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#95  ”違うもの”を重ねていくことでしか世界を描くことはできない

小説家の柴崎友香さんの、こんな言葉を見つけた。

SFは世界の描き方や小説の可能性を示してくれるものでもあります。自分が見てる世界と人が見てる世界は違う。でも、その”違うもの”を重ねていくことでしか世界を描くことはできないのではないかと思うんです。

ーー「違うものを重ねていく」。そもそも人の数だけ世界があるんじゃないかというくらいに見えているもの、感じているものはちがっているし、だからこそ生まれてしまう問題もある。

だけれども、違ったものが重なるということは、面白いことでもあるのだ。たとえば昔、さまざまなジャンルの本をいったりきたりしながら読んでいると、困ったことが起きた。

まず、Aという本はXをよしとし、Bという本はYをよしとしている。XとYは社会主義と共産主義、男性と女性、目標を決めてから行動することと考えながら行動することなどのように、それぞれが相対するものである。

そうすると、まずAという本を読んだ僕はBという本を読んだときに、「Yをよしとするとは、なんてことだろう。Xがいいにちがいないのに」という風に思う。しかし、だんだんと読み進めて行くと、「Xはもしかしたらちがうかもしれない。Yの方がいいのかも」と思う。

ただ、まだ「YもXもいいですね。」とはならない。そこで必要したのが、「違うものを重ねていく」ということだった。「それぞれあったら、どちらかをきらいになったり、捨てたりしなければならない」と当時は自然と思いがちではあったが、どうやらどちらもたしからしいものではあるし、これはきっと、「どちらかがいいと言い切るべき問題」では、ないんだろうな、と。

「こことここを足し合わせると、こんな可能性が開けてくるね。」ーーそんなことが僕の当時の「違うもの同士の重ね合わせ」だった。必要とした、というよりかは、そっちのほうがよっぽど楽しかったし、なにより10年後、1000年後の物語となっていきそうな予感に、すっかりときめいてしまった。ときめいたというと、いくぶんおおげさだけども。

だから冒頭のフレーズが目に入ってきたときに、そんな昔のことを思い出したのだろう。違うものを重ねていくのは、ときに泥水を飲むように大変だけれど、重ねることで生まれる景色に期待よせてしまうから、きっとやめることはできないものだ。僕にとっていまだに一番遠いところにいる人は、どんな人だろう。

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