ティモシー・モートン「ウイルスとの共生に感謝」およびに「これは私の美しい生命圏ではない」の感想

ウイルスとの共生に感謝

ウイルスに関するティモシー・モートンの論考 "Thank Virus for Symbiosis”にかんする日本語の記事を読んだ。

引用されている文章。

生とは両義的なものなのです。ラテン語hostisは、主人、客人、友人、敵を意味します。したがって『歓待(hospitality)』とは、あなたがドアを開く相手は殺人鬼かもしれないということを意味しています。私は死にたいとは思わないし、このウイルスによって誰にも死んでほしくないです。しかしここで私は『活発に生きる(alive)』ということが『生き延びる(survival)』ことと対照的に何を意味しているのかを理解したのです

もとの文章も無料で読める。

Life is ambiguous. The Latin word hostis means host, guest, friend, enemy. Hospitality means you might open your door to a killer. I don’t want to die. I don’t want anyone to be killed by this virus. But I only just figured out, long story, what “alive” meant as opposed to “survival.”

この文章の直前にはこうある。

Life is not a fascist bundle where everything is integrated into the one true community, where you get your identity from that “something bigger” to which you belong. Life is a loose collective of uneasy alliances.

「生とは、すべてが一つの真なるコミュニティに統合され、そこにおいて人は自分が属す「大きな存在」からアイデンティティを得る、というファシスト的なまとまりではありません。生とはぎこちない連盟による緩い集まりです。」

ウイルスは「敵」だと見なされ、ウイルスとの「戦争」が主張されている。しかし、敵を排除することで「生き延び」ようとすることは、「活発に生きる」こととは違う。生命とは両義的でぎこちない仕方でウイルスと共生してきた。ウイルスのあり方は、美、と似ている。美もまた両義的であり、それを過大にもとめれば人は死んでしまう。そんな感じのことが書いてあった。

これは私の美しい生命圏ではない

モートンが関心をもって取り組んでいるのは、「人新世」anthropoceneと呼ばれる、現代を含む地質学的時代についてだ。石油を掘り起こして燃やすといった人類の活動が地球環境に大きな影響を与えている、そういう時代。そこでは、地質学と人間性の境界が消え去っている。別の論文 "This is not my beautiful biosphere" も少し読んでみた。

The Anthropocene collapses the difference between the human realm and so-called nature. Boundary collapse has resulted in what I prefer to call the end of the world, which is to say the collapse of a meaningful and stable background against which human events can become significant, as on a stage set. In turn, the loss of distance has resulted in a powerful sense of the uncanny and the strange. (This is not my beautiful biosphere)

「人新世は人間の領域と自然と呼ばれてきたものの間の差異を崩壊させる。境界の崩壊は、私は「世界の終わり」と呼ぶものをもたらしている。それは意味深く安定した背景が、つまりそれを舞台セットのようにして人間的な出来事が意味を持っていた背景が、崩壊するということである。こうして距離の喪失は、不気味なもの、奇妙なものの強い感覚をもたらしている。」

この不気味さの出どころを、カントやハイデッガーは人間存在に求めた。しかしショーペンハウアーは実在そのものに求めた。実在そのものが穴だらけなのだ。そしてそれは数学において数と数の集合の間にカントールが見つけたギャップでもあるという。モートンもまた「実在とは両義的で矛盾したものだ」と考えている。無矛盾律はその実在を捉えられない。

「気候、生命圏、放射線といったエコロジカルな存在は、時間的にも空間的にも巨大すぎて、ものを定常的な存在としてみる私たちの習慣的な考えを破ってしまう」。そのように直接的には知ることのできない存在をモートンは「ハイパーオブジェクト」hyperobjectと呼んでいる。エコロジカルな存在についてそれを完全にとらえる言語は存在しないから、それについての思考は「暗い」ものとなる。それが「ダークエコロジー」である。何も見えないわけではなく、知れば知るほど不気味なものがみえてくる。エディプスが自分の犯した罪を知るように、ダークエコロジーにおいて人間は理性を働かせればするほど人間にとって都合の悪い事実を明らかにする。すなわち、温暖化をもたらしている産業は「農業の時代」(いまの私たちもそこに属す)の必然的な帰結であり、したがって「エコロジーの時代」は「ポスト農業の時代」であるはずだということだ。こうして、エコロジー的な覚醒は、それまで物事があたかも本来的であるかのように持っていた意味を奪い、不気味なものをもたらす。理性は、前農業の時代が知っていた人間と非人間の共生を思い出す。「それは暗い。なぜならそれは私たちを生み出した憂鬱な傷に気づくように私たちを強いるから。つまり、私たちが呼吸している酸素を作りだし、浮袋から肺を作りだし、人間による地球の支配から破壊的で屈辱的な理性を作り出した、ショックとトラウマと大変動に。」

感想

「活発に生きる(alive)」ということと「生き延びる(survival)」ということの差異は、ウイルス対策として監視社会化や権威主義化が肯定されそうないま、とても重要な指摘だと思う。ここで思い起こされるのは、人間というのがそもそも「生き延びる」ために自分たちを家畜化してきた生き物なのではないかという、そういう「憂鬱な傷」のことである。しかしそれは人間がこれからも自己家畜化を推し進めるだろうということではない。それこそ魚類が両生類に進化するときに「浮袋から肺を作り出」したような仕方で(最近の生物学ではそうとは考えられていないらしいけれど)、即興的に生命は進化してきたのだから、危機において人間もまた全く予想できない仕方で変わっていくかもしれない。だから、「暗い」としても、別に憂鬱になる必要はないだろう。肝試しみたいなもので、何が出てくるかわからないのを楽しんだらいい。

先日、「表土とウイルス」の感想文でこう書いた。「エコロジーの思想はしばしば、調和した矛盾のない自然の姿を理想として、エコロジーの回復をその理想に至る道として想像する。この見方にたいして私は懐疑的だ。人間がいなくても環境は対立と矛盾にあふれているのではないか。」モートンの思想は、そのあたりのことと深くかかわる。エコロジーの破壊あるいは回復と呼びうる事態が起きる。またそれを私たちは、人間中心主義的なものではなく、環境の側にある価値であるように信じている。ところが環境がそもそも両義的で矛盾したものなのである。その全体像は捉えることができない。「「エコロジーの時代」は「ポスト農業の時代」であるはずだ」という言葉にははっとした。たとえばよくあるように「近代」とかではなく、そもそも農耕文明にまでさかのぼって、何千年単位の変化を考えている。そして前農業の時代における、非人間というhost(主人、客人、友人、敵)との共生を思う。ポスト農業の時代というのがどういうものになるのか、なかなか想像がつかない。そういう薄暗いところに目を向けさせてもらえるのはありがたい。

追記
・エコロジーの時代は、ポスト畜産の時代でもあるのだろう。土地に対して農業がやっていることを、家畜に対して牧畜がやってきた。管理社会化、生政治、といったものは、同じようなことを人間の身体に対して行う。それは近代に始まったわけではなく、畜産がすでに胚胎していたのだろう。
・絶滅したほかのヒト属たち、たとえばネアンデルタール人との関係も、憂鬱な傷になっているのかもしれない。
・あらゆる農業が家父長制や国家や工業に結びつくということではないかもしれない。たとえば縄文人の農業はどうだろう。



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