#282 #72-19 有線放送電話とUHF開局
1970年代の農村では家に電話は2つあった。
もちろん電電公社の黒電話が一つありました。50年代までは300万は超えましたがほとんど業務用でした。70年かかりました。
農村部は60年代まで「有線放送電話」が勝っていたのです。66年には300万となっています。
1955年千葉の木更津の村で農協青年部の若者が電線を張ってスピーカーを付けて回りました。(1944年に亀山村でラジオ聴取が起源とされ、49年松丘村の沖津一によって始まったとすることもあります)。
放送と通信の垣根などなかったのです。農協や役場に放送と電話交換の一体となった中継局ができ、アナウンサー兼電話交換手が常駐します。こうして昭和30年代までに全国の農村に普及していきました。
だから黒電話なのですが、村内放送の役割もしているので「しゃべる」「音楽が流れる」「緊急の通知」などが流れるスピーカーなのでした。
1956年以降は農林省、自治省がバックアップして補助金事業になっていきました。
郵政省と公社はこれと対決していくことになります。1957年以降は郵政大臣の許可制になり、公社回線と接続も認められなくなりました(59年以降は市外に通じることができました)。
こうして60年代後半になると伸び悩み始め、69年にピークとなって70年代に入ると衰退し始めました。77年には200万を割ってしまいました。
その間、電電公社の電話網は農村部に入りこみ、全国つながるようになっていきました。
だから70年代前半は農村部には2台の黒電話(1台はスピーカー付き)があったのです。
お店に流れる「有線放送」と田舎の人言う「有線」は違うのでご注意を。
東京の民放は日本テレビとTBSだけでした。富士(フジ)と日本教育テレビに予備免許が出たのは田中角栄が郵政大臣になる2日前でした。免許の条件として報道や教養の%の縛りがあり、教育局としての免許された日本教育テレビはさらに厳しかったため視聴率は長らく低迷が続きます。
建築基準法に違反していた日本電波塔(東京タワー)に許可を与えたのも田中でした。
地方の民放テレビは、原則として1県1局でした。キー局の業績を見てうまみを感じ取った地元の財界人や政治家がやたら申請に来るようになりました。
全国の地方テレビ局に大量免許を与えたのも、もちろん郵政大臣田中角栄でした。
極超短波を使うUHFテレビの用途は、当初は難視聴地域の解消および地域ごとの局地的な放送サービスに限定されていましたが、1967年にこの限定が解除されました。
1968年8月に独立UHFの岐阜テレビが開局しました。その後UHFテレビ放送は増えていきました。
これも地元の財界人や政治家が利権にむらがり、うごめきました。現在でも(特にUHF局)その創業者のファミリーが牛耳っている県が多いはずです。
12チャンネルよりないVHF用のテレビ受像機は12チャンネルしかなくUHF放送をどうとらえるかが問題となりました。UHF電波をVHFに変換するためのコンバーターをテレビにくっつけるということで対処しました。
NTV、TBS、NET、東京12チャンネルのどのキー局と契約してその番組が観れるかも重要でした。その県内の既存のVHF局の契約の残りからになり、ネットワーク契約を結んだ場合、五〇%以上が放送され、残りは他の局の番組となりました。
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