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「あたらしい」を、紡いでいくということ

「もう話すことはなくなった」となったときにセットで思い出すことがある。小学校のときに「世界でこれだけの歌が、何百年もの間歌われていて、ヒットソングはまあ似ている曲も多いし、あと10年もしたらみんな『あたらしい曲なんてもうつくれません!』ってなってるんじゃないかなあ」なんておもっていたことだ。

あれから10年。ついぞ(そして幸いにも)そんなことはなく、新しい曲は次々と生まれ、そしてまた新しいバンドも次々と生まれている。

「話すこと」「書くこと」についてもそう。「すでに世界の多くのことは語り尽くされているのだなあ」とこれまた小さいときに思ったことがあるのだが、新しい話は次々と生まれ、こうして日々ニュースや、新しい視点からものごとが語られている。

そこでおもうのは、多くの「あたらしいもの」は、決して「あたらしい」ものなんかじゃないのだということだ。これまでつながりえなかったもの同士がつながりあうことで、僕らにとっての「あたらしい」ものは生まれてくる。

だからこそ、文化は「あたらしい」をうむことによって紡がれていく。昔から脈々と受けつがれてきているものだけども、あたらしくもある。それがきっと、文化としての成長なのかもしれない。

そんなわけで、「あたらしい」ものが生まれない世界をおそれることはなくなった。「あたらしい」ものは、自分で生み出そうとして生み出すものなんかじゃない。今感じとれるものは「なんともない」ものとしてすてずに、きちんととっておこう−−と心に沈みこませるようにおもったのは20歳になるころ。それでもいまだに「もう話すことはなくなった」とおもう瞬間が生まれてしまうのは、もうどうしようもないことなのかなあ。

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