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徳川家康の命式

四柱推命には身強・身弱判定がありますよね。
日干の隣に同じ干があるとか、日干に通根する根があれば強く、
根が一つもなければ弱い命式とか…。

が一つでもあったらその人は本当に強いのでしょうか?

江戸幕府を開き、天下統一を果たした徳川家康の命式を見てみます。

四柱


命式中には日干壬に対する根であるは一つもありません。

また、かなり偏っている命式であることは間違いないです。これだけでは発展(循環)しない命式です。


壬寅日生まれ。寅月(冬)の壬。

壬寅とは壬が持続的に寅に水気を与えている干支で、寅木の水気はたっぷりあります。

寅は、春の干支ではなく冬の干支です。

冬の干支ということは、動かない・じっと耐える・忍耐強いという性格だということがわかります。

忍耐強いので、長期的な目標を視野に入れて行動します。
逆に、今目の前にあるものを考えることは苦手な傾向があります。


という干支は壬か亥が来ると水気を吸って急速に成長します。
一定の水量まで水が貯まるとそれ以上は成長しません。
寅月生まれの方が壬や亥の運勢が来ると良いのは、こういった理由からです。

寅は地中深くに根付いて、丈夫な大木に育つ必要があります。
しっかりと根付くために壬が必要になります。

壬寅というのは壬が寅を育成します。育て屋さんです。子だくさんになりやすいです。

年柱が癸卯で、教育・技芸の意味。卯は飛び出して活発に動き回る性質があります。
月柱は甲寅。一人で自立して行動する活動が多いように感じます。
時柱も壬寅。何かや誰かをじっくり育てる人です。

年支卯と月支寅の並びを見るに生家から離れる人だと思います。

甲という天干は精神的ですが、
寅という地支は物質が関係します。
家康が公的な財政政策を推し進めたのも、寅が目に見えるものを取り扱う干支だからかもしれません。

年柱は癸。壬日干から見た癸は通変星「敗財」。
敗財は乙の働きと同じです。
乙=左右に広がる(群れる)
敗財なので陽干から見た陰干はか弱い者。自分より弱い人々を集めて群れを作る、部下をたくさん作ってお世話をする才能があります。
何かしら行動する時、一人で行動することはほとんどないと思います。


月柱は甲。日干壬から見ると「食神」の通変星になります。
食神とは丙の働きと同じです。
丙=育てる
職業としては、「のんびりゆったりセンス良く、何かを育てる人」になります。技芸の才能。

月柱にある甲は基盤がなく不安定な状態です。そのため己土の基盤が必要です。
社会での活動場所は変動しやすいと考えられます。




↑の方のブログ記事が参考になりました。家康の大運を見ていきます。

大運


大運は逆行。「寅~午(冬→秋→夏)」と流れます。

寅~子(冬) 勉強や研究をする時期

亥~酉(秋) 真面目に働く時期

申~午(夏) 商売を始める時期

このような人生の流れになると思われます。


大運癸丑~壬子(2~21歳)

季節は冬の大運です。


人質生活の話が有名なようですが、家康は8~19歳まで英才教育を受けて過ごしています。経済状況も豊かで精神的にも安定していた。とてものんびり穏やかに勉強できる環境があったんですね。

人質になったのは、年柱の癸卯が癸丑・壬子大運に入って凍りついたからとも考えられます。

私の考えでは、勉強することしかないほど何もないくらいだったと考えられます。

冬の大運(子丑寅)を通過する人はだいたいの方が勉強する生活を送ります。


冬は勉強や研究をするのには最適な時期です。家康の場合は人質でしたが、身動きできない状況になりやすいのは冬の季節で、植物は休眠しています。寒すぎて何もすることがないからですね。

寅は丑に根付きます。基盤が来て、人質生活を送ることになったと思います。
丑というのは真っ暗闇の干支です。
家康の命式は癸が暖かさを作ってくれていますが、丙がないため冷たすぎるのだと思います。
この大運時に両親とは別離しています。


次の大運に壬子が来て甲寅がよく水気を吸い成長します。
年柱癸卯の影響もあるかもしれませんが、質の良い英才教育を受けることができました。
それで師匠や教師の人がいたのでしょう。
幼少期に母も父もなくした家康は孤独でしたが、運勢には恵まれました。


根というのは、自立するという意味はあると思います。
通変星「比肩」も同じ意味で、自立するということだと思います。そういった意味では壬子大運時は孤独にはなりやすいと思います。


大運辛亥~庚戌(22~41歳)

秋の大運に変わりました。

亥は、壬が丁で熱をもらい、辛という種子を抱いて、己土の基盤の上で辛から甲という新たな生命を生み出す空間です。

しかし、辛に対して必要な丁・己の干がありません。
月上に甲を持っているので、辛は甲という新しい生命体に変化することができます。

亥が来たので、寅木が水気を吸って成長できます。

癸亥年(1563年)
【寅亥支合】

24歳、名前を「元家」から「徳川家康」に改める。

丙寅年(1566年)
【寅亥支合】
【丙辛干合】→水になる→新しい種子を生み出す

三河国統一。


庚戌大運

庚は月柱甲を剋す関係。庚=下りる、甲=上がる
寅は戌と出会い光を拡散する活動を始める。


乙亥年(1575年)、【庚乙干合】収穫の年。
寅亥支合。家康は力をもらう。
長篠の戦いで武田勝頼を破る。

壬午年(1582年)、【寅午戌三合】(拡張の意味)
武田勝頼を滅ぼす。

本能寺の変が起こり、織田信長は亡くなる。→次の大運己酉への暗示?


大運己酉~戊申(42~61歳)

月柱が根を張れる己土がやって来ました。
ただ大運は酉なので、甲は上に伸びて成長する時期ではないと思います。
甲己干合で土化すると考えます。


卯酉冲。→殺気の意味
酉と寅の暗合。(丙-辛)→水になる。
酉種子が寅根を傷つける。→殺人・暗殺の意味…本能寺の変?

日柱壬にとっての官星でもある己土、戊土がやって来ました。
この大運中は、家康は他人に管理される立場に置かれる状況になります。
己酉大運では月柱の甲は土化してしまいますので、ますます官殺が強まります。辛い時期ではあったと思います。

甲己干合】は、今まで続けてきたことを一端中断させられます。
そういうことで、締め切り・再スタートなどの意味があります。

本能寺の変で信長が亡くなった後、家康は再スタートを切ります。

甲申年(1584年)
【寅申の冲】〈卯申暗合〉
【甲己干合】甲は土化。
羽柴秀吉と1年以上に渡る戦い。

丙戌年(1586年)
日柱壬と丙の冲。寅戌。
秀吉の家来になる。

戊申大運

夏の季節に変わりました。

寅申冲。

戊申大運では年支卯は申と暗合。(庚-乙)
→卯が申の中に入って種子になる
→卯が申によって拡散運動を中断させられる
→結果として種子を作り出す

月柱甲が戊を剋す→戊は年柱癸を強力に剋す
→年柱なので目上の人が剋される?

月柱の甲は戊という高い山に登りました。更なる高みを目指そうとします。
関ヶ原の戦い

戊戌年(1598年) 【戊癸干合】【卯戌支合】
戊は月柱甲から剋されている→戊は年柱癸を強力に剋す
→目上の人がいなくなる?

豊臣政権の下、「五大老」に就任。
秀吉亡くなる。
秀吉の子ども、秀頼の後見人になる。

庚子年/丙戌月/乙卯日(1600年10月21日)
関ケ原の戦いで石田三成を破る。

この日付びっくりですね。
丙庚乙戊癸組合(大運戊、年柱癸)ができてます。

卯申(庚-乙)暗合、卯戌支合もあります。
必ず大きな収穫ができる〈種子〉(後世に残るものを生み出せる)
と教えてくれているようなものです。

こうして家康は天下統一を果たしました。

癸卯年(1603年)
戊癸干合】、卯申暗合(庚-乙)、家康は種子を獲得します。
戊癸干合は公益事業
征夷大将軍に任命され、家康は江戸幕府を開きます。

大運丁未~丙午(62~75歳)

丁未大運。

日柱壬と丁が干合します。
丁壬干合には「新しい生命体を生み出す、芽を育てる」という意味があります。

卯未(甲己暗合)があります。
卯未合には、建築や建造物の意味があります。→未土の上で卯が成長する

家康はこの頃から江戸城と城下の大規模な造成事業をしたり、陸上交通の整備をしたりと江戸を大都市にまで発展させています。

丙午大運
【丙癸組合】午寅。

日柱壬は丙を剋す。→丙は辛を剋す必要がある
家康は辛を持っていない→家康の命式は循環が止まってしまう。
家康が亡くなった原因はここにあるのかもしれません。


丙午が来ると寅木はやせ細ってしまいます。午は寅と出会い光の拡散作用をする丙の力が強くなります。
様々な病気になったのはこの大運になったからだと思います。

乙卯年(1615年)【丙乙癸組合
大阪夏の陣で豊臣秀頼と戦い勝利し、豊臣家を滅ぼします。
「武家諸法度」・「禁中並公家諸法度」を制定。

壬には物質の破壊・丙には物質を完成させるという意味があります。

壬が丙を剋しているので、家康は今までのやり方を全て破壊して新しい制度を作ったと考えられます。
大運の丙は辛という剋す相手がいないため、丙(大名たち)を剋す壬(家康)の勢いは止まらないという状態です。それで家康は、朝廷や大名たちを完全に無力化させたのだと思います。

丙辰年(1616年)
寅卯辰の木方合ができます。
これで木気と火気が強くなり、水気はほとんどなくなります。→寅は痩せる

75歳。家康は病気で亡くなります。

この後江戸幕府は役260年にも長きに渡り続きました。



家康は命式と大運に恵まれました。
もし月上が戊だったら、社会に押しつぶされて生きる(人の下で管理されて仕事をする)人生になるところでした。天下統一どころの話ではないですね。


この大運が逆だった場合(春から夏の季節に行く大運)、天下人になっていなかったのではと思われます。
おそらく商売人をしていたのではないでしょうか。(自分の才能を社会に提供する仕事)

その場合、きちんと勉強した人ではないのでここまでの地位を築くこともなかったと思います。家康はかなりの勉強家でした。
ここまで長く生きることもできなかったかもしれません。
天下統一を目指せたのは冬から秋の大運を巡ったからでしょう。

天下統一の鍵は、月支が急速に成長する壬子大運にありました。
人質生活という名の英才教育の時期があったからこそです。
この成長した寅は長寿の理由でもあったと思います。

その後甲が根っこを張る己大運も来て新しく再スタートを切り、辛くとも忍耐強く長生きし天干統一を果たしました。

その後征夷大将軍に任命され、役260年も続く江戸幕府を開きました。

そして財星の大運丁未・丙午が来て、江戸を大都市にまで発展させ、財政政策や外交政策を一気に進めることができました。

徳川家康は命式と大運に恵まれた素晴らしい生涯を送ったと感じます。


身強・身弱の判断は、日干の根があるかどうかとはあまり関係がない、ということでした。

どの月に生まれたか、ということが四柱推命では一番大切になるということがわかりました。

読んでいただきありがとうございます。

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