28秒ぐらいの小さな物語

乗り込んだ車両には、まばらな人々。時間も遅く、花束を持ち帰る目の前の人は結婚式の帰りだろうか。だが、その様な服装は設えていないように見受ける。花屋さんかな。思考はそこで止まって終わる。

彼女は、端に座り、首から上をへりに預けている。その表情は気怠く、怒りさえもがその表層のすぐ下に忍んでいる様だ。視線は、空間には存在していない。そして、そのワンピースは、そこにあるにもかかわらず、どこか所在がない。包んでいる身体が、そこにないような気がするからだろう。

車両は、夜の雨の中を、静かに、そして、仰々しくも滑らかに進んでいく。

とある駅に、速度を落としながら、車輪の回転が摩擦と共に緩まっていく。ここからは、時間の感覚が伸びていく。それは、スローモーションの様で、もちろん、ただの28秒ぐらいだ。

私の意識にはその時の彼女の姿は入ってなかった。なので、立ち上がったその表情は今も思い出せない。立ち上がるその身体の流れも。

音までは届かない。引力に従うその様も、目にしたような、目にしてないような。私がイヤホンをしていたわけでもないし、ブレーキ音が大きいわけでもない。ただ、反対側のシートに、ほぼ対角線の位置にいた私には、近くてとても遠い。そんな時間だし、そんな空間だ。

そして、その小さなハンドタオルは、立ち上がり出口に向かう彼女の身体に声をかけることをあえてしないようなそぶりで、そこにあった。彼女の顔は、私の視界にはあったのだろうが、認知されていないので、やはり思い出せない。ただ、立ち上がり、出口を向いたその身体は、そこに刹那の時間、漂った気がした。まだ、ふと、ここにいたかったのかもしれない。ワンピースの裾と、車内の床と、ハンドタオルの、色「合い」も、思い出せない。そう想うと、思い出せないことばかりだ。浅はかで儚くて切ないが、愛しい。人間というシステム。

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私の身体は、重心の移動よりも先に、腕が上がり、手のひらが開き、指がひらいた。私もまた、ふと、ここにいたかったのかもしれない。たいしたことなどない。そんなレベルなのだ。

左目の視界の右端が動き始めた。私は、生まれつき、世界を両の目で捉えていない。生まれついた右目は遠視とやらで視力はほぼなかった。アニメを見ていてぽろぽろと片目から涙をこぼす我が子を観察していた母が、病院に連れていってくれて分かったらしい。涙は、私、疲れますよ、予定の2倍?も働いてると、という右目の陳情だったのだ。アイパッチというスタイルでの生活を経て今は近視の左目より視力はあるのだが、片目ずつの視界は互いにズレていて、基本はいつもコンタクトの入った左目で世界を観てる。そうか、3種類の見え方は、私の世界の漂い方、世界との離れ方に影響を及ぼしてるのかもしれない。で、私は、何を書いているのか。

もう一人の彼女は、私のように腕が先に動くのではなく、視界からの信号は、即座にその頭蓋骨を動かしての重心移動に繋がった。身体は伸びきることなく、緩やかな放物線を描きながら移動し、その手に、ハンドタオルをとらえる。

その時には、タオルの持ち主は、私の前を通り過ぎようとしていたのだろう。そして、彼女は、それを追った。すみません。の一言に、タオルの彼女の表情は、訝しげさを映しながら、振り返る。私の目の前だ。左目の左側ぐらい。私は見上げている。私の身体は、背もたれからは離れてはいるが、お尻はまだ椅子に甘えたままだ。

普段は、この身体がとてつもない情報量を処理していることが分かる。こうしてiPhoneを両の手で抱えながら文字だけで表していくと、まだここまでか、このままだとあとどれだけ続くのか、と辟易すると同時に、嬉々でもある。こうした、相反する感じが共に在ることは、なんだかくすぐったくて、心地よい。もちろん、この程度だからかもしれないが。

その移りゆく様は、美しかった。美しいことを美しいとしか言えないことをなんだかなぁ、とも思うが、今としては致し方ない。その表情が、振り向きながら僅かにこわばり、事態を理解するまでの数秒間留まり、そしてほどけていき、ゆるみながら、現れてきたその笑みを、何に喩えたらよいのか。私は、ここで、曇りきった夜明けの、切間から覗いたあの一条の光を想う。

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私の視野が、二人に転回する時に、それは意識に跡を残していた。ハンドタオルを拾いに身体を動かした彼女の、左手から離れて手すりに収められていた一本のビニール傘。

一言二言を交わした彼女たちのやりとりから、私の視界が私の世界に戻りつつある流れの中で、その傘の元に、彼女は戻ってくるだろう。私の視界の左側から右側へと視界を横切りながら、彼女もまた、彼女の世界に戻っていく。ひとときの冒険を終え、僅かな安堵の気持ちとささやかなあたたかさと共に。だが、彼女が視界を横切らない。と、今ならそうなふうに言葉に出来るが、実際でのこの数秒は、意識にはあるが言葉にはなっていない。思考というより感覚としてそこを流れている。

私の視点が、その傘に合う。まだ、事態の理解には至っていない。その一本手前。時間にしては1秒以下だろうか。

起きないことと、起きてることが、ようやく出会う。戻ってこない彼女と、そこにある傘。私の中で、二つの点が結びつく。そして、言葉になる。思考ではない。反射に近い反応だ。傘が。

今度は、重心がうつる。私のこの身体を動かす流れはなんなのだろうか。足が踏ん張り、胴体が地球に落ちていかないように支える。お尻が持ち上がり、今なら、意志に近い形で、座面を離れていく。右手は、傘をつかむ。私は振り返り、出口にかけよる。視界には、階段に近づきつつある彼女らしき後ろ姿。

声をここからかける。いくつかの選択肢から、荷物を席に残していること、扉の開いている時間が折り返していること、を踏まえて、そう決定する。その瞬間から、目がここから彼女までの距離を読み、雑踏の密度も考慮にいれて、音として彼女の意識に届くために必要な声量が選択される。必要な空気量が見積もられて、それを取り入れるために、息を吸い込む。まるで、肺が先に計算して、脳にこれだけ必要だから、これがけ吸い込めと指示をしているようだ。そして、声帯がすっと構える。

傘、忘れてませんか。

小さくはなく、大きくもなく、ただ、届くように設えられた、まとまった低い声は、一直線に彼女の耳に向かう。音速が音速で良かった。そうでなければ、間に合わない。その声と、車両の内外を分ける出入口という淵に立つ私を、車掌さんの意識はどう捉えたのか。むしろ、捉えたか。そう、ここは、一番後ろの車両の、一番後ろの出入口だ。

その声が、彼女の頭の中で処理されるまでに1秒ぐらいだろうか。電車を降りて階段に向かうその流れの中で、後ろから声をかけられる。普段にない流れには、意識そのものが向いてない。おそらく、彼女の無意識は階段を登り始めるための準備がなされ、意識は先ほどのハンドタオルのやりとりの余韻にある。それでもその声が耳には届く、と、共に、その全ての事態が、彼女の中で統合され、受け取られ、理解され、反応が選択されて、身体がこちらを振り返り始める。

拾った自分が忘れて、拾ってもらうなんて。おかしみがやさしくながれる。その笑みに、私も思わず頬を上げてしまう。傘は、彼女の手に返ってゆく。まるで、小さな子どものように、怒りながら呆れながら可愛く、返ってゆく。自分の頬が思わず上がったことに私の意識は向いたので、彼女の顔もこれまたぼんやりとしている。ただ、今も、あの流れを分かち合ったことが、熱い緑茶の湯呑みから両の手に感じるあんなあたたかさを、私にそっともたらしてくれる。

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私はなんのためにここに綴り始めたのだろうか。今となればその理由があったかなかったか、あったとしてなんだったか。あれだけ、普段は、why から考えよう、と言ったりしているにもかかわらず、だ。

ただ、なぞることで、その感触が記憶された、と想う。そして、この身体というシステムの凄さにここで一人小さく驚嘆し、改めて、あらゆることが、巡り繋がっていくことを愛しむ。

そう、愛おしい。この世界が、人間が。自分の駅で降りてタクシーに乗って、最後に運賃を上げるためにアクセルを踏み込んだあの運転手さんも、と言いたいところだが、それはまた別の機会に。

#小さな自分の小さな物語

#なぞれてよかった

#それではまた


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