ステージを超えるか

08/22 日中はぬるぬる仕事。『なめらかな世界と、その敵』を読む。「二者間、あるいは三者間の巨大な感情同士のぶつかり合い」であり、その巨大な感情の増幅装置、舞台装置としてSF設定が関与している点がすべてに共通している。

飛浩隆さんは短篇「彼岸花」を読んだ際の感想で『巧緻であるがゆえに立ちはだかる「狭さ」が(老いぼれとしては)ひっかかる。短編集を仕上げたら(それが年間ベストになることは疑いようもないが)、長いものに着手すべき季(とき)が来たのではないか。』とツイッターで書いていて、これは僕にもよくわかる──が、「彼岸花」が狭いのはそれはそういうものなのだから仕方がないだろう、という思いもあるが。で、これへの応答として塩澤快浩編集は書き下ろしの「ひかりより速く、ゆるやかに.」に対して、『飛浩隆さんが「彼岸花」に対して示された懸念を踏まえ、それを意識的に超えに来ていると感じました。恐ろしい話です。』といっているわけだが……。

微妙にズレているのは、飛浩隆は長いものに着手すべきだ、といっているのであって、「彼岸花」に対して示された懸念は超えられていないのではないかと思う。「ひかりより速く、ゆるやかに」はあまりにも鋭く洗練された伴名練短篇であり、伴名練の最高傑作であり、日本SF史にその名がきらめき続けることは間違いない。でもその一方で、これはこれまで伴名練が書いてきたものの方向性、構造を大きく変えたものではない。飛浩隆が『グラン・ヴァカンス』を出した時のような、方法論と構造を大きく複雑化させ、ステージそのものをガラッと変えてしまうようなものではない。(これは短篇だし、この『なめらかな世界と、その敵』のための書き下ろしを狙って書かれているものであって、それが悪いわけではまったくない)

無論、作家には短篇向きの作家長篇向きの作家、そのたいろいろな傾向があるものであって、僕は別に伴名練が長篇を書くべきだとは思わない。けれども、長篇を書くとしたら得意としてきた構造を「超えて」いかなければならないし、僕が期待するのもそれである。飛浩隆と伴名練の両者はどちらも文体と作中の構造を締め上げすぎなほどに締め上げ、過去のSF史を緻密なまでに織り込んでいく作家であり、そういう作家が「長篇」を書く、といった時にどれほどの苦労があるのか僕には想像もつかないが、伴名練が書く、伴名練の『グラン・ヴァカンス』をいつか読んでみたいものである。

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