『ゴースト・イン・ザ・シェル』感想

ゴースト・イン・ザ・シェル』を見てきた。時間がないので手短に感想。以下、ネタバレがまったくないわけではないが、致命的なものはないはず。字幕版と吹替版(MX4D)の両方を見てきたが、個人的には字幕版の方がよかった。理由はシンプルで、その方が「別モノ」として納得できるから(MX4Dはまああってもいいけど、コストに見合った効果があったとは思わない)。

原作は士郎正宗の1989年のマンガだが、その後押井守によって1995年、2004年と2回にわたって作られた劇場用アニメ、また2002年、2004年、2006年と神山健治によって作られたテレビアニメ(2011年の劇場用映画もこちらに含めておく)という、おおざっぱにいえば2つのグループの動画作品群がある。今回のハリウッド版はそれに続くかたちで、世界観や主なキャラクター設定は概ね引き継がれているし、随所にアニメ版のオマージュを感じる描写が入っていてリスペクトが伺えるが、押井攻殻と神山攻殻が別モノであるのと同じように、やはり別モノと考えた方が素直に楽しめる。

吹き替え版は主要キャストの声をアニメと同じ声優が吹き替えているが、舞台がどうみても香港、というか『ブレードランナー』を思い出すような謎アジア都市が舞台でいろいろな人種(人種の差がマンガやアニメより気になるのは実写である以上自然だろう)が入り乱れる中では英語の方が映像にはしっくりくるし、主要キャストの声はそれぞれ役柄に合ってるとも思う。荒巻役のたけしだけが日本語(ちょっと滑舌の悪いのが気になった)で、他の登場人物たちの英語と入り混じって自然に会話が進むのは、自動翻訳が普及しているという設定なんだろうが、割と身近に迫った近未来感があってちょっと面白かった。

作品的にも、ある意味実にハリウッド映画らしい印象。たとえば最初に、物語上の重要な設定である義体化技術に関する説明を入れているところ。原作では冒頭に有名な「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても 国家や民族が消えてなくなる程 情報化されていない近未来」という世界観が語られている(まだグーグルはおろかヤフーもない、日本ではまだ商用ISPすらなかった時代を考えると何たる慧眼だろうか)が、ハリウッド版ではそれはない。

原作やアニメ作品は、細かい部分は何だかわからないままに物語がスタートして、だんだん描写を通じて(原作では枠外の膨大な書き込みも重要だが)設定がわかってくるような、日本の作品によくあるスタイルであるわけだが、どうもそういうやり方はアメリカには通用しないようだ。同じく物語上重要な概念である「ゴースト」も、早い段階で、セリフ内でパラフレーズするかたちできちんと説明されている。そういえばと思い出したのが、ポケモンの最初の劇場版「ミュウツーの逆襲」が北米で公開された際、映画の冒頭にポケモンに関する説明がナレーションで流れたこと。まあそれで納得してもらえるならそれもよし。

というか、義体化技術に関する説明は実際重要で、なぜなら原作やアニメとは微妙な差があるからだ。ハリウッド版では、電脳化と一部の義体化は普及しているものの全身義体化はまだこれからで、素子が初の成功例という設定になっている。マンガやアニメでは全身義体がすでに普及している設定なので、冒頭の説明はむしろ、原作やアニメのファンに向けたものなのかもしれない。

ともあれ、そのあたりをあえて変えたのは、ハリウッド版の打ち出したいメッセージに沿ったものなんだろう。つまり、自分と似た境遇の人がいない圧倒的な孤独の中で、何が自分を自分たらしめるのか、何を自分のよりどころにするのかというテーマだ。原作漫画やアニメでは肉体どころか脳までなくなってもコンピュータネットワークの中にゴーストが生き続けるような話になっているが、ハリウッド版はそこまでは踏み込まず、自分を自分たらしめるのは脳にため込まれた(過去の)記憶ではなく(これからとる)行動である、という、ある意味実にアメリカっぽいメッセージを打ち出している。

主演スカーレット・ヨハンソンの素子(実際にはほとんどの部分で「素子」ではなくミラ・キリアン少佐)ははまり役(あとバト―も)。ただし、これまでの中で最弱の(あるいは「人間的」な)素子だろう。もちろん強いか弱いかといえば強いんだが、これまでの作品で描かれてきた素子が共通して持っていた圧倒的な「超人」感がほとんどない。マンガやアニメではかなりの部分を占める電脳アクションや頭脳戦のようなものはあまり登場せず、ほとんどがハリウッドが大好きなガンアクションや格闘だし、何よりこれまでのどの素子よりも精神面が脆弱かつ不安定であるようにみえる。もちろんこれまでの素子もそうした面がないではないが、それはほとんどが内に秘められていて、表にはあまり出てこなかった。

本作で、スカーレット・ヨハンソンがしばしば見せる苦悩の表情を通じて、そうした素子の弱い部分を強調することは、次第に明かされていく素子の出自とあいまって、いってみれば本作のキモの部分であって、ハリウッド映画として成り立たせるために必要な要素だったのではないか。世界に数多くいるであろう、自らのアイデンティティにあやふやなものを感じている人々にとって、素子の姿は勇気を与えるものになるのではないか。

まあそれはそれでアリ、ではある。個人的には割と原作厨で、アニメ版についてもあれこれ言いたいことはあったりする(押井版も神山版も素子がシリアスすぎて、原作の軽やかなところがないのは不満だ)が、別モノとしてなら楽しめるので、本作も新たな攻殻として楽しみたい。日本のマンガやアニメが海外で独自の解釈をされて広まっていくのを見るのは楽しい。本作には中国の資本がだいぶ入っていて、中国でも公開されて好評のようだ(香港ぽい街の風景も親近感がわくだろう)。日本のクリエーターたちも、シャーロック・ホームズを犬にしたりとか、いろんな独自解釈による改変をしてきたのだし、それはそれ、である。シリーズ化できそうな作りになっているから、今後の展開を期待したい。

というか、そうでないと、今回出番のほとんどなかった、素子とバト―と荒巻以外の9課メンバーたちがあまりに不憫だ。かろうじて脇役と言ってよさそうなのはトグサぐらいで、サイトーはかろうじて狙撃シーンでそれと特定できたが、イシカワやボーマに至っては2回見ても誰がそれなのかわからず、悪くいえばモブ扱いに近い。劇場版の尺だとそれぞれのキャラクターをすべて生かすのは難しいのかもしれないが、続編があるならぜひ。

原作やアニメを知ってる方が楽しめそうではあるが、知らなくても、サイバーパンク系の作品が大丈夫なら、大丈夫だと思う(義体の一部描写は慣れない人にはグロくみえるかもしれないが)。

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