論は明証的な原理を、経験論は経験的事実を、知識の基盤にすえる。 知識を何らかの絶対的な基盤の上に基礎づけようという認識論の立場を基礎付け主義とよ 
ぶ。合理論や経験論は、明証的な原理や経験的事実を知識の絶対的な基盤であるするかぎり 基礎付け主義である。パースは基礎付け主義が成り立たないと考える。それはあらゆる認識 が習慣に媒介されているからである。つまり先入見、色眼鏡、バイアスが常にあって、無垢 な目で対象自体じたいを捉えることはできない。しかしパースは、習慣は可塑的であり、変 化していくことが出来ると考える。この習慣の変化のプロセスが探究である。探究は、アブ ダクション、演繹、帰納という三つの推論形式からなる。アブダクションは、驚き、つまり 習慣にもとづく予想からの逸脱をきっかけに、仮説をうみだす。演繹は仮説がただしければ どうなるはずかを予想する。帰納は予想と事実を照合して仮説を検証する。ここには原理か らの演繹という合理論の要素がふくまれているが、その原理は仮説によって得られたもので あり知識の絶対的基盤ではない。またここには事実からの帰納という経験論の要素がふくま れているが、事実の認識も解釈であるとされ、知識の絶対的基盤となるわけではない。 
パースは、世界を説明する、より真なる理論を生み出すことを目指した科学的探究を主に 想定して探究の理論を構想した。しかし私は、真だけではなく、善や美をめざす探究がある と考える。真を目指すのは論理学的探究であるが、善や美を目指すのは倫理学的、美学的探 究である。これが善なのではないかとか、これが美しいのではないかという仮説をもち、そ
れを試してみる。それによって(人間であれモノであれ)他者からフィードバックがえられ る。そうやって得られたフィードバックが習慣を更新するきっかけとなる。もしこれが善な のではないかとか、これが美しいのではないかという仮説を、仮説にとどめて、なんらかのかたちで実際に試すことができなければ、その仮説にたいするフィードバックは得られず、 習慣を更新する機会もうしなう。 
倫理学において功利主義と直観主義という考え方がある。功利主義は行為が生み出す帰結 がもたらす快や不快の総量によって行為の良し悪しをつけようとする。直観主義は行為じた いに良い悪いがあると考える。功利主義にしたがえば、建築の設計や建設の作業が労働者に とって不快なものであっても、その結果生み出される建築を利用する者にとっての快がそれ を上回るものであれば、その作業は良いということになるだろう。直観主義にしたがえば、 建築の設計や建設の作業が死者を生み出すような方法であるのなら、それじたいとして悪い ということになるだろう。 
しかし人間は進化の過程にあって、その価値観は多様で変化しつつある。功利主義や直観 主義は、価値判断の基盤を直観や功利に求めるのなら、価値に関する基礎付け主義であると いえる。認識論とパラレルに、価値に関する可謬主義が必要である。価値にかんする探究を つうじて価値を捉える習慣が進化すると考える。 
そこで、私としては人が行為の良し悪しについて、それぞれで探究できるという状態が良 いと考えている。つまりひとつメタの次元で良し悪しをかんがえる。何が良いのか悪いかに ついての仮説を表現し、それへのフィードバックを受け取ることをとおして、その倫理観を 深めることができる状態が、より多くの人々にとって手に入ることが良いと考えている。 
ヒエラルキー的な権力関係においては、より権力をもつ者が規定する物事の良し悪しに従 う必要があるから、この探究の機会は多くの人にとってうばわれてしまう。対等な関係の中 での相互扶助を基本とした社会において、この探究の機会がより広く行き渡るだろう。 
このような可謬主義的な価値論においては、功利主義的な要素や、直観主義的な要素はそ の一部に組み込まれるが、しかし価値の基礎付けにはならない。たとえば、私としてはヒエ ラルキー的な権力関係のなかで人を支配することが、それじたいとして悪である、と直観主 義的に考えている。が、それは絶対の原理ではなく仮説である。また、アナーキズムを功利 主義的に、あるいは帰結主義的に正当化するような試みとして、サイバネティクスにおける 
「必要多様性の法則」を援用し、社会システムの維持にとって集中的なコントロールより分散的なコントロールのほうが安定するといった議論がなされているが、この場合でも社会シ ステムの維持を目的としなくてもいいわけであり、基礎付けにはならない。 

2 商品からコモンズへ 
私たちは物事を貨幣価値で評価するのに慣れてしまい、一方では自分たちの労働が生産性 で評価されることにも慣れてしまっている。貨幣価値が唯一の価値であるかのようにみなされる。そのなかで独自に価値を探究することが困難になっている。これは私たちの生活の市 場への全面的な依存のためである。 
カール・ポランニーは社会的統合の三つのパターンとして、互酬、再分配、交換があると いう。互酬とは相互扶助であり、たとえば、コミュニティで助け合って家を建てるというこ とである。再分配は1箇所に集めてから分配することであり、たとえば行政が税金を集めて 公共住宅を提供することである。交換は、市場におけるやりとりであり、たとえば住宅メー カーから住宅を購入することである。資本主義は交換を、社会主義は再分配を、アナーキズ
ムは互酬を重視する。資本主義においては交換が肥大化するとともに、再分配と互酬は交換 に従属するようになる。つまり経済成長のために税金が用いられ、賃金労働を支えるために 家事労働がなされる(シャドウ・ワーク)。行政、市場、コミュニティという三つのセクタ ーを、再配分、交換、互酬を主な原理とするものとしてみることができる。もちろんどのセ クターにおいてもこの三つは混在しているが。 
建築家のジョン・ターナーは20世紀中頃から後半のラテン・アメリカで住居政策の研究 を行なった。都市の拡大のなかで居住者によるセルフビルドの住居群が生まれていたが、主流の都市計画はこれをスラムとしてネガティブにとらえ、一掃して集合住宅を建てようとす ることが多かった。ターナーはしかしこうしたセルフビルドの住居に積極的な価値を見出し た。ターナーは建築のデザイン・施工・管理を、行政・市場・コミュニティのどれが担って いるのかという観点から分析を加えた。行政による集中的なデザインでは居住者の多様なニ ーズを十分に汲み取ることは不可能である一方、居住者コミュニティによるデザインは居 
住者のニーズに適応したものとできるとかんがえた。 
ターナーが批判したのは行政主導の環境デザインであるが、今日より問題となっているの は市場主導の環境デザインである。すなわち資本の自己増殖の手段として、つまり投資先と して街がデザインされるとき、おのずとそれは居住者のニーズとは離れたものとなる。ジェ ントリフィケーションの問題である。 
アナーキテクチャーはコミュニティによる互酬をベースとなされる建築である。しかしそれはターナーのように単に居住者のニーズへの適合という点から優れているだけではない。 じっさい、たとえば「客観的」に規定された快適性のような指標にもとづけば商品として生 産される建築のほうが快適だということになることは用意に予想できる。重要なのはニーズ の自治であり探究である。 
またターナーから学べることは、アナーキズム的な理念にもとづく実践が容易にリバタリ アニズム的で新自由主義な趨勢に飲み込まれるということである。ターナーの理論は世界銀 行によるサイト・アンド・サービスという住居政策にむすびついた。これは、行政は公共住 宅を用意するかわりに敷地と基礎的なインフラのみを用意し、あとは居住者がセルフビルド を行うというものである。「スラムの惑星」という書籍は、これが結局のところ行政が低所 得者の居住環境を整備する責任を放棄する新自由主義的な政策になったと指摘する。本来な らば政府の責任であることが人々の責任にされる。 

3 戦略から予示へ 
アナーキズムの中で生まれた政治運動の原理として、予示的政治prefigurative politics という考えがある。これは戦略的政治と対比されるものである。戦略的政治においては、目 的のために手段を合理化し、効率化しようとする。たとえば、ヒエラルキーのない社会を実 現するために、ヒエラルキーのある組織を作って闘争しようとする。これにたいする批判か ら生まれたのが予示的政治という考えであり、これは手段において目的が予め示されてい るべきだというものである。つまりヒエラルキーのない社会を実現するためには、その手段 となる運動の組織においてもヒエラルキーがないようにすべきである、というものである。 
一般的なデザインの考えは、将来における望ましい状態という目的のための手段として物 事の形を合理化させるという、戦略的なものである。これに対して、予示的デザインと言う 言葉で意味したいのは、目的となる環境を実現しようとするプロセスじたいに、その目的が 表現されているようなデザインである。アナーキテクチャーについて言えば、デザインされ
た環境がヒエラルキーのない社会を支えるような空間的形態を持つということだけではな く、デザインと施工といったそれを生み出すプロセスじたいをヒエラルキーのない社会関係 のなかで行う、ということである。こうしたことが意味するのは、デザインと施工のプロセ スの全ての要素が、目的にとっての手段としての価値のみではなく、それじたいとしての価 値を持つということである。 
しかしながら現に今の社会にはヒエラルキーが存在している。したがって予示的デザイン は今ここで、つまり、従来通りにヒエラルキーが存在するこの社会のなかで、ヒエラルキー のない社会を、小規模で不完全でもよいので、同時並行的に実現する、というニッチ(生態 学的地位)の形成である。 

3’作品からプロセスへ 
ヴォザールの様式建築から脱却することで現代建築―空間という形式と機能という内容か らなる建築作品という考え―が生まれた。ル・コルビュジェが「建築をめざして」を出版し たのが1923年であり、今年はちょうどその100年後である。しかし、いまだに建築家 たちは空間と機能にとらわれて、新しい機能にふさわしい新しい空間を設計しようとしてい る。これはアールデコやアールヌーボーの建築家が装飾や様式にこだわっていたようなもの だ。もうそろそろ空間と機能からなる建築作品という古い考えから脱却したほうがいい。 
アナーキテクチャーにおいては、作品のために設計し建設すると考えて作品の価値のため に設計や建設を犠牲にするというのではなく、設計や建設や、あるいは使用や廃棄も含めた プロセスの価値を大事にしたい。もちろんプロセスの全体は複雑すぎるからコミュニケーシ ョンに載せることができない。現代建築はプロセスから空間と機能という断面を切り取って これを作品だと考えた。今やいろいろ情報技術も発展したので、別の断面を作品とすること が可能になっている。 

4 問題解決から対話へ 
従来的なデザインの考え方では、デザインは問題解決としてみなされる。予想される将来 と望ましい将来の間にギャップがあるとき、これが問題となり、そのギャップを解消するた めの手段を構想しようということになる。しかしデザイン理論において言われてきたよう に、デザインの問題の決定的な定式化というのは不可能である(ホルスト・リッテルのいう 
「意地悪な問題」)。価値観によって問題は異なるし、また解決を与えるなかではじめて問 題が明らかになる。問題と解決は相互に依存している。したがって科学的な設計は存在せ ず、設計は常に政治的・倫理的なものとなる。ドナルド・ショーンは、デザインとは「状況 の素材との対話」であると考えた。状況の素材とは設計者のあつかう諸要素であり、たとえ ばスケッチである。設計者がスケッチを描くときに、それは全く設計者の思い通りになるこ とはなく、多かれ少なかれその意図から逸脱するものとなる。この「口答え」を聞いて設計 者は、何が問題でそれを解決するとはどういうことかを規定する「フレーム」を更新してい く。このように設計においては常に意図から逸脱する「他者」(それは人間でもモノでもよ い)が介入するのであり、むしろこの他者との対話をとおしたフレームの変化が設計の本質 にある。 
アナーキテクチャーにおいては設計や施工のプロセスじたいが、単なる手段ではなくそれ じたい目的として重視される。そのため問題解決としての設計という考え方はなおさら不適 当なものとなり、対話としての設計という考えが妥当になる。設計のあつかう状況はコント
ロールしきれず、予想から逸脱する。そのような逸脱を認めて、それに対して新たな動きを 発想し実行する。即興性をもった生き生きとしたプロセスがそれじたいとして価値をもつ。 

5 御仕着せの社会関係から自治的な社会関係へ 
対話的なデザインのためには社会関係のデザインのあり方を考え直す必要がある。今日の 産業的な設計においては、発注において仕様が明示され、契約においてその仕様を満たす製 品を納期以内に納めることが約束され、設計者はそれを遵守することが求められる。また組 織の中で、それぞれの役割のなかで定められた仕事を期限内に終わらせることが求められ 
る。そこで設計にたいして問題解決的な見方をとることが避けられない。設計の対話的な側 面やそれをもたらす不確定性を排除し、プロセスの予想可能性を拡大していこうということ になる。こうして作業や材料の標準化が進む。この標準化はそれじたいとしては問題ではな いが、あとで述べる労働者からの知識の奪取をもたらす場合は問題である。 
ある社会におけるクライアントと設計者、設計者や施工者のあいだの権利や義務は、その 社会においてしばしば自明とされるわけだが、とはいえ恣意的な規範である。医者に患者を 期限内で完治させることが求められはしない。この場合、患者の身体は不確定性を孕んでお 
り、治療が予想通りになるものではないことが当然であると理解されているからである。医 者と患者もまた権力関係になりやすいので、決してそれを理想としようということではな い。しかし設計施工もまた、不確定性を孕んだモノの世界を扱うのだから、本来ならば予想 通りになるものではない。 
社会システムや規範とは、世界の複雑性を縮減し、予想通りのものとして経験できるよう にするという機能をもつ。クライアント、設計者、施工者が現行の規範に従うと相互に期待 できることで、相互に安心して仕事を依頼したり受託したりできる、と考えられる。プロフ ェッショナルな業者がそれぞれの社会において規定されたそれぞれの仕事を全うすることで 社会が回っている。産業的なクライアントワークがこうした社会を成り立たせている。非産 業的で非クライアントワーク的な仕方でのモノづくりは社会を棄損するものだとさえみなさ れる。DIYのようにプロフェッショナルがなすべき仕事に素人が手を出すのは危険だといよ 
うなことがいわれる。プロフェッショナルな仕事にたいする侮辱であると捉えられたりもす る。たしかに、こうした立場からすれば、それは悪ですらある。実際に素人が適当に建てた 家が地震で倒れたり、適当に建てた車が事故を起こしたり、といったことは起こりうる。産 業的なクライアントワークは品質保証の役割を担ってきた。 
しかしながらこうした既存の社会関係が搾取をうみだしていることも事実である。いかに それが安全安心の基盤となっているといえ、対話的なデザインを妨げる既存の社会関係は維 持しつづけるべきものはない。 
アナーキズムは無規範を目指すわけではない。またすべての人が従うべき普遍的規範の主 張は最低限のものに留められるだろう。アナーキズムにおいて重視されるのは社会的関係の 自治である。アナーキテクチャーはもちろん、保守と革新という対立でいえば、明らかに革 新の側に立つ。しかしこれには付け加えるべきこともある。一般的に革新主義は理性に基づ く現状の変更を重視する。他方で保守主義は理性の限界を弁えて既にある価値を維持しよう とする。この意味では、革新と保守はアクセルとブレーキのようなものなので、両方必要で あると言わざるを得ない。たしかに理性は万能ではない。人類に全てを計画する力はない。 理性によっては説明しつくせない、守るべき既存の価値があるだろう。権力関係に依存した これまでの建築にも、守るべき価値があるだろう。たとえば伝統建築は徒弟制的なヒエラル
キーに依存しているが、それによって可能になってきた美学があることは否定できない。し かし重要なのは、現状において権力を持つものと持たないものが存在し、それぞれは異なる ように世界に晒されているというフェミニズム的視点である。保守主義者は既にある価値を 重視するが、それは自分が権力をもつ側にいるからではないか、反省しなくてはならない。 現状において虐げられているものにとっては、現状の変更は差し迫った当然の要求である。 
社会関係は確かに全く好き勝手にデザインできるものではない。慎重さは必要である。し かし、やはり可塑的なものでありデザインできるものであると考えるべきである。 ウェングロウとグレーバーは「万物の黎明」において、従来の社会構造の進化論に異を唱 えている。つまり、比較的平等主義的な遊動と狩猟採集の段階から、定住と農耕の段階に移 ると、富が集積しヒエラルキーが生まれるというストーリーを批判している。実際に近年の 考古学の研究から、そのようなことは言えないことがわかってきている。先史時代の大規模 な集住地には、ヒエラルキーの不在をうかがわせるものも存在するのである。太古から人類 は自らの社会構造を意識的に実験的にデザインしてきた。ところが、近代の社会構造の進化 論はいまの社会構造を自然化し、その恣意性を隠蔽したのである。 
社会関係の自治的なデザインにとって参考になると思われるのは近年のポリアモリーにお ける実践である。これは、複数との性愛的関係を全員の同意のもとに築くものである。モノ ガミー(一夫一妻)を相対化する立場であり、持続的な関係性の構築を意図する点でフリー セックスとは異なる。そこでは性愛を含む人間関係に関する実験が行われ試行錯誤の末、新 しい概念が生み出されている。たとえば自分が愛するものが自分以外を愛することへの喜び の概念としてcompersionという概念がうみだされている。 

6 設計と製造の分離から融合へ 
中世までの建築においては、設計は建材や敷地に紐や棒で目印をつけることで施工の現場 でなされた。建築家は職人の頭として、設計施工を指示した。マリオ・カルポによれば、ル ネサンス期に活躍したレオン・バッティスタ・アルベルティは、設計と施工を分離し、設計 のみを行うようになった最初期の建築家である。この分離を可能にしたのは首尾一貫した表 記法にもとづく正確な設計図を描く技術である。 
しかし設計と製造の分離が一般的に広まるのは、近代になってから、産業革命の前後であ る。それは労働の機械化によって可能になった。ここで機械化と呼んだのは機械を利用する ようになることではなく、人間の労働を機械的にすることである。近代の窯業において設計 と製造の分業による革命をおこしたウェッジウッドの手紙の中に、「人間機械を準備中」と いう言葉が出てくる。産業革命はたんなる機械の導入ではなくこの人間の労働の機械化であ った。自律性をもって設計と製造を行う職人ではなく、指示された通りに振舞う労働者がう みだされた。人間の機械化のために教育による規律訓練がなされた。 
アナーキテクチャーにおいて労働者はみずからの労働を決定する。設計と製造あるいは施 工は融合したものとなる。施工は自律性をもつ。施工は設計どおりにのものとはならず、施 工のなかで設計がなされる。つまり設計と施工は即興性をともなったものとなる。 
アナーキテクチャーは分業を否定するものではない。それぞれの人間に得意不得意がある のは当然であるから、分業は当然のものである。人々はだれしも欠如をもつので、相互にケ アをしあう。ところがこの分業は権力構造を伴うものであってはならない。つまり、デザイ ンが得意な人と実際に手を動かすのが得意な人がいて、一方は主にスケッチを描き、他方が
主に施工するということはあってもよい。しかしそれは一方から他方への指示ではなく、ケ アでありインスピレーションである。 

7 閉じた設計図から開かれた設計図へ 
設計と製造の融合に伴って設計図のあり方も変化する。一義的に解釈される指示としての 設計図から、多様に解釈され、即興を促す設計図への変化である。 
アンナ・ハルプリンとローレンス・ハルプリンは1960年代に「ワークショップ」をデザイ ンに最初期に導入したことで知られている。彼らはアナーキテクチャーが参照すべき重要な 観点を提示している。プロセスを、全ての部分が価値をもっていて、相互作用し、常に変化 する、多元的なエコシステムとして見るべきだということ。参加者やその動機や意図がその 重要な要素であること。支配的な視点がないようにすること。ゴール志向的にしないこと、 などである。ハルプリンらの言葉でいうと設計図は「スコア」である。スコアには閉じたも のと開いたものがある。一義的なスコアは閉じていて、多義的なものは開いている。即興を 促す設計図は開いたスコアであるはずだ。しかし、なんでも即興的であるほうがいいという わけでもなければ、なんでもかんでも開いていればいいわけではない。どこを閉じてどこを 開くか。スコアの開き方をどう決めるか。 

8 知の搾取と管理から自治へ 
マルクスは、資本主義社会においては資本家が生産手段を独占することで、労働者が自ら 物を生み出す力が奪われることを批判し、生産手段の共同所有を主張した。資本主義社会に おいては資本家が独占する生産手段とは道具類だけではなく、生産にかんする知識でもあ る。「設計と製造の分離」とは、より一般的に言えば「構想と実行の分離」であるが、ブレ イヴァマンが論じるように、これは労働者から知識を奪取するものである。つまり熟練労働 者が価値形成に必要な知識を持っていることは、資本家からすれば剰余価値を生み出す障害 となるので、資本家はこの知識を奪取し、熟練労働者を非熟練労働者におきかえようとす る。その結果、一方では構想を行う少数のエリートと、他方ではエリートの構想にしたがっ て単純労働を行う大多数へと人々を二極化させる。労働は置き換え可能なものになり、労働 者は自らの労働への統制権をうしない無力化する。この変化は生産性を高めるものとして合 理化されるわけだが、こうして資本による労働の支配が強化される。私たちの生活はますま す、熟練労働者の暗黙知ではなく、資本家が所有する知的財産に依存するようになって行っ ている。多くの設計や建設の現場で作業は単純労働化し、誰がやっても変わらないものとな る。 
アナーキテクチャーは、このような知を独占から開放するものであるはずだ。アナーキテ クチャーにおいては建設現場が、そこにおいて固有の知が生み出される研究所となる。建設 現場において新しいアイデアが生み出され、実験され、評価される。参加者の多様な「探 究」が相互に影響しあいながら進んでいく。単なる手段としての知だけではなく、目的につ いての知が生み出される。置き換え不可能な固有の価値観が表現され展開される。 

9 生産と消費の分離から融合へ 
資本主義社会においては、労働者が生産に必要な知をうばわれ無力化されるのと並行し て、生活者が生活に必要な知を奪われ無力化される。つまり、生活者が価値形成に必要な知 識を持っていることは、資本家からすれば剰余価値を生み出す障害となるので、資本家はこ
の知識を奪取する。そのために、生産と消費の分離がなされる。サービスの提供と享受が分 離される。たとえば、料理、裁縫、あるいは家の修繕といったことは、多くの生活者がもつ 生活のための知恵であった。そこでは生産と消費、サービスの提供と享受は不可分である。 資本主義社会においてはこうした活動は面倒で時代遅れのものとして宣伝され、かわりに商 品を買うように促される。そして、こうした生活の能力を失うことで人々は、より強く商品 に、市場に、依存するようになる。こうした変化は、生活を便利にするとか、安心安全にす るとか、効率的にするといった建前のもとになされる。 
アナーキテクチャーは、生産と消費、サービスの提供と享受をふたたび結びつける。建築 は住まわれることを通して居住者によってデザインされ、改変される。 

10 モノローグ的美学からポリフォニー的美学へ 
一貫性、統合性、包括性を志向する美学が建築を支配してきた。建築家の事務所の所員た ちはその建築家のクローンのようになってデザインすることで、建築を一つの美学でまとめ あげる。こうしてカチッとした、綺麗な建築がうみだされてきた。単一のパースペクティブ が支配する、モノローグ的な美学である。それはそれである種の美を持っていることを受け 入れないといけない。しかしこれは、ヒエラルキー的な権力関係によって可能になる美であ る。 
アナーキテクチャーにおいては、かかわる全ての者が自律的に自らのパースペクティブを 表現する。したがってそれは複数の異なるパースペクティブが併存するという、ポリフォニ ー的な美学をそなえる。ポリフォニーとは哲学者のバフチンがドストエフスキーの小説の批 評において用いて語であり、単一の包括的な視点が存在せず、登場人物それぞれの異なる視 点が並行して存在することを表している。 
建築におけるこのようなポリフォニー的な美学は決して稀なものではない。計画都市では ない、生きた伝統的な都市においては、時代の異なる異質な価値観を持った建築が併存する ことで、ポリフォニー的な美学が実現されているだろう。 
アナーキテクチャーのポリフォニー的美学は、これまで抑圧されてきた視点を浮かび上が らせるものとなるはずだ。それは単一の美学による専制を否定する。しかし権力関係に依存 したこれまでの美学を否定するのではなく、それと同時並行的にオルタナティブな美学をう みだす。 

11 機械論から物活論へ 
近代的なデザインやモノづくりの基本的な理解は次のようなものである。モノは受動的な 存在であり、モノに形を押し付けることが作ることである。この形を事前に考えることが設 計である。そして設計は、モノの形を、人間の目的のための手段として合理化するものであ る。 
この背後にあるのは機械論的な世界観である。インプットに対してアウトプットを返す機 械としてモノをみる。インプットとアウトプットの関係を定義する関数を見つけることがで きれば、モノをコントロールできる。 
こうしたモノの捉え方は、人間の捉え方にも反映される。人間もインプットに対してアウ トプットを返す機械として扱われ、その生産性やスペックが云々される。 基本的なモノの捉え方、世界観を問わないといけない。モノをそれじたいとして自律的 な、それじたいとして価値をもつものとしてみたい。そこで物活論hylozoism的な世界観を
ベースにしたい。物活論とは、デカルトやホッブズのような機械論がひろまりはじめた17 世紀に、それらを批判してラルフ・カドワースという哲学者が作った言葉だ。物hyleと生命 zoeというギリシャ語からできていて、モノが生きているという考え方である(カドワース 自身は物活論を主張しているわけではなくて、無神論であるとして否定しているが、「形成 的自然」plastic natureを認める点で物活論を評価している。)パースのしそうも物活論的 なところがある。パースは宇宙を生きた習慣であると考える。アブダクション、演繹、帰納 からなる探究とは人間の思考のなかの話ではなく、宇宙の進化のパターンでもある。物理法 則は可塑性を失った習慣であるとして、人間の習慣と物理法則を連続的にとらえる。逆にい うと、人間や生き物にくらべれば可塑性は小さいかもしれないけれど、モノもまた生きた習 
慣である。デザインも、モノを作ることも、モノとの対話である。モノとの対話をとおし て、人間もモノも習慣を変えていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?