積読について考える

積読が良いだの悪いだのというは読書家の間ではよく話題になるテーマである。たいてい積読が悪い、積読に意味はないという人が現れて(現れていないのに勝手に現れたことにされるケースもある)、それにたいして積読にはこんな意味がある! 積読は素晴らしい! 積読は正義だ! という反論が読書家、積読家たちから寄せられる。ある種様式美じみた流れである。

で、個人的にも積読はとてもいいものだと思うけど、一方で別に良い側面ばかりでもないよな、とも思う。まず良い点をいくつかあげてみよう。

  • 出版苦境に苦しむ出版社、あるいは同じく苦境に苦しむ古本屋に金が入る

  • 物理的な物体として自分の家の中に鎮座していることで、読まねばという気持ちが高まったり圧力がかけられる

  • たとえ今すぐに読まなくても、10年後、20年後に読むかもしれない。「読んでいない本」であっても、そこに何が書いてあるのかをある程度知っておいてあるのならば、それは「必要な時に手にとられるために並んでいる」のだ

  • 昨今はすぐに絶版になるので、確保しておくだけで大きな意味がある。

  • 読まなくても美しい本、持っているだけでテンションが上がる本は、読まずとも家に置いてあるだけでプラスである。

  • 本にはコレクターズアイテム的な側面もあるから、読むとか以前に集める過程それ自体が楽しい。

次に、悪い点についても考えてみよう。

  • まず、物理的に場所をとることで場所コストをとっている。場所コストとは実質的に家賃のことであり、本の真のコストは「買ったときの値段」だけでなくこの「場所コスト」をあわせたものだ。

  • 積読をためこめばためこむほどこの場所コストは増大していく。確かに積読しておけば圧力も感じるし10年後20年後に読むかもしれないが、1000、2000といった本が積み上がっていればその間、読まれもしない本がムダに場所コストを浪費し続けることになる。そのうえ、多すぎると自分がもはや何を持っているのかも忘れて圧力さえも消えてしまう。

  • 「整理」コスト、あるいは「探索」コストの問題がある。本は買ってそれで終わりではない。無造作に家の中に積んであるだけだと、いざその本を読もうとしても「探索」できない状態になる。家に何万冊も本が無造作に置かれている人がよく語る笑い話で、「もう家の中に絶対にある本を探すより通販や古本屋で買ったほうが早い」があるが、これでは積読の利点が完全に消えている。探索コストを下げるためには整理する必要があるが、大量の本が存在する場合この整理コストも馬鹿にならない。

このあたりだろうか。積読が良いものはもちろんだけど、「場所」「整理」「探索」の3コストが存在することは意識する必要があると思う。積読したくても場所コストが払えない人もいるだろうし(僕だ)、逆に払える人もいるだろう。整理が苦手で整理コストが払えない人もいる(僕だ)。逆に、探索コストは探索が楽しいからいくら払ったって構わない人もいると思う。

「場所コスト」をいくらでも払えるぐらいの金があり、整理コストをかけるだけの手間(もしくは金)をいとわない人であれば、探索コストはほぼかからないからこういう人は理想的な積読家──というより蔵書家といえるだろう。たとえば水鏡子さんなんかは、この理想的な蔵書家のように(僕はからみがないから、外から眺めたただの印象にすぎないけれど)思える。

一方で、別の評価軸として「もう整理もできてないし場所コストも支払えてない(家が蔵書でめちゃくちゃになってる)」けど、本の山、あるいは本の海に埋もれて生活したい、という感情もあるわけであって、それはそれでもうコストとか度外視で本の海を楽しむしかない。海を前にしてコストとかいったってしょうがない。また、「積読」とは別の評価軸として他にも「収集それ自体が楽しい」(推定)蒐集家たちが存在し、僕はコレクター気質がまったくないからわからないが、このタイプの人達はおそらく収集の過程自体に喜びが発生しているから、利益がをコストが上回っていることも多いのだろう。

本を「読む」ためのものとしてだけとらえるか、美術品的、コレクターアイテム的に「観て、持っていること」自体に価値を求めるかの違いもある。積読が善か、悪か、良いか、悪いかというより、人によってこうしたコストや本に関わる認識が異なるから、みな自分にあったレベルの積読をしましょうね、という感じがいっちゃんこの手の議論では丸いのかもね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?