圓山とその周辺

この国はかつて、私たちの国に支配されていた。

何年かぶりに台湾を訪れて、改めてこのことを意識する機会があった。

台湾は1895(明治28)年、日清戦争終結に際して結ばれた下関条約によって清朝から大日本帝国に割譲され、それから1945(昭和20)年まで50年余りにわたり、日本の統治下にあった。その間日本人は抵抗を抑え込むと同時に開発を進め、日本語を含む日本文化を強制した。そうした日本統治時代に押し付けられた日本的なものの多くは戦後消えたが、痕跡は随所にみることができる。特に建物は、今も総統府として使われている旧台湾総督府庁舎をはじめ、当時のものが各地に残っており、修復されて観光名所となっているものも少なくない。

圓山大飯店

今回投宿した圓山大飯店は、剣潭山の中腹に建つ中国宮殿風の建物で知られる。台湾を代表するランドマークとして各種観光ガイドにも取り上げられるこのホテルは、1952(昭和27)年に台湾大飯店として開業したのだが、ここは日本統治時代にあった台湾神宮の跡地である。日本国内で8万以上あるとされるとされる神社の中でも「神宮」の社号をもつものはせいぜい30ほどしかないことを考えると、ここ台北に「神宮」が置かれたことは、大日本帝国における台湾の位置づけを伺わせるものとして興味深い。もっとも、「神宮」となったのは戦争末期の1944(昭和19)年で、1900(明治33)年からそれまでの間は「台湾神社」であったのだが。

台湾神宮

Wikipedia

台湾神社がなぜこの場所に建てられたのかは、圓山大飯店から台北の街を見下ろしてみると実感することができる。日本でも街を見下ろす山のうえに神社や寺が建てられることはよくあるが、まさにそのような位置関係なのだ。この場所は日本の台湾支配の中心であった台湾総督府(現在の中華民国総統府)の概ね北東(北北東の方が近いが)にあたる。平安京の北東に延暦寺や日吉大社があるように、江戸城の北東に寛永寺や上野東照宮があるように、台湾神社もまた、鬼門封じとしての意味を持っていたのだろう。日本統治時代の台湾には、ここ以外も含め、200前後もの神社が建てられていたという。いうまでもなく、皇民化政策の一環だ。

こうした神社の多くは戦後、忠烈洞へと転用されたが、日中国交回復に伴う日本との断交(1972年)に伴い、建て替えられるなどして消えていった。台湾神宮はそれに先立つ1952(昭和27)年、蒋介石夫人の宋美鈴により台湾大飯店として建て替えられ、その後1973(昭和48)年に14階建ての現在の建物が完成している。

台湾大飯店

Taipei Grand Hotel (Home of a Dynasty) September 16, 2018

中国宮殿のような外観を持つ現在の圓山大飯店において、内装も含め日本統治自体の痕跡を感じさせる要素はほとんどない。宋美鈴が、眺望という点を除けばホテルとして必ずしも交通の便がいいとはいえないこの場所に台湾を代表するホテルを建てたのは、台北市街を見下ろすこの地にあった、日本による支配の象徴を消したかったのかもしれない。

とはいえ、当時の痕跡は今でも付近のいくつかの場所に残っている。

圓山大飯店から街のほうへ下りていくと、中山北路に沿って剣潭公園がある。そこから中山北路に下りる階段の両脇にある狛犬は台湾神宮に置かれていたのが移設されたものだ。もともと狛犬は中国もしくは朝鮮半島から伝わったとされ、あまり日本的なデザインではないのでことさらに日本風を感じさせるものではないが、日本でよくみられる阿形と吽形のペアになっているところなどは、日本に由来することを伺わせる。

中山北路を渡った反対側にある剣潭青年活動中心の中にある池も、もともと台湾神宮の貯木池であった。神社建築の用材として切り出された木材が、虫を排除するためにこの貯木池に浮かべられたのだという。大きな神社にはこうした池がよくあるが、それに倣ったものだろう。日本由来だが日本を感じさせないものだけが残された、とみることもできるかもしれない。

もう少し足を伸ばすと、台北でも有数の夜市で知られる士林もそう遠くはない。この士林夜市もまた、日本にゆかりのある場所である。もともと士林は、清朝末期に天上聖母(媽祖)を祀る慈誠宮(媽祖廟とも呼ばれる)を中心に作られた市街地だが、そこに露店街が形成されたのは日本統治時代のことである。台湾総督府は慈誠宮の向かいに公共市場を設けた。修復されて今でも残るレンガ造りの旧士林公有市場は 1915(大正4)年に完成したものだ。

今では、日本統治時代の建物を保存し、あるいは修復して地域のランドマークとしたり、あるいは観光に役立てようとする事例が台湾各地でみられる。日本統治時代に日本語教育を受けた高齢者は次第に少なくなってきているが、一方でアニメやゲームなど現代日本文化を好む若年層が少なからずいて、日本との文化的親和性はむしろかつてより高まっているようにも思われる。しかし、そうした新しいつながりにも増して、古くからの、あまり好ましくはない記憶を象徴するものをも大事にしてくれているさまをみると、この国とのつながりをより深く感じることができるように思う。

もちろん、いろいろ思うところのある人も少なからずいるのだろうが、日本の痕跡を暗い部分も含めて歴史の一部として受け入れている人たちが少なからずいるのであれば、ありがたいことだ。

参考文献
片倉佳史(2013)「台北の歴史を歩く 士林地区の歴史を巡る(1)」『交流』868: 7-11
https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2013/7/07-02.pdf
若杉優貴(2023)「台湾の神社で起きた「神様強制送還」が「中台統一問題」にまで波及したわけ : 日台の歴史遺産「桃園神社」で何が起きたのか」


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