島影圭佑さんと話した内容

今年の春くらいに京都のinta-netという場所で会ったデザイナーの島影圭佑さんへのコメントです。せっかくなのでノートに残しておきます。

上記リンクのような活動をしているということで、感想を求められて下記をか送りました。

島影さんの活動をとおして、「日本を思索する」のスペキュラティブ・デザインの流れと、otonglassのようなfab/生産の民主化の流れが交差しているとかんじました。この二つの交差するところでそれぞれにはなかったものが生まれることを指すことばが「現実の自給」なのかなと。つまり、これまでのスペキュラティブ・デザインは一般的に問題設定の手前の可能性の探索をめざすために、あえて当事者性をもたないようにしているとおもうけれど、そうではなく障害のような差し迫った問題への当事者性がある(「日本を思索する」での身体性への注目は、そうした展開の起点だといえるかもしれません)。またfabや生産の民主化の議論では主に生産の物質的・情報的な面に注目していたが、それだけではなく精神的な面に注目する、というようなことがいえるきがします。「現実の自給」と似たような感じで、ぼくは「主観性のDIY的生産」という言葉をかんがえたことがあります。資本主義的な主観性の生産にたいするオルタナティブをさぐりたいということがあります。

上記コメントへの応答として、島影さんは、a「問題解決」、b「問題提起」、にたいするオルタナティブとしてc「問題の只中を生きる」という「臨床的」な態度がある、と整理しました。その後、京都芸術大学での島影さんのレクチャーを聞きに行き、下記の感想文をおくりました。

ぼくとしては、問題の只中を「共に」生きる、ということを考えたいものです。個人が自己完結させるという自給自足ではなく、それぞれに不完全な人間が、他の人間や物と相互に依存しあいながら自分たちのニッチを構築する、そういう関係性を生み出すこと。デザイン・アート・アカデミックともに、作者名を歴史に刻もうとするゲームぽい面が前景化すると、自己完結した個人の間のバトルになりがちです。もちろんそれによって生み出されるものの良さもあるのでしょうが。島影さんのばあい、二つの方向性が面白い感じでまざっているのかなと思いました。 個人が各々の現実を立ち上げるというのは万人の万人にたいする闘争を意味するのではないか的なはなしもありました。それにかんして、前にふれた、ハラウェイが「状況づけられた知」でのべている「フェミニズム的客観性」がかかわってきます。科学論の文脈で、もともと20世紀なかごろまで実証主義的な科学論が強かった。科学というのは客観的なモノの観察によって基礎づけられるというみかたです。それにたいして、20世紀なかごろから批判があった。ハンソンのいう理論負荷性とか、クーンのパラダイム論など、科学といえども社会的に作られているという、社会構成主義的な科学論です。後者は相対主義的になる。ある理論からはこう見えるし、別の理論からは別にみえる。相互に共約不可能。こうなると科学というのも権力闘争だということになってくる。こうした相対主義は「どこからも見ているようでどこからも見ていない」、「姿をくらます」ような無責任な態度だというのがハラウェイの主張です。フェミニズム的客観性というのは、実証主義的な普遍性を主張するものではなくて、自分がどこから見ているのかという状況や身体にもとづく部分性に責任をもつことこそが客観的であるという主張です。どのような見方も部分的であり、何かを無視する暴力性をはらむのですが、権力をもつものともたないもののあいだには非対称性があって、権力者側は姿をくらますことができてしまう。部分的でなく普遍的であるふりができてしまう。だから権力を持たない側の視点のほうが信頼できる。 スペキュラティブデザインは、未来にはいろんな可能性があるねという問題提起をするのですが、積極的に自分はこういうのが良いという主張は控える。そこにはハラウェイが批判するのと同様の、自分の姿をくらます相対主義的な無責任さがないか。これにたいして、問題の只中を生きるというのは、それぞれにとってそれぞれの現実があるねという相対主義的な態度ではなく、身体性・状況性・部分性という、フェミニズム的客観性の要求であるとおもいます(ハラウェイの近年の本のタイトルがStaying with the Trouble: Making Kin in the Chthuluceneで、まさに問題の只中を共に生きるというはなしをしています)。それはもちろん万人の万人にたいする闘争を肯定するものではなく、むしろそれを肯定するような態度を無責任であるとかんがえ、みずからの見方の暴力性にたいして責任を取ろうというものです。そして責任をとるというのは自己完結した個人にエージェンシーを還元することではなく、それぞれに不完全な他の人間やモノとのコミュニティのなかでの応答可能性です。 それぞれに不完全な人間が、他の人間や物と相互に依存しあいながら自分たちのニッチを構築する。そのときの暴力や権力関係の問題というのはひきつづき考えたいテーマであります。 ところで、DIYによる主観性の生産にかんしては前にここで書きました。スペキュラティブデザインに触れてるところは今読むと浅いです。https://note.com/hylozoic/n/n7cc806f0b0e9


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