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あの頃の自分にとって宝物だった小説6選と母さんが夜なべをして書いた文字

出会ってから今までずーっとラブラブ♡しゅきしゅき♡でいられればそれが一番だったんだけど、近すぎるが故に見るのも嫌なくらい愛せなくなって遠ざけてしまったり、逆にどっぷり依存しすぎておかしくなったり、そういうのを繰り返してここまで来た。
読書の話です。

わたしは暗人(くらんちゅ)なので愛も勇気も友達になってくれないから本だけが友達で、前に別の記事でも書いたけど、高校の頃は自転車で学校から帰ってくる間の信号待ちの1、2分でさえ自転車に跨ったまま本を読み進めていた。絶対に真似しないでくれ。
なんかもうずっと、ずーっとそんな風にしか本と付き合うことができなかったような気がしていた。けれど最近今まで自分が触れてきたり書いてきたりした文章を振り返るような機会があって、ちゃんと大人になってから振り返ると別にそんな暗い気持ちだけで読書をしてきたわけでもなかったなあと気がついたりした。

というわけで、この記事は備忘録も兼ねています。自分がどんな本に影響を受けてきたか、どんな思いでそれを読んでいたか、書いておきたくなりました。好きな音楽の話は散々してきたけどそういえば好きな本の話ってしたことなかったな。

暇な時に読んでくれたら嬉しいでーす!前振りが下手。





▽中学時代

『容疑者Xの献身』東野圭吾

父の部屋の本棚にはびっしり東野圭吾の本が並んでいた。
小学3年か4年生の時、こっそり父の部屋で読んだ探偵ガリレオが人生で初めて読んだ児童書以外の小説だった。今思えば多分内容は半分も理解していなかったんじゃないかと思う。小3があんな科学用語だらけの小説を理解して読んでたわけがない。ただ単に「小学生なのに小難しい本を読んでいる自分」に酔っていて、まあそこそこイタイ話だけど、でもその酩酊のおかげで本を読む習慣が身に付いたまま中学生になった。
内容を理解しようと努めて用語を調べたりとかはマジ一切しなかったので科学を好きになることもなかったし、高校の時の模試の五角形の成績表はこれで人刺せる?ってくらい国語だけ尖ってて他の教科は全部死んでました。お疲れ様です。

そういう流れがあったので、生きてきた中で一番著書を読んだ小説家は間違いなく東野圭吾だと思う。読み始めて止まらなくなって朝まで一晩で読んだものもあれば超つまんなくて最後まで読めなかったものもあった。余談なんだけど「東野圭吾のアレはほんとつまらんかった」という話において父母との意見が完全に一致していて、超親子だなっていつも思います。照れ。

たくさん読んだ中でも多分一番か二番目に好きなのが容疑者Xの献身です。
説明するまでもない超ベストセラー。映画化もしとるし。有名なものについて改めて説明するのって恥ずかしくなっちゃうな…………。

何度読んでも読み終わったあとため息をついてしまう。わたしは多分愛の話が好きで、人が人を想う気持ちの強さが描写されているような話が好きです。
「人は時に生きてるだけで誰かの希望になっていることがある」という事実そのものが希望だと思う。

ちなみに容疑者Xの献身と一番二番を競っているのが『白夜行』です。小学生の時にドラマ化していて、父の部屋にあった原作を読もうとしたら母に「中学生になるまで読んだら駄目」と止められた因縁の小説。
白夜行も献身と愛と希望の物語だと思っている。





▽高校時代

『スロウハイツの神様』辻村深月

過去のnoteでも散々書いてきたけど高校時代は青春のせの字もなくて、特に2年生の時は最悪だった。なにが華のセブンティーンじゃ、なにが「私は今生きている」なんですかね、そりゃ南沙織とか森高千里くらい可愛けりゃ17歳も華のようでしょうよ。何の話?

いってきまーす!っつって家を出て、自転車でぐるっと家のまわりをまわったあと戻ってきて、物置の影に隠れて本を読みながら両親が仕事に行くのを待ってから帰宅して、録画したドラマとかを観ながらお弁当を食べていた。暗すぎ。

当時はもう意地みたいにずっと本を読んでいて、そこには小学生の時のような幼く可愛い自己陶酔もなければ中学生の時のような純粋に読書を楽しむ気持ちもなかった。本が逃げ場だったしプライドだった。ほんとうっすいしょーもないプライドです。本を読むために望んで1人でいるんだと思っていないと死んじゃいそうだった。そんで、わたしはいーっぱい本を読んでいるから、教室の真ん中できゃっきゃしてるやつらよりずっとずっと賢くてずっとずっと知識があると自分に言い聞かせていた。

馬鹿です。教室の真ん中できゃっきゃしてるからこそ得られるもんめちゃくちゃあるだろ。本読んでるだけじゃわからんこともめちゃくちゃある。本で得る価値観や感受性と、人に触れて得られるそれらと、どちらが優れているとかそういうことはないけど、多分あの頃紙の中にしか自分の世界を持たないわたしは知ることができないことをあの子たちは知っていたはずだった。逆も然りですが、でも、それでも。

1年生の時に仲良くなって、2年生で進路の関係でクラスが離れた女の子が、時々わたしのことを心配して辻村深月の本を貸してくれた。人の感情の機微に敏感な優しい子だった。

スロウハイツの神様は、青春群像劇のような側面もミステリーの側面もあって、ずっとその2つの柱で進んでいって、最後バカデカい愛の話として終わる。わたしはそういうのが大好き。
友達はデビュー作から順番に辻村深月の本を貸してくれた。作品の中で誰かが傷ついたり苦しんだりすることがあっても、基本的に大きな優しさが内包されている物語ばかりだった。孤独が故に人を見下すことでしか自分を保てなかったあの頃に、優しい人が出てくる小説をたくさん読むことが出来て本当に良かったと思っている。ほんとに…………あの頃ハマったのが我孫子武丸とか大石圭とかじゃなくてよかったな…………

って書いてて今思い出したんだけど、読書が好きな人と付き合っていた時大きな本屋でデートをして、「制限時間内にお互いが好きそうな本を探してプレゼントし合おう!」みたいな催しをやった時、最終的に相手が持ってきたのが我孫子武丸の『殺戮にいたる病』で、こういうのが好きそうだと思われてんのか……というショックと、こういうのが好きそうな女が彼女でいいのか……?という困惑が同時に生まれました。なんだこのエピソード。


『ルパンの消息』横山秀夫

高校時代編は1冊に絞れませんでした。未だに一番好きな本は?って聞かれたらルパンの消息って答えてる。

村上春樹の『ノルウェイの森』の中に、主人公が好きな小説である『グレート・ギャツビー』に対して「気が向いた時に適当なところから読み始めても毎回なにかしらの感動がある」みたいなことを言っている描写があったと思うんだけど(手元に本がないのでうろ覚えで書いてます、合ってる?)わたしにとってルパンの消息はそういう本。暇になると手を伸ばして適当にパラパラして途中から読み始めて、ああこのシーンが好きだ、この言い回しが、と思って閉じる、みたいなことを何遍も繰り返してきた。

昔なにかの記事でircleのセブンティーンに関して「この曲が好きすぎてircleの他の曲が聴けていない」と書いたんだけど、この本もそうで、これ以降横山秀夫の著書を全然読めずにいます。出口のない海だけ読んだ、ハチャメチャ泣いて、もういい……この2冊だけでいい……と思った。

大筋はミステリーで、三億円事件がモチーフになっていたり時代背景がめちゃくちゃ昭和だったりするのでやや取っ付き難いかもしれないけど、読み始めたら多分気になって止まらなくなると思う。なると思うというか、なってくれ!という願望も混ざってますこれは。実際のところ好みは人それぞれだし。でも、自分の好きな人にこれを面白いって思ってもらえたら嬉しいなあと思うような、自分にとってそういう小説。

そういえば好きすぎて何を血迷ったか推しの誕生日にプレゼントしたこともある。ブログで「今年読んだ中で一番面白かった」って書いてもらえたのは今も良い思い出です、推し、優しい。



▽大学時代

『砂漠』伊坂幸太郎

大学に入って、明るく!楽しく!出来る範囲で人に優しく朗らかに!!!と思って大学デビューを決意したらそれなりに友達が出来た。よかったね…………いやほんとに………………。

呪いみたいなものが解けて、高校時代のように週7冊読むみたいなアホの読書をすることもなくなって、あまり新しく本を買うことも減っていった。
そんな中で多分唯一読み始めて止まらなくなって朝まで読んだのが砂漠だった。

さっきも書い通り我孫子武丸とか大石圭みたいなジメッとした気持ち悪い話も大好きなんだけど、ほんともう、悪は砕かれ正義が勝つみたいな話が本当に大好き。好きな四字熟語は勧善懲悪。ジャンプ買ってたし。警察官の娘だし。

砂漠はそういう、ジャンプ的王道要素といい、伊坂幸太郎特有の比喩表現のまどろっこしさといい、日常要素と非日常要素の丁度いいバランス感といい、あとラストのあの膝を打ちたくなるスッキリ感、もう全部性癖です。たまらんかった。読み終わったあと麻雀を覚えたくなった。

ラストの理事長の台詞を読んで「大学生の間に読んでよかった、ここに書いてある通り学生時代の良い思い出に逃げるような大人になるのはやめよう」と強く思ったはずなのに、なんか逆に学生時代の負のあれやこれやをお家芸みたいに擦り倒す大人になってしまった。なんで?絶対そういうことじゃなくない?





▽社会人になってから

『彼女がその名を知らない鳥たち』沼田まほかる

社会人になってから、あんなに大好きだった本が一切読めなくなった。

最初は「読む暇がない」というところから始まって、少しずつ読書離れしていって、毎日忙しなく働いて、いろんなことがあって、ある日突然仕事の準備をしている最中に涙が止まらなくなって休みを取った。いつの間にか限界を迎えていたらしい。その後すぐに退職した。

いきなり自由な時間が出来て、さあ久しぶりに読書でもしようと思って本を手に取って、その時始めて本を読めなくなっていることに気がついた。

何度も文字を目で追っても内容が頭に入って来ない。
しばらく音楽も聴けなかったし、趣味だった観劇もできなかった。
感情が動くのが怖かった。静かに、何も考えず、ただ横たわるだけで時間が過ぎていって欲しかった、心が動いてしまうことに触れるのが嫌になってしまっていた。

時々気になる小説や映画があってもネタバレをまとめているサイトを読んで満足するようになった。そうすればたいして感情が左右されることがない。
小説も、音楽もそうだし、お芝居も、そういうものひとつひとつに疲れてしまうまで心を動かすことが出来る感受性が、たった一つ自分の好きなところだったのに。

1ヶ月か2ヶ月だけ働かずに休んで、フリーターとして外に働きに出るようになって、まず戻ってきたのは音楽で、そのあと1年くらいかかってまたお芝居も観に行くようになった。
だけど一番好きだった読書は出来ないまま数年が経過した。

昨年ほぼ丸1年間遠距離恋愛をしていたので度々飛行機に乗る機会があった。わたしが住んでいた札幌と相手が住んでいた福岡は飛行機で2時間半かかる。寝てりゃあっという間だけど起きてると地獄のように長い。
そういえば買ったはいいけど読めないままにしてた本があったな、と思って鞄に入れていったのが彼女がその名を知らない鳥たちだった。

もう数年前に映画化していて、その時にネタバレを検索していたので、オチを完全に把握している状態で読み始めた。
それなのに、ページを捲る手が止まらなかった。
ああそうだ、これが小説だ、これが読書だった。そう思った。例え結末を知っていても、筆力で、描写力で読まされてしまう。ネタバレまとめサイトにあるのは起承転結だけだ。情景描写も、心理描写もなにもない。小説は違う、起承転結に肉付けしてはじめて出来上がる。そうだ、そうだったよね、そこがずっとずっとずっと好きだったよ。

物心ついた時からずっと言ってきた言葉を、だけどここ数年「もう言っちゃ駄目だ」と思って禁止していた言葉を、もう一度言いたくなった。
「趣味は読書です。」
またたくさんいろんな本を読めたらいいなあ。やっとそう思わせてくれた本だった。



▽遡って、小学生時代


最後に、小説を読むきっかけになった話をします。

母曰く「二語も話せない時から本の読み聞かせをしていた」そうで、小さい時から絵本が大好きだった。あと言葉が無駄に達者だった。2歳の時に自販機の前で知らないお姉さんに「その自販機壊れてますよ」と流暢に話しかけたのはやや我が家で伝説になっている。

で、小学1年生の時、たまたま児童向けの雑誌に広告が載っていた児童書になんだか強く心が惹かれた。

『ダレン・シャン』
表紙のおどろおどろしさが魅力的だった。なんかこの頃から角川ホラー文庫とか好きになりそうな予兆がややあるな。

母に読みたいとせがんだものの、高学年向けの児童書なので、ついこの間まで幼稚園に通っていた子供が読めるわけのない漢字に溢れている。
けれど母は「まだ早い」とは言わなかった。

で、どうしたかと言うと、


徹夜をして、全ての漢字にルビを振ってくれた。


すげえ話です。

全12巻中、わたしが使われている漢字が読める年齢になった9巻だったか10巻まで、本当に全てのページに母の字でルビが振られている。
小学校を卒業する時に行われた卒業生の思い出の品展みたいな催しではダレン・シャン全巻を展示した記憶がある。その頃になってようやくこれがすごいことだと理解できるようになった。

わたしが愛の物語が好きなのは、読書という行為そのもののルーツに強く愛を感じているからなんじゃないかとたまに思ったり、え?いや恥ず…………なんだそのまとめ…………普通に『黒い家』とかもめちゃくちゃ好きですが…………

とにかく、母があの時そうしてくれなかったら、あの時やあの時やあの時にあんな気持ちやあんな気持ちにさせてくれた小説たちとの出会いもなかった。多分こうやって自分でエッセイもどきを書くようになることもなかったんじゃないかと思う。母はいつも「本だけは好きなだけ買ってあげる」と言ってくれた。
母へ。いつもありがとう。次は8月に帰るね。夜はハンバーグが食べたいです。いやLINEで言え。



この先もしかしたらまた、本に心を乱されるのが嫌で読めなくなる日も、本を逃げ場にしてしまう日も来るかもしれない。娯楽としてある程度の距離を保ちながら楽しめたら、それがいいけど、でも出来なくなる日がまた来るかもしれない。
でもいいよ。ただ好きなだけでいられなくなることがあるのは愛してるからだ。

社会人になって本を読むことが出来なくなった時は自分に絶望した。本を読んでいちいち泣いたり疲れたり考え込んだりする自分の感情の振れ幅が好きだった、それを失くしたお前になんの価値があるんだと思った。他の取り柄なんてないくせに。
だけど大丈夫、本に感情を動かされることに怯える気持ちの、その根っこにあるのは本への愛です。

じゃあまたね。

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