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折々々のことば

鷲田さんが休養に入られた。大事に至らなければ、と勝手ながらの祈りをここで静かにふと想う。

毎朝、二紙が届く。その営みにときおり想いを馳せていた。時々、「明日の夕刊は休みます」とか「明日の朝刊はお休みします」という言葉が載っている。そっと「いつもありがとうございます。ちょっとだけになりますけど、休んで下さい。こちらは大丈夫です。」とそっと呟く。

もちろん、交替だろうし、「ある人」が365日近くやってることはないだろう。それが、組織や集団の技。一方、「ある人」の居場所にもなり、所在なさにもなる。

ただ、この「折々のことば」。おそらく、鷲田さんお一人で、2071回をされてこられたんだろうな、と。いつかの紙面対談で、その毎日のご様子を語っておられた。言葉を、拾い集めては、留めたり、手放したり、そっとしまってみたり。苦しかったり、面白かったり。対談相手の方が、その営みの実際から、紙面との戯れで生まれる自分の感覚を解いてみたり。

私の営み。その二紙が届いたら、先ず、この折々のことばに目をやる。味わう。引用元の方と鷲田さんのやりとりを聴いている。それから、私も寄せてもらって、二言三言、言葉を交わす。そして、自身の頭に浮かんできた言葉をすくい、その言葉と戯れる。それから、「私の履歴書」へ。

もうこの営みをどれだけしていたのだろう。分からない。けど、鷲田さん、私の毎日の営みはそんな感じでした。その時間が毎日あることの豊かさと、その豊かさが彩る時間や空間や想いは、そっとあたたかいのです。

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鷲田さんが休養の間、ここで、私なりに。もちろん、代わりではないし、バトンでもない。ただ、ここで。それのみです。そして、お帰りをお待ちしております。折々々のことば。

#鷲田清一さんへ

#営みを営むために

#私はここで

#私たちはそれぞれに






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