再録2
こちらは、数回にわたって書き綴った、美術館で私が行う鑑賞支援プログラムを実施する際にあたって考えていることです。
こうした考えをベースに、ワークショップやトーク、研修を作っていますという、いわば手の内を全てさらしたもの。
これが良いだ、悪いだという議論よりも、これに良くも悪くも触発されて、すこしでも質の上がったプログラムが多くの皆様へ提供されることを願って、公にしました。
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よく展示場で行うプログラムについて、自身の忘備録もかねてすこし書きます。
大きな画面のサム・フランシス《メキシコ》(←検索をかけたら画像がいっぱい出てくる!)が展示場にあると、私は、よくその作品の前で踊ってもらいます。
と言っても、それが出来るのは閉館後などでの貸し切りツアーの際だが、その進行はこんな感じ。
まずは、画面の中にある情報を自ら取りにゆく練習として、こう声掛け。
「大きな画面に、たくさん色がありますね。絵具は混ぜれば、いろいろな色が作れますが、ではこの画面は、ギュッと絵具を絞り出したチューブの数、つまり、まだ混ぜる前の色の数は何色ですか?」
そのあと、色数に応じて、各人挙手してもらい、同じ色数ごとのグループになってもらい、何色と何色と何色と、相互に確認してもらう。
たいてい、3色(三原色で全ての色は出来る派)から6色くらいにおさまるが、実はしっかり白が塗られているのも、途中で気づく。
もっとも、ここまではあくまで作品を良く観察するためのイントロ。
ここから、次のような展開。
「ところで、みなさんは、運動神経が良いというと、早く走ったり、高く跳んだりする力だと思っていませんか?」
「逆に、どれだけ自分の身体をゆっくりコントロールできるか、あるいは様々なコントロールの仕方があるか、試みてみましょう」
と声かけをして、どちらかの手から指を一本立ててもらって、次の指示。
「では、ピンと伸ばしたその指の先端が、付け根からなるべく遠くを通るようにして、ゆっくり、出来る限りゆっくり、でも決して止めずに曲げてみましょう。さあ!スタート」
そうすると、参加者は少し寄り目になりながら、ゆっくりと指を曲げるが、強者は30秒くらいかけられる。
全員が曲げ終わったところで、一度、手をブルブルしてもらって、リラックス。
そして次。
「今度はすこし違います。ピンと伸ばしたその指が、ずっと真っすぐになったまま、付け根から、ゆっくり、出来る限りゆっくり、でも決して止めずに曲げてみましょう。さあ!スタート」
つまり、指は同じ動きになるはずだが、実際やってみると、意識の持ってゆき方も、筋肉の使い方もかなり異なる。
よろしかったら、お試しを。
その体感をした後、「同じ動きのはずなのに、おそらく指のいくつもの筋肉それぞれへの力の入り具合は、異なりませんでしたか? おそらく運動神経が良いというのは、こうした遅い動きでも、自分の身体を巧みにコントロールする、あるいはそのような動きをさせるために、どう意識したらよいかに気づく事ではありませんか?」と問いかけると、たいていの方は、はは~んとうなづいてくださる。
そして、ここから再びアートへシフト。
「ところで。この目の前にある大きなサム・フランシスの画面から動きを感じますか?」と問いかけ。
まずは、動きを感じるか、感じないかの二択にして、感じないという方には、私自身の身振りも交えながら、こうした言葉がけ。
「では、その動かなさは、ふわ~とした動かなさですか? それともガッチッと硬直した動かなさですか?」
「それから、その動かなさは、未来永劫の動かなさですか?もしかしたら、10年後にピッくと少しだけ震えたりはしませんか?」
これだけで、各人の身体の中に、ちょっとした動きの感覚が生まれてくる。
一方で、動きを感じると表明された方には、その動きの方向性を、画面から飛び出る/引っ込む、上へ/下へ、右へ/左へ、そして直線的か、うねりや回転があるのか、と、どのようなものであるかを問う。
このあたりから、ほっといても手を動かして、自分の感じた動きを手で確認し始める人が出てくる。
さらに続けて、そのリズムは? 速度は? その速度に変化は?と、考えられ得る動きの要素をひとしきり口にしたあと、「さあ、ではみなさん! 今、ご自身が感じた動き、あるいはその動きのなさを自分の身体で確認してみましょう」
これで、たいていの人は自分の感覚がとらえた運動感を、身体に置きかけることを始める。
そこまで行ったら、「さあそれでは、みなさんの指を一本拝借! 今、皆さんが感じているその動きを指一本で表現してみてください!!! さあースタート」
みなさん、この程度なら、照れもせずに指先を動かしてくださるので、30秒ほどやり続けていただく。
そしてエスカレート。
「では、次は手首から先を使いましょう」
「よ~し 今度は肘から先を使いましょう」
と進めると、ドンドン調子が出て来て、サム・フランシス作品を見て自分の感じた動きを、身体で表現し始める。
ここからクライマックスへ。
「では、次は肩から先を使って大きく表現してみます。でも、隣の人とぶつかってはいけないので、一度、全員で、互いの距離をとって輪を作りましょう」と互いが互いの動きが見えるシチュエーションを作ったうえで、「はい!スタート」
当然、そこにいる全員が、みんなそれぞれ違う動きをしていることを目の当たりにする。
時折、時間と空間に余裕がある時は、さらに全身でと進めることがある。
ちなみこのプログラムは、オンラインでも実施可能!
いつかは、野村誠さんの将棋作曲のように全員の動きを組み合わせた作品化をしてみたいが、残念ながら、私にはまだそこまでのスキルはない。
こうした身体を動かすのは終わり。
そしてこうまとめる。
「作品を鑑賞するというのは、その作品を理解するだけではなく、このように作品をスタートに使って、自分がどのように受け止めたか、感じたかというやり方もあるはず。そして、その感じたものの発表の仕方は、言葉以外に、こんなやり方があっても良いのではありませんか?」
ちなみに、受講者が学校教員の場合は、最後にもう一言。
「これで図画工作、美術の鑑賞と、ダンスの授業が両方できました!」
大原美術館の展示場で、時折、こんなことをやっております。
もちろん、使えるネタ部分があれば、どんどん使ってください。
大切なのは、実施者の力量比べではなく、どれだけ多くの方が、美術により良い形でアクセスできる環境を作ることだと思っております。
私は、レクチャーやギャラリートークの場で、「作品は多様な情報体」という言い方をよくします。
多様な情報体ですから、それを観察するのが作品へのアクセス。
その整理として、次のような考え方を伝えます。
まず、その多様な情報にも「画面を観察すれば収集できる情報」と「画面をどんなににらめっこしても収集できない情報」があること。
そして「画面を観察すれば収集できる情報」へのアクセスとして、「何が描かれているか?」「どのように描かれているか?」の二つの入口がある事。
そして、多くの方が、その前者である「何が描かれているか?」から作品へアクセスすることが多く、一方で「どのように描かれているか?」という入口については、より細かく観察するポイントがわからない(言語化、意識化されていない)こともあって、あまりそちらからのアプローチがないのではないという問題提起をします。
こうした状況ゆえ、美術館でも、何が描かれているかがわかる作品がならんでいるうちは良いのですが、抽象的な作品の前に来ると「なんだか、わからん」となって、何が描かれているのかがわからないと、その作品そのものが全否定されるようなケースもあるのではないでしょうか?
もっとも、「どのように描かれているか?」と言われると、一瞬難しく考えがちですが、例えば、と、観察ポイントを少しお伝えすると、たいていの方は、な~んだという顔をして、ご自身で画面を観察し始めます。
よく挙げるポイントとしては、
色数は何色くらいあるか?
その色は、同系色なのか? 対比の強い補色なのか?
塗り方は厚塗りか?薄塗か? 重ね塗りの具合は?
タッチは短いか?長いか?どんな向きなのか?どのくらいの勢いを感じさせるか?
具象性の高い作品なら、色彩や形の再現性は高い?低い?
抽象的な作品でも、丸っこい形? 角角した形?
といった簡単なもの。
そのうえで、「そうした色と素材感、形の組み合わせを、みなさんは毎日、練習していますよ」と伝えます。
そう「服選び」。
ですから、何が描かれているのかわからない作品の前では、服を選ぶように、その色と素材感と、形の組み合わせはどうなっているかと観察してみてください。
きっと、いろいろと画家の試みたことが、今まで以上に見えてくるはず。
そのうえで、最後は「私にとってどんな感じか」でもOK.
ウキウキする。
荘厳な感じがする。
すっごく嫌!
春風に吹かれているみたい。
ちなみに、作品の前で、10分もお時間をいただければ、こうした基本的な構造を、丁寧に伝えることができます。
だって、ここまで読んでくださった方からすると、読み始めてから、まだ10分も経っていないでしょ?
こうした内容を、作品を前に、実際に観察を進めながら聞いていただければ、かなり腑に落ちて、「あとはご自身でお楽しみください」でも、お客様は嬉々として御自身で作品鑑賞に向かいます。
ただ、私はあまり、この鑑賞という言葉も使いません。
なにか、美術館で鑑賞というと、超能力が必要で、雷に打たれたような感動が襲ってこないといけないように思っているような方もいらっしゃるのではないでしょうか?
だから私は、多様な情報の集合体である作品を、「観察」して、より多くの情報を取り出しましょうとお伝えするわけです。
そして、この「作品は多様な情報体」ということ、もっともっと丁寧にひも解くレクチャーも気がつけば、20年以上、行っています。
その成果が、この私の汚い文字が躍るホワイトボード(実施するたびに写真を撮るように心がけております)
ちなみに、これをやり始めて2年程の頃に、一度、水戸芸術館かどこかで、これについての説明をして、「これははフリーソフトです。よろしかったらご活用ください。でもその際はご一報くださればありがたいです。」と言って、お二人程から「やりました」とご連絡をいただいたのを思い出しました。
では、もう20年以上前から、数えきれないほど、様々なバージョンで行っている、このレクチャーについて書き留めます。
まず、このレクチャーは、こうした問いかけから始まります。
「ここに1点作品があります。
彫刻でも陶磁器でもよいのですが、まず今日は、1点の絵があるとしましょう。
その作品を、誰かに説明してあげようと思った時、どんな説明の切り口がありますか?」
そして、それを捕捉するために、たいていの場合は、こう続けます。
「よく美術館では作品の脇に小さなパネルで、文字が書いてありますよね?
これをキャプションと呼んでいますが、ここには、どんな切り口がかいてありますか?
まず必ず書かれているのが、作者の名前。時には、作者の生年と没年がある場合もありますね。
大原美術館では、さらに作者の出身国や、活動した国の名前もあります。
それから、作品のタイトル。それに制作年。
あとは、油彩、カンバスというように、材料、あるいは技法が書いてあることが多いですよね。
説明の切り口 といっても難しく考えないでください。
今のお話のなかでも、いくつも出てきました。
作者の名前
作者の生年
作者の没年
作者の出身国
作者の主な活動国の
作品の名前
作品の制作年。
作品の材料、あるいは技法(←ここがすこしアヤフヤなのがミソ)
こんなふうに、簡単に考えて、作品を誰かに説明してあげる際の切り口を考えてください。」
ここまで紐解いた後、できるなら3分くらいと時間を制限/宣言して、各人が手元に用意したメモ紙に考えつく限りを書きあげてもらいます。
このメモ紙が手元にあるのは重要。
最初に思いついたことと、その後、他人の発言をきっかけに思いついたことを可視化するわけです。
ここまで準備が済んだら、「一人ひとつずつ」と念を押して全員から思いついたことを発表してもらいます。
なるべく簡単に考える
ひとり一つずつ
これも大切で、なるべくシンプルにシンプルに整理をしてゆきます。
ちなみに、この発表順についても一工夫。
参加者が円になって座っていたらよいのですが、たいていは教室のようなところでの実施。
それゆえ、そこにいる全員が一筆書きになるように順番を私が指定し、その最初から始めるかの、最後から遡るのかは、その最初と最後の人にじゃんけんをしてもらい、買った方が選択できるようにします。
当然、勝った人は、じゃんけんを終えた瞬間に「最初に発表!」と叫ぶことが多いです。
だって、後になればなるほど考えついたことが、他人に言われてしまう可能性が高いわけですから。
ただここで私は、教え諭すようにこう言います。
「それを貴方一人が決めても良いのですか (笑)
あなたの判断によって、大きな影響を被る人がいるのではありませんか(にやり)」
こうしてジャンケンの勝者は、隣にいる次の発表者、その隣の次の次の発表者と、改めて意思確認して、いよいよ発表が始まります。
その発表を殴り書きして出来るのが、ホワイトボードののたうち文字群です。
ちなみに、20人ほどいれば、2周。
つまりは40ほどの切口は、余裕で出ます。
もっとも、各人からの発表で、シンプルに「大きさ」「重さ」「色の数」「作者の友人」などと出てくるのは、半分くらい。
残り半分は、複数の内容がごちゃ混ぜになっていたり、言わんとすることがうまく言語化されていなかったりするので、私がそれをフォローして「・・・ということでいいですか?」と整理してゆきますし、なるべく具体的な例示を語りながら進めます。
時には、「作者の性別」という切実ながら、あまり意識されない(だから切実)切り口が出てきますから、そうした時には、そのトピックスについて、こちらから時間をかけて説明したりもします。
ですから、この話につきあっているうちに、作品を巡る様々な切り口の存在に気づきつて、アートを巡る様々な問題に、ちょっとずつながらも出くわすことにもなります。
そんな調子で進めて、20人2周が1時間もあれば十分です。
さらに、その後は「ではここから挙手制!」となると、たいていは次々に手があがりますから、教室のホワイトボードはしっかり埋まることとなります。
ちなみに、よく出てくる「NG」ワードが、「何々派か? 何々主義か?」
というもの。
けっこう知識が豊かな方がそれを言ってしまうことが多いのですが、そのNGワードが出た時は、全体のためには、とても良い事。
しばらくその方を相手して、こんな問答が続きます。
「例えば、印象派ってありますよね?」
「あります」
「印象派って、どうやって定義されるのですか? その作家が印象派か、そうでないかの境界線はどうやって引くのですか?」
まま、ここで二つの反応にわかれます。
私的に悲しくなるのが、こういうパターン。
「印象派は印象派です」から始まって、「だいたい絵は自由に見て感じればいいんです(キッパリ)」
そういう場合は、さらに一手間かけて、こうした話をします。
「そりゃそうですよね。でも、今は、誰かに作品について説明するための切り口を考えています。
そして、もうみなさんお気づきですが、それは自分自身が作品を観察するための、観察項目を確認する作業でもあります。
改めて、うかがいます。
様々な観察項目のうち、どの項目と、どの項目と、どの項目をチェックすれば、印象派と呼ばれる人たちとそうでない人を分けることができますか?
例えば、印象派と呼ばれる人たちは、どのようなものを描きますか?
使う色彩の明暗は? 色数は?
その絵具を画面に置くタッチは、長い?短い?方向性は?
絵具は厚塗り?薄塗り?
そうして出来上がった画面は凸凹? つるつる真っ平?
印象派と呼ばれる人たちの交友は?
どんな展覧会に出品してた?
こういう様々な観察のポイントを検討してみると、印象派と言っても、ものすごく狭義の場合もあれば、広義の場合もありますよね。
印象派=○○ と知識を覚えるためではなく、何をして印象派なのかをひも解くために、今、この時間を使っています?
それに、そうやって自分で観察して考えるほうが、暗記するより楽しくありませんか?」
さて、実は、このプログラムで、最も重要なのはこの後です。
ひとしきり、楽しく時間を共有して、殴り書きの文字でホワイトボードを埋めた後に、こう尋ねます。
「さて、たくさんの観察項目が出てきました。
ところで、ここで挙がった項目の中で、作品の画面を観察すれば取り出せる情報と、どんなに画面とにらめっこしてもわからない情報を分けてみましょう。
まずは手始めに、最初にみなさんがお手元に書き留めて内容を、その二つに分けてみてください」
そして、参加者が区分けを終えた頃合いを見計らって、「画面を見て観察できる項目の方が多かった方?」と尋ねてみると、結果は、ほとんど大半の方が、画面をどんなににらめっこしてもわからない情報の方が(圧倒的に)多いという結果になります。
これまで、全体で、画面から取り出せる情報が多かったことは、一度もありません。
ここまで書くと、前回の書き込みとつながるわけです。
そして、ここでは、ホワイトボードの殴り書きではなく、私なりにまとめたこれまでの最大公約数を示す図も置いておきましす。
左手が作品から取り出せる情報。右手が、取り出せない情報というだいたいの分け方です。
このように進めたうえで、参加者には、こうした念押しの確認をします。
・作品は多様な情報体である
・その情報の中には、画面を観察すれば収集できる情報と、画面をどんなににらめっこしても収集できない情報がある。
・そして、多くの方が、画面をどんなににらめっこしても収集できない情報に気が行きがち。逆に、画面を観察すれば収集できる情報といっても、あまりピンときていない。でも今日はその糸口をたくさん言葉にできた。
ここまで20名程相手に、かなり丁寧に進めて90分。
そして、最後にあたかも宣言するかのように、こう語ります。
「美術館で作品を鑑賞するというのは、作品から取り出せる情報をまずは観察することです。
吟味したり、味わったり、他と比べてみるためにも、まずは観察です。
そして観察する力を強めるのは、観察ポイントの引き出しを、こうして耕しておくことです。
さあ!美術館にいって作品を見る時は、作品をにらめっこしてもわからない情報を文字として求める前に、まずは作品から引き出せる情報を引き出しましょう!」
もっとも、「作品をにらめっこしてもわからない情報」が重要な作品や、ジャンルがあることも、あります。特に、コンテンポラリーアートと呼ばれる、昨今の同時代美術。
それは、またいずれ。
ここまでの骨子のおさらい。
・作品は多様な情報体
・その情報には、「画面を観察すれば収集できる情報」と、「画面とどんなににらめっこしても収集できない情報」がある。
・画面から収集できる情報へアクセスする大きな入口として、「何が描かれているか?」「どのように描かれているか?」を想定
・多くの方は、「画面とどんなににらめっこしても収集できない情報」に向かいがち。
そして/それだけに、「画面を観察すれば収集できる情報」といっても、あまりピンときていない。
・「画面から収集できる情報」に向かった場合でも、「何が描かれているか?」にとらわれがち。「どのように描かれているか?」の観察と言っても、それを項目立てる(観察のポイント)がはっきりしない。いや、難しく考えすぎ。
ということで、ともかく観察しましょう。そしてそれはシンプルな項目へ落とし込めるのです、ということを延々と書き連ねてきました。
さて、この認識をベースにしながら、私なりに、いくつかの鑑賞支援のプログラムを作って行く時に、もうひとつ気をつけるのが、「作品を理解する対象(=ゴール)と位置付けるのか?」、それとも「作品を想像や創造の基点(=スタート)と位置付けるのか」という点です。
最初にご紹介したサム・フランシス《メキシコ》のプログラムならば、最初の意識付けの質問である「色数はいくつ?」という問いは、作品を理解する対象(=ゴール)と位置付けたパート。
そして、そこから画面を見て感じた運動感を身体で表現するのは、作品を想像や創造の基点(=スタート)と位置付けたパート。
このように、双方を混ぜたプログラム構成もありますが、あまりそれがグチャグチャにならないようにして、ともかくどちらかをはっきりとプログラムの主目的に据えるようにします。
ちなみに、サムの前で体を動かすのは、明らかに後者が狙い。
ちなみに、大原美術館では、年間のべ3000人ほどの未就学児童が来館して、様々なプログラムを実施しています。
未就学児童向けのプログラムに対して、だいぶ前に、「未就学の5歳児に絵がわかるのか?」と疑問を呈する意見をうかがったことがあります。
でも別に「わかる=理解しなくてもいい」と考えています。
それよりも、作品を基点にして、5歳児たちがどれほどの想像、創造の力を発揮するかが、このプログラムの肝。
それに5歳児の理解力をあなどることなかれ。
例えば、彼らを迎えてのプログラムの冒頭には、絵文字(ピクトグラム)を示しながら館内の禁止事項を伝え、そして、なぜこうした禁止事項があるのかをこう伝えます。
「美術館は、みんなの大切な宝物を、みんなで楽しむところ」
つまり、みんなの大切な宝物ですから、それを痛めるようなことをしてはいけないし、みんなで楽しむためには、自分勝手な行動で他人に迷惑をかけてはいけないわけです。
このピクトグラムの示す意味、そして美術館の役割について、5歳の小さなお客様たちも、すぐに覚えてしまいます。
でも、頭で理解しても、楽しければ声が大きくなったりするのが5歳児の当たり前。
それゆえに、大原美術館では、受け入れに際して、館と園が協力して、子ども5人に成人1名という体制をひきます。
この5歳児との時間からも様々な気づきを私自身ももらっています。
美術館での5歳児との時間だけではなく、倉敷市立短期大学で受け持たせてもらっている、隔年開講の「美術史」の授業も、私にとっての気づきの宝庫。
基本的に、大原美術館所蔵品を使いながら講義ですが、90分の授業のうち、20分近くは、学生には、こちらでフォーマットを整えた用紙を配布したうえで、作品画像を映し出し、「そこからわかること」をともかく書き出すという時間にあてています。
具体的には、まず作品の全体図を1分、その後、部分図を4~6カット、それも最大で1分、最後にもう一度全体図を1分。
これを1回の授業で3作品くらい。
最初は戸惑っていた学生たちも、「難しいことはいらない。わかった事ならなんでもよい。何が描かれているか、人物なら何を着ているか。それから、赤色がある、とか、塗り方が雑とか、なんでもよいから、わかることを書きとめる」と毎回言い続けていれば、次第に「画面を観察すれば収集できる情報」の取り出し方は上達します。
ちなみに、授業の最後に「今日の授業でわかったこと」も10分間で書き出してもらいます。
普通に、授業を聞いて、それなりにポイントを書きとめておけば、その記述は3分もかかりません。
なので、提出した人から退出OKにしておくと、それなりに私の話も観察しておいてくれます。
このやり方は、昨年、学校法人角川ドワンゴ学園が運営する通信制の高校、中学であるN高とのオンライン授業でも主軸とさせてもらいました。
ZOOMを使っての授業ゆえ、チャット機能で、書き込んだ文字が全員閲覧可能になります。
これが面白かった。
まず本当によく見る!
そして、「わかったこと」としていても、どんどんと「私にはこう見える」「私はこう感じた」が入ってくる。
つまり、理解するゴールとして作品を据えていながら、どんどんと、自分の印象や感覚を羽ばたかせる出会いの対象=スタートしても作品を使い始めるわけです。
こうした「画面を見てわかったこと」を主軸に、30分×3回の駆け足で、西洋美術史をたどりながら、それぞれの作品が、どのような作者の意図を反映しているのか?裏をかえせば、それぞれの作品が、それぞれ様々な問題提起の場であることを実感してもらうようにプログラムを進めて行きました。
受講生には、中学生も混じっていましたが、この学生たちならば行けると、最後に、リアルタイムで(ZOOM越しのオンラインだが)作品を、私と一緒に見ながら観察を進める(いわゆる対話型作品鑑賞)に、パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》(検索をかければ、いくらでも高精細画像が出てきます)を取り上げてみた。
この作品は、すでにそれまでの講義の中でキュビスムの事例としても取り上げたが、あえて異なるアプローチをするために、私からの最初の質問は「この中に人間は何人いますか?」
それに対して驚きの答えの連発。
学校側にはこの一部始終が録画されていると思うが、私がいまだに覚えている答えは、確かこんな感じ。
・4人。真ん中の二つの身体は、同じ人間の異なる姿。
・人間は真ん中の二人だけ。後の3人は、人間ではない。だからといって、それが何とはわからない。けど人間ではない。
・3人。両脇の立っている人は異界の存在。
・4人。右上の存在は、どこか違う所から、こちらの世界に出現中。残る4人がこの世にいる人間。
まあ、観察と想像(勝手にじゃないよ)が高密度で交わり合った発表が続きました。
と書きとめたのは、前回、「作品を理解する対象(=ゴール)と位置付けるのか?」、それとも「作品を想像や創造の基点(=スタート)と位置付けるのか」ということを書きましたが、もしかしたら想像や創造は、巡り巡って、その作品を制作した作者の意図(「本質」という言葉を使うのはとっても危ないのだけれど、そんな感じ)に、実はもっとも最短距離で近づくルートなのかもしれない、という淡い思いがあってのこと。
これは、長年の大きな課題で、たぶん、生涯、自分でも腑に落ちないだろうな~と思っております。
ちなみに、こうした画面観察とその記述をベースにしたプログラム進行は、複製図版を使用せざるを得ない場合、かえって効果的だと思います。
美術館の実際の作品の前で、大勢の人間が、画面を見ながらメモを取るということが、作品保存や公共の場という観点から、なかなか難しい。
けれど、スライド投影や、ZOOMでの画面共有だと、そのバリアはすっと消えてしまいます。
それにカメラの目を通じて、人間の視覚では取り得ない高解像度の画像を提示できますから、絵具のタッチや塗り重ねは、あるいは広い風景の中の小さな人の姿なども、鮮明に映し出すことができます。
大学や高校の授業のみならず、この夏はZOOMでのオンライン開催にならざるを得なかった学校教員の免許更新講習でも、好評でしたし、ともかくやることは簡単ですから、うまくアレンジして多くの場で実施されればいいなと思います。
未就学児、オンライン、閉館後を使ってのプログラムなど、いくつかの事例をもとに書き継いできましたが、最後は、企業研修などの成人向けプログラムで思う事。
この数年、企業研修などで、成人向けのプログラムを、閉館後の美術館を借り切っていただき実施する機会が何回かありました。
その時に、盛り上がるのが「仲間はずれ探し」
例えば、現在の大原美術館の本館1階の展示場のある壁面には、こうした作品が並びます。
※いずれも、大原美術館HPで画像が見られます。
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《幻想》
ジャン=フランソワ・ミレー《グレヴィルの断崖》
クロード・モネ《積みわら》
カミーユ・ピサロ《りんご採り》
ポール・セザンヌ《風景》
この作品達を前にして、参加者には、このように声をかけます。
「この中で1点仲間はずれがあります。画面を良く見て、仲間外れの作品を探してください。わかった方は、私に耳打ちしに来てください。答えはいくつもありますから、何度でも答え合わせにきてください」
そうすると参加者たち(だいのおとな)が目を輝かせて画面を観察し、そして私のところへと我先に答え合わせに来ます。
仲間を外れる特徴は、ほんとうにいろいろで、発見の難易度も差があり。
まず序盤で出てくるのが、こんな答え。
「ピサロだけ、空が描かれていない」
「セザンヌだけ人がいない」←ミレーの作品に人影を見つけて気が付く場合が多い。
「ミレーだけ油絵ではない」←キャプションの文字情報から攻めるタイプ
このレベルなら気づきやすいので、最初のうちは、この正解の中身を他人にはいわずに、本人に向かって大きな声で「正解」と言って、「でもまだまだありますよ」とささやく。
この時点で発見された「正解」をみんなに言ってしまうと、観察の意欲がそがれるので、そのような対応にするが、私の前に列ができ始めた頃からは、「正解」の声と共に、その内容を私から大きな声で発表し、逆に全員に対して、もっと気づきがたい(気づきの難易度の高い)正解を探すように誘います。
このあたりから、
「セザンヌ。全部塗られていない」
「シャヴァンヌの画面は、つるつるで真っ平」
というレベルの、「どのように描かれているか?」の答えが出始める。
そうこうするうちに、私としては最高難度の「正解」が、でも、それが的確な言葉にならないながらも登場してくる。
「シャヴァンヌだけ、描かれているのが神さま」とか「シャヴァンヌだけ、描かれているのが、実際にはいない人」とか「シャヴァンヌだけ、空想のシーン」。
この間、10人で15分~20分くらいは簡単に過ぎてゆく。
私とすれば、研修と言いながら、何を教えるでもなく、楽しくみなさんの答えを待つだけだし、参加者もかなり楽しく画面観察に没頭できる。
そして、ひとしきり場を収めた後は、こういういつものまとめ。
「絵を見るのに超能力はいりません。
作品鑑賞は、雷に打たれたような劇的な体験がやってくることは、そうはありません。
まずは、今、皆さんがやってくださったように観察しましょう。
そうすると、何が描かれているか? どのように描かれているか? 様々な発見があったでしょ。
さらには、今、皆さんの総力を挙げての観察の共有、積み上げで、なんと皆さんは西洋近代絵画の大きな転換点も見つけてしまいました。」
と言って、シャヴァンヌ作品の前に参加者を集めて、ひとしきり、美術史の講義をする。
その中身は、またいずれ。
こうして作品観察にギアの入った眼を作った後は、ほっといても皆さん、よ~く作品へとアクセスする。
もちろん、この基礎耕しの後に、様々なプログラムの展開もあり。
もちろん、その中に、サム・フランシスの前で踊ってもらうパターンもあります!
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