『神はいつ問われるのか?』と『赤目姫の潮解』と『四季』

10/27 午前中はNPOの仕事。昼はラーメン屋でラーメン。夜はパスタ作る。2ヶ月前に買った4kgのパスタがなくなって新しいパスタを買って食べている。個人的に太麺が好きなので太いパスタにしたのだがこれが素晴らしい。加えてテキパキテキパキ機能的にパスタをつくれるようになった。

WWシリーズの最新刊を読んでいたら森博嗣『四季』が読み返したくなって読み返す。僕が人生の中で一番読み返した作品はこの『四季』だ。何度読んでも驚くほどの鮮明さで、常に新しく感じる。今回は読み返していて、ああ、この時に『赤目姫の潮解』でやろうとしていたことの萌芽があるんだと思った。というより、真賀田四季という存在そのものが『赤目姫の潮解』に繋がっているのだろう。たとえば下記のような一節が四季にはある。

何故、自分は、空間や時間を、現実の並びの中で捉えられないのか。
四季はそれをいつも考える。
自分だけにある傾向だろうか。
明確にシーケンシャルな対象のはずなのに、彼女はそれらをランダムに再構築しているのだった。それも無意識に。気づいたときには、こうだった。けれども、このシステムこそ、今では思考型コンピュータのアーキテクチャに応用され、既に構築知性には基幹のストラクチャとなっているもの。
森博嗣. 四季 冬 Black Winter (講談社文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.379-384). 講談社. Kindle 版.

時間や空間を現実の並びでとらえない描写、世界。それこそは『四季』で一度試みられ、『赤目姫の潮解』で再度挑戦された形式であり、真賀田四季の観ている世界なのだろう。だから、設定がどうという以前の表現の問題としてそれらは繋がっているのだ。そして、『神はいつ問われるのか?』を読んでいてこの『四季』を思い出していたのは、いくつかの視点からみて、本作の手触りがとても『赤目姫』や『四季』に近いところにあったからだ。

まず、『神はいつ問われるのか?』の引用文に用いられているのがカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』だ。

 トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、“そういうものだ”。(SlaughterhouseFive/KurtVonnegut,Jr.)
森博嗣. 神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned? (WWシリーズ) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.21-25). Kindle 版.

死んだものは、この特定の瞬間にそうであるだけであって、他の瞬間には良好な状態にある。これはつまるところ、時系列がトラファマドール星人にとってはあまり意味のない問題である、ということだ。すべてはあるがままにあり、悲劇も喜劇もある時間軸上の一点の解釈に過ぎない。

そして、神はいつ〜の全編を通して主題になっているのはヴァーチャル・リアリティだ。これは森博嗣が第一作(順番としては最初じゃないけど)から作中に取り続けてきたテーマでもある。そこでは、多くの認識、感覚を自在にコントロールすることができる。現実と虚構が入り混じり、時間の流れる速度、時間軸の入れ替えさえも自由になった世界──その世界認識は、とても『赤目姫の潮解』と真賀田四季が観ている世界に近いところにある。

仮想空間とは、「仮想」とついてはいるものの、現実と仮想を隔てるものは実質的にはその情報量の差にすぎない。我々がリアルをリアルとして理解できるのは、リアルのほうがより情報量が多いからで、仮想からの情報量がリアルを上回れば、その時我々はその両者を隔てているものを感覚から理解することは難しいだろう。そして、そうなった時、我々の世界認識というのは、真賀田四季が認識しているものや『赤目姫』で描かれているものに近くなるのではないか。森氏が『赤目姫の潮解』で試みた時間も空間も不連続な世界認識の描写は、だから単なる実験ではなく──「いずれ、世界は──というより、今人間と呼ばれている存在は、このような認識を持つようになる」という、氏のリアリティと合わさって生まれたものではないのか。

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