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#90 ”文人”と”世人”の分離

日記はいつも「書いたら書きっぱなし」なものでもある。記事とは違って構成をかっちり決めてから書き出したりなんてこともない。

そんなわけで書き始めてから本を手に取ると、デヴィット・ヒュームのエッセイを元に書かれた、こんな言葉を見つけた。

ヒュームはこのなかで、まず精神の仕事にたずさわるひとびとを「学識のあるひと」と「話し好きのひと」とに分け、前者に必要なのは「余暇と孤独」ならびに「長期間にわたる準備と厳しい労苦」であり、後者に必要なのは、「快への趣味と知性の品のいい使用」ならびに「同胞との社交と会話」であるとしている。そしてこの二つが分離してしまっているところに「現代の大きな欠陥」があり、これが知識の世界にも社交の世界にもわるい影響をあたえてきたにちがいないとしている。
『「聴く」ことの力』(鷲田清一)

そのあとには「この”文人”と”世人”との分離は解消されなければならない」という風に続く。たしかに学者やビジネスマンと、屋台のおじちゃんや近所の主婦とはなかなか相容れない関係にある。一方では「なんで日々能天気に頭も使わずに暮らしていくことができるのだろうか」と思い、もう一方では「なんだか偉そうねえ」といった具合だ。これではどうやら、仲良くなれそうにもなさそう。そう、類は自然と友を呼んでしまうし、ちがったものや人や考えは自ずと避けてしまうものだ。

だから「外部性」というのを意識して、あえて取り込んでいく必要がある。新鮮な空気を吸うように、朝目が覚めて眠気に満ちていてもなんとか布団から出るように。

「外部性がない」ということは、それはそれでずいぶんと怖い。外部性がなくなればなくなるほど、新しい風に触れることは面倒になる一方だし、相容れないものを傷つけてしまうし、閉ざされた家庭というのは悲劇的な物語を生み出してしまうし、同質であることを求め合う関係性は長続きはしない。

「自分は自分の信じたい物語を自ずとみてしまう」ーーそんなことは数十年数百年も前からあるということは明らかだしそれはそれでまあ自然なことなんだけれども、気をつけなければなあと思いながら折に触れておもう。というわけで自分で自分に「外部性はよろこんで受け入れていこうね」と言い聞かせながら、こうして書いております。

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