我が意を得たりは危険である

最近ノンフィクションを読んでいて思うのだけど、意識していないけれどいろんなテクニックを使っていることがあるよな、と思うわけである。

たとえば、学術系だったり、ポピュラー・サイエンス系のノンフィクションでは当然たくさんの研究・実験が紹介されている。されているのだが、別にある結果を示唆する研究があることはイコールである結果を保証するものではない。一番多いのは自説に都合の良い研究や結果が出ている研究だけを意図的にピックアップしてそれだけ紹介する、というもので、これは「やってる・やっていない」というか、基本的にすべてのポピュラー・サイエンスノンフィクションにはこの手の偏向があると考えたほうがいい。

客観的な技術の歴史を書こうとしている、とかでなければ何らかのテーマ、自説があってそれについて書いていることがほとんどであり、自説に都合の悪い事例があったとして、それを載せるかどうかは個人のスタイルや矜持の問題である。で、読み手としては少なからずそうした偏向があるという前提で読む必要がある。人によって違うといっても大まかな傾向としては、1.自説に都合の悪い話は完全に排除する。2.自説に都合の悪い話も少しは混ぜる。3.自説に都合の悪い話もできるかぎり混ぜるの3パターンがある。

読みながら、だいたいこの本はケース1だから、紹介されている事例自体はおもしろくても書評は無理だな、とか思ったりする。2は条件付きで書評できる。3は書評できる。もちろんこれは自分が「都合の良い研究ばかり紹介しているかどうか」を判断できている必要があるが、当然ながら僕だって完全に判断できるわけではない。類似ジャンルの本を読んでいたりすると知っている話を意図的に隠されていて気がつくケースもあるし、紹介されている事例が20年とか30年前といった古いものばかりのケースでは怪しい度が上がっていくし(もちろん無条件に古いから悪い訳では無いが)、「判定基準」自体は無数にありすぎて、それについて書くと長くなってしまう。

いろいろなテクニック・気をつけていることをもう一個紹介すると、読み始める前、読み始めた直後に「我が意を得たりな本だな」と思うような本について読む・書く時は注意が必要である。たとえば最近献本でいただいた『引き算思考』(8月19日発売なのでまだ未刊)を読んだのだけど、これはまさに我が意を得たりな本だった。

僕は積極的に生活や仕事から「引き算」することを目指していて、とにかくやらない、使わないものはすぐに捨てる、やめるの三つが僕の行動基準である。本もすぐに売るから本棚もないし、電気カーペットのように冬が終わって1年後に使うとわかっているものでも、1年後に買い直せばいいからと捨ててしまう。仕事も極力やらないし、新しい規則が作られそうになったら積極的に反対する。僕はやめることに関してはなかなかうまい。

そう自認している人間だから、『引き算思考』などという本はまさに我が意を得たりなのだが、そうした心構えで読むほど危険である。確証バイアス(自分がすでに持っている先入観や仮説を肯定するため、自分にとって都合のよい情報ばかりを集める傾向のことです)によって、仮に書かれている内容がいかにバカらしい理屈であっても肯定してしまう危険性がある。我が意を得たり、と思ったときほど、いったん頭を引き離してフラットに読み進めるための努力をする必要がある──というように、たかがノンフィクションを読むにあたっても、いろいろ考えたり、気をつけたりすることが多いのである。

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