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I have a dream

プロローグ

“I have a  dream”

これはロシア侵攻に対してウクライナの大統領が国連でスピーチに使った言葉である。
果たして日本人のなかでこの言葉の背景の重みを知っているひとがどれだけいるだろう?

この言葉はアメリカ人、特にアフリカ系アメリカ人にとってはとても特別な言葉なのである。

また、【Black Lives Matter】運動もそうだ。“なぜ彼らは一斉に声を上げるのか?”
違和感を持って眺めている人も多いかもしれない。

日本にいる私たちは島国なゆえに“実感”という意味で世界との隔たりがあることも多い。この隔たりを乗り越えるために必要なのは少しでも正しく歴史と現状を学び、彼らが受けてきた痛みを少しでも理解すること。

それがまずは最初の一歩なのだ。

※黒人や白人などの言葉は嫌いなのですが、当時を伝えるのにこちらの方が伝わりやすいのでこの表記にさせていただきます。

南北戦争

“I have a dream”このことばの意味を語る前に、前提としてアメリカの歴史を識っていなければならない。

かつて“自由の国アメリカ”は黒人奴隷制を強いており特に南部ではタバコや綿花などの産業が盛んで、そこでは安い労働力として黒人奴隷を輸入し使役していた。

もはや奴隷制度でしか成り立たない経済基盤のシステムが出来上がってしまってた南部と強固な資本主義的なもの(※労働には正当な賃金が支払われなければならない)を標榜しているために奴隷制度そのものが邪魔な北部がぶつかり1861年〜65年にかけ戦争状態になった。
南北戦争である。

激突の果て北部が勝利し、ときの大統領リンカーンは【奴隷解放】を宣言。
選挙権も与えられ、黒人の自由が保証された瞬間である。
しかし、ここが彼らの幸せの絶頂だったのかもしれない。

人種隔離政策

しかし敗戦当初は大人しかった南部の州も、少しずつ黒人の権利を制限する州法を加えていき、いわゆる【分離政策】で足枷をどんどん増やしていくのである。

【分離政策】とは

  • 選挙権をもつためには識字能力が必要  ※当時黒人の識字率はとても低かった

  • 黒人は陪審員になることができない

  • 公共の場で白人と黒人の居場所を分ける

  • 白人と黒人の結婚は不可

などである。特に陪審員になれないことは痛恨の極みであった。

裁判になったら、勝てる見込みはまず無い。
ということを意味するからである。

それがどういうことか、実例をあげてみよう。
かなりショッキングで胸くその悪くなる内容なので、苦手な方は飛ばして読むことをお勧めする。

エメット・ティル惨殺事件

若干14歳のエメットは叔父の家に遊びに行ったが帰ってこず、近くの川で変わり果てた姿で発見された。
彼は拷問され目玉をくり抜かれ、頭を銃で撃ち抜かれたうえ有刺鉄線でぐるぐる巻にされた状態で川に捨てられていたためふやけてしまい目も当てられない姿だったそうだ。

犯人はごく普通の雑貨屋の店主。理由は彼の妻に口笛を吹いて“bye baby”と言ったからだそうだ。

恐らく、理解出来ないと思うのだが当時の白人の常識として、黒人は野蛮である。というのが根底としてある。
そして黒人の男性と白人の女性との性的なコミュニケーションはタブーであり、彼の行いはそのタブーに抵触してしまったのである。

エメットの両親はもはや誰だが判らなくなってしまった息子をみて、これを世間に公表することを決意し、新聞やメディアを使って彼の遺体を全米に発信したのである。
このセンセーショナルな事件を期に少しずつ黒人の【公民権運動】に火が灯っていく。

余談ではあるが、雑貨屋の主人は裁判の末“無罪”となっている。

モンゴメリー•バスボイコット事件

1955年アラバマ州でローザ・パークスはバスの運転手から白人に席を譲るように言われ、それを拒否したことで逮捕された。
※当時の州法では、白人の席と黒人の席は分けられていて白人の席が満席になった際は黒人は席を譲ら無ければならない。とあった。

そこで彼らはバスに乗らない選択をし、次の日は黒人の乗客はゼロ。大成功をおさめた。
※当時のバスの乗客の7割が黒人だったためかなりの痛手だったことが想像できる。

その後も黒人コミュニティが一致団結して抗議を続け、バス会社に3つの改善案を提示した。

  • バスの運転手は礼儀正しく私達に接してほしい

  • 先着順で座らせて欲しい

  • 黒人の多い路線では運転手を黒人にしてほしい

驚くべきことにバス会社はたったこれだけの要求も突っぱねてしまう。

結局、このボイコットは382日間に及び、黒人たちは自家用車などでネットワークを組んで抵抗を続けた。

この運動の結果、連邦最高裁判所から違憲判決を勝ち取り、抗議運動は成功を収めた。

この事件は、公民権運動に一般の民衆が参加した初めての運動だった。

キング牧師はこの運動の責任者として皆を率いていく立場なのだが、まだ若干25歳の若者である。
度重なる脅迫、玄関を爆破するなどの嫌がらせに一時期はノイローゼになりかけていたようだ。
かれはこの時期に神の声を聞いている。

非暴力不服従 

この辺りでガンディーの教えを深く学んだラスティンとスマイリーに出会う。

彼らから【非暴力】の合理性を学び、ガンディーの教えに傾倒していく。
前述にもあったが彼はずっと脅迫や嫌がらせをされており、身の安全のために家の近くに警備小屋を作ったり、銃を携帯していたりしていた。
それはアメリカ社会では安全のための担保としてあたりまえのことなのだが、ガンディーの考えではそれは全く誤った考え方なのである。

ガンディーの非暴力の論理

暴力を振るわず道徳から外れなければ、その他大勢の人びとは必ず我々の味方をしてくれる。そして我々に暴力をもって対抗する者どもは人びとの支持を失い自滅する。

ガンディーはメリットについてこうも、述べている。

•暴力をもって非暴力に対しても、ベクトルがかち合わないので運動を止めることは出来ない

•老若男女誰でも参加出来るので運動の規模を大きく出来る。

簡単に言えば、こういうことなのだが、ことさら非暴力を続けることはとても難しい。自分はもちろん、愛する人びとにどんなことがあっても暴力に訴えることは出来ないのである。

彼は沢山悩んだであろう。
悩んだ末、彼は銃を捨てた。

その後、南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を結成し南部各地で非暴力研修会を開き、公民権運動の一環として差別的な法律を積極的に破っていった。

順風満帆にいっていたわけではない。
折しも白人至上主義者の秘密結社【KKK】への入会者も増加しており、彼らは陪審員制度を盾に取りテロまがいの行為を繰り返していたし、


その間にも妨害や失敗などでなかなか結果の出ない日々が続いた。

彼らはその間も黒人差別そのものや差別に対して“非暴力”で立ち向かう際の身の守り方などを研修やロールプレイなどで日々学んだのである。

そしてそれはやがて、結実のときを迎えるのだ。

シットイン運動

1960年2月,数人の黒人大学生がノース・カロライナ州グリーンズボロの白人用ランチ・カウンターに座りコーヒーを注文した。
もちろんコーヒーは来ない。
それ自体が違法である。
だから、ただ彼らは座り続ける。
閉店まで。

次の日も彼らは白人用のカウンターにすわり同じようにコーヒーを注文する。昨日よりも黒人の人数が多い。

白人客は彼らを非難し、暴力や顔に唾を吐きながら暴言を吐き退去させようとするが聞き入れない。

警察に連行される人間も少なくなかったが、次の日にはさらに多くの黒人がお店に押し寄せるの繰り返し。
結局お店を閉めざるをえなくなった。

この運動はシットイン運動と呼ばれ、全米各地に飛び火し、公民権運動の成功例として今なお語り継がれている。

このように様々な困難に打ち勝ちながらキング牧師はこの運動を軌道に乗せていった。
そして、とうとう転機がやってくる。
時の大統領、J.F.ケネディが公民権保護の改正法案を議会に提出したのだ。

その機に乗じ、ワシントンでデモ行進を行い、かの有名な演説が始まるのだった。

I have a dream

奇しくも、奴隷解放のリンカーン記念堂前で、演説は始まった。

私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。

この演説をしたのだ。
差別、侮辱、暴力、殺人などの被害者である渦中の彼らがこの夢を語るのだ。

人びとが熱狂した感動的な演説から間もなく、バーミンガムの教会が爆破され黒人の4人の少女が亡くなった。

そのいたたましい事件に呼応するようにアメリカ国民の公民権運動に理解を深める。

ケネディ暗殺で一度は白紙に戻ってしまったかと思われた法案の行方も次のリンドン大統領の後押しもあり、ついには悲願をはたすのだった。

さらにはキング牧師は公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由に1964年度のノーベル平和賞が授与されることとなった。

終幕

法の下での差別は無くなったものの、黒人と白人の間には“財力”の格差がありそのために彼は奔走し続ける。
道筋も見えて来たころ、アメリカは2つの戦争を迎える。

朝鮮戦争とベトナム戦争である。

朝鮮戦争からの撤退に続き、ベトナム戦争では黒人中心の部隊が最前線に送られ、多くの同胞が帰らぬひととなった。

キング牧師は公然とベトナム戦争反対を表明し、ある種【公民権運動】の盟友でもあった政府と対峙する立場となってしまう。
徐々に彼を邪魔に思う人間も増えていく。

彼にもそうなることは分かっていたのだ。だが、彼の高潔な精神は神との誓いを反故にすることはできなかった。

彼が凶弾に倒れる少し前の演説ではこう洩らしている。

…前途に困難な日々が待っています。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。
皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

彼はすでに知っていたのだ。

自分はきっとマルコムXのように暗殺されてしまうであろうことを。

そこには穏健派も過激派もなく、戦争によって生まれた【ナショナリズム】の前に【公民権】は風前の灯であり、国の下に結束しない者は“悪”なのだと。

マーティン・ルーサー・キング・Jr
彼は紛れもなく【聖人】であった。
1968年に彼がこの世を去ってから半世紀余り。

未だ差別は続いてるが、彼の蒔いた種は強かに根を張っている。
何か問題が起きれば【Black Lives Matter】のように団結して主張する。
ぼくたちは声を上げることが当然だと思える時代に生きている。

もう少しだけ前に進めば、また違う未来を勝ち取ることができるのだ。

差別の無い未来にぼくたちの子どもや孫たちを連れて行けるのはぼくたちのこころ次第なのかもしれない。





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